第三節 第三話 出会い
――寒い。
日が落ちようとする頃、はっきりと自覚した。体がぶるぶると震える。
昔、家にやって来たソラが看病してくれた時も同じように震えていた。確か母とともに熱を出して寝込んでいたはずだ。
凍える体を抱える一方で、杖を握る右腕の傷は焼けるように痛む。発熱の原因はこれである可能性が高い。
改めて森を舐めてかかったことに対する代償を突きつけられた気がする。
考え得る限り最も安全な場所はイチカだろう。しかし、今から戻るにしては歩きすぎた。
今日一日の道のりを振り返っても、雨を凌げる空間を見つけることはできなかった。希望があるとすればまだ足を踏み入れていない場所だ。
あわよくば、ウラヤにだって辿り着けるかもしれない。
ウラヤの一角にあるマイハは夜でも明るい。きっと森の中からでもある程度近づけば見えるはずだ。
ユミはそれを信じて前へ進むしかなかった。
「なんか、むこーのほう、あかるいきがするなー」
辺りが暗くなり始めてからは、意識して声を上げた。そうしていないとぶっ倒れてしまいそうだった。
そのかすかに感じた
光を発している場所には広間があるように見えた。マイハのような華やかさはないが、どこかの村である可能性は高い。
ウラヤに帰り着いたわけではないのだと少しだけ落胆したが、誰かが居るのは間違いないだろう。
思えばしばらく人に会えていない。試験監督の二人が見守っているはずだが、ユミの前に姿を現すことはなかった。
孵卵を諦めたくないユミの意志を尊重してくれたのだとは思うが、今は誰かの優しさに触れていたいという気持ちの方が勝っていた。
ぽきっ
もう少しで森の切れ間に差し掛かろうという頃、持っていた杖が折れてしまった。ユミはその場で前のめりに倒れる。
もう立ち上がることなどできなかった。折れてしまった杖の片割れを離し、その手を光に向かって伸ばす。伸ばした手で地をつかみ、体を前へと引き寄せる。
右手、左手、……、右手。途切れながらも確実に進んでいく。
やっとの思いで上半身を森の外に出す。これならばこの村に住む者がユミの姿を視認できるはずだ。
腹ばいの体勢を息苦しく感じたユミは、最後の力を振り絞り仰向けになる。
「ふぅ……」
まだ助かったとは言えないが、希望をつなぐことができた。あとは運に身を委ねるしかない。
相変わらず寒気で全身が震える。助けを呼びたいが、クイとヤミが来てしまうかもしれない。
「おかあさん……」
代わりに出た言葉だった。
「ソラっ!?」
返事が返ってくるとは思わなかった。聞き覚えの無い女性の声だった。
――そうか、ソラがいるのか……。
ユミが冷静であればそんなはずの無いことは分かっただろうが、もう合理的な判断などできなくなっていた。
思わぬ友人の存在に安堵し、ユミは今度こそ意識を失った。
――――
目を覚ますと布団の中にいた。温かい布団だった。
孵卵に失敗してしまったかとも思ったが、それならウラヤの家に帰されるはずだ。
ユミは見覚えのない天井を見上げていた。それともここはトミサなのだろうか?
体の震えは収まっている。それでもなお重いと感じた体を起こし右腕を見ると、丁寧に包帯が巻かれているのが分かった。
意識を失う前に聞いた声の主が助けてくれたのだろう。
ユミが目覚めた部屋は障子と襖で仕切られていた。障子の向こう側からは光が透けて見る。その先には縁側があるのだろう。
そのままぼんやりしていると、ぐぅと腹が鳴る。
熱を出しながらあれだけ歩いたのだ。体が要求する通り栄養を摂取し、労ってやるのが良い。
やがて縁側の方からひたひたと足音が近づいてくる。人の影が写るのも束の間、障子がばっと開かれる。
開かれた先には歳の頃が30くらいの女性が立っていた。
彼女と見つめ合う形になったが、流れ行く沈黙に気まずさを覚え、口を開く。
「あ、あの……。助けてくれてありがとう。私はゆ……」
名乗り終える前に抱きしめられていた。他人とは言え、久しぶりに触れる人肌の温かさにユミは心地よさを覚えてしまった。
しかし、その拘束はどんどん強くなり、やがて息苦しさが勝る。女性を引きはがそうとするが、腹が減って力が出ない。
「ソラ、ちゃんと約束通り戻ってきてくれたんだね」
そうだ、ソラだ。気を失う前、ソラを呼ぶ声を聞いたんだった。
――ソラ? あのソラなのか? それとも知らないソラ?
イイバがどのくらいの広さで、森に点在する村をひっくるめてどれだけの人が生活をしているのか見当もつかない。
従って、ウラヤ以外にソラという人物がいてもなんら不思議ではない。
「私、ずっとソラのこと待ってたんだ。もうどこにもいっちゃ駄目」
腕の中でユミは考える。
――一体、誰のことをソラと呼んでいるんだ?
その答えにほとんど気づいてはいたが、本能が認めるのを拒否していた。
「さあソラ、私にその眼をちゃんと見せて」
少し拘束が緩くなり、密着が解かれると再び眼が合う。
丸みを帯びた瞼に青い瞳が見える。そこに映し出されたユミの姿が確認できるほど、すぐ近くに顔がある。
次第に女性の表情はうっとりと蕩け始め、頬が染まっていく。
荒くなる鼻息に触れ、ユミは気味の悪さを覚えた。それに耐えきれなくなり、強く眼を瞑る。
「閉じた眼もそっくり!あぁ、本当にかわいい」
――なんだこの眼に対する執着は!? 見せているから駄目なのか?
ならばとユミは両手で目を覆う。
「ごめん、ごめんね。急で驚いちゃったよね。いい子だから手をどかして、ソラ」
認めるしかない。この女はユミのことをソラと呼んでいる!
ユミは眼を覆ったまま言う。
「……らじゃない」
その声は小さく、震えていた。昨晩とは異なる系統の寒気を感じていた。
「ん? 何か言った? ソラ」
とぼけたようなその言葉に苛立ちを覚え、覚悟を決めて眼から手を離す。
「わたし、ソラじゃない!」
震えを断ち切るように叫びあげる。
「なんでそんなこと言うの!!」
ユミの両肩をつかみ、ユミの叫びにも勝る声量で女は叱りつける。丸みを帯びていたはずの瞼が吊り上がっていた。
「ひっ……」
ユミは親にもヤマにも大きな反抗をすることもなく、ソラと喧嘩することもなく育ってきた。
故にここまでの怒声など聞いたことがなかった。
恐怖で両眼から涙があふれ出す。
その様子を見て、女は嬉しそうに微笑みを浮かべる。
「もっと、もっと見せて。その眼にはまだたくさんの姿があるはず」
異常だ。ユミの眼を前にしてこんなにも楽しんでいる。
つい最近まで、誰かの役に立ちたいと思っていた。しかし、他人から求められることがこんなにも怖いことだとは知らなかった。
こんなことで自分の存在が認められたいわけではない。そんな気持ちに呼応するように、涙が一向に止まらない。
女性は一通り満足したのか、急に真顔になって言う。
「でもね、ソラ。ソラは私に言わないといけないことがあるでしょう?」
――一体何を言っているんだ。初対面のあなたに言うことなんてない。
心で思っていても、先ほどの怒声が耳をよぎり、口にすることができない。
何かこの女性を満足させる言葉を選ばなければ、また怒鳴られてしまう。
ユミが黙ったまま呆然としていると、女性は口を開いた。
「ソラは十数年ぶりに帰ってきたんでしょ? 帰ってきた時は何ていうの?」
それならわかる。ユミはおずおずと言葉を紡いだ。
「た、ただいま……」
女性はそっと微笑む。正解だったらしい。
「で?」
でって何だ? まだ足りないのか? ユミは頭を捻る。
これまでの言動からこの人が求める言葉を導き出さなくては。
何より気になるのはユミのことをずっとソラと呼んでいることだ。なんでソラなんだろう。
この人が言うには、ソラとは十数年前に別れたきりのようだ。そしてソラはこの人に帰ってくると約束している。
ユミの知っているソラは今12歳だ。十数年前となれば生まれているかどうかも分からない。
従って約束などできるはずない。またソラからそんな話を聞いたこともない。だったらこの人の言うソラと友人のソラは別人のはずだ。
しかし、この考え方もあっているのだろうか。13歳のユミを十数年前に別れた誰かと勘違いしているのだ。
ユミだってさすがにその当時の記憶までは持ち合わせていない。
該当の
そこから現在の人物象を予想することなどできるだろうか? それができるとしたら誰だ?
そこまで考えて恐ろしい発想が浮かぶ。ここへ運ばれる直前に発した言葉が鍵となった。
「お……、かあさん……」
女性は満面の笑みを浮かべ、ユミの頭を撫でる。
「じゃあ、あなたの名前は?」
「そ……、ら」
「そう、あなたの名前はソラ。これからずっと2人で暮らすんだからね。もうどこにも行かないでね」
――ごめんねお母さん。お母さんじゃない人をお母さんと呼んで。ごめんねソラ。勝手にあなたの名前を借りて。
そう、この人は私のお母さんなんかじゃない。何か勝手に勘違いしているだけだ。
私の本当の名前はソラで、わけ有って本当の母親から離れて今のお母さんのもとで暮らしているなんてそんなバカげた話があるわけない。
あるわけない状況を言語化してしまったことを後悔する。
しかし、現状をやり過ごすにはこの女性の娘になりきるのが最善であると判断した。
ためらう気持ちを振り払い、女性に抱き着く。ユミを撫でる手の力が一層強く感じられた。
娘であれば危害を加えられることはないだろう。機会を見てここから抜け出せばいい。
――荷物はどこだ?
女の胸元に頭を擦り付けながら横目で部屋の中を探るが、背負っていた風呂敷が見つからない。
今更気づいたが身に着けているものも、いつもと違うようだ。簡素な白い寝巻を着させられていた。
「ソラ、あとで一緒にお風呂にしようね」
その言葉にぞっとする。
ユミを着替えさせるため、既に裸は見たのだろう。その事実に気づきすごく嫌な気分がした。
「そ、それよりも私、おなかすいたな」
ごまかすように言う。
本当ならこんな人の作る食事など摂りたくはないが、実際に腹は減っていた。
荷物もない状態でここから抜け出し、行き倒れてしまうのも避けたかった。
「そうだ。ソラが起きたら食べてもらおうと思ってたんだった」
やっとユミの拘束を解いた彼女は立ち上がり、障子の裏側へ回りこむ。そこに置かれていた盆を運んできた。
粟と稗が混ぜられた米、青菜と茸の煮物。普段ウラヤで食べているものと大きな差はなさそうだ。
それを布団の近くにゆっくりと置く。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。……いただきます」
ユミは礼を言うと恐る恐る右手を箸に伸ばす。その間も女性はすぐそばに座り、ユミの眼をじーっと見つめてくる。
食べにくいな、と思いながらも左手に椀を持ち、箸で取った米を口に運ぶ。
「おいしい」
不覚にも正直な感想が漏れてしまった。やはり生存本能には抗えないようだ。
「ごめんね、ソラ。これだけしかなくて」
どこの村も似たようなものなのだろう。
ウラヤはトミサとの交流が盛んな方なので、まれに岩塩や砂糖といった贅沢品が入ってくる。
それも普段から口にできるものでもないため、ユミの舌は特に肥えてはいなかったし、量についても贅沢を言うつもりはなかった。
状況はともかく、今のユミにとっては屋根の下で食べる食事はありがたいものだ。
とは言え、食べ終えてしまうとこの後は風呂なのかと思い、憂鬱な気持ちになる。
ユミは時間を稼ぐように、ゆっくり噛みしめてから一粒一粒を飲み込んでいく。
「そうだ。この間フデさんが特別な茶葉が入ったとか言ってたんだ」
食事を終えると、待っていましたと言わんばかりに女性が立ち上がる。
茶と聞いて嫌な予感がする。思い出されるのは孵卵の前夜、口にしたあの茶だ。
ハコの前だったからよかったものの、この人の前で飲んだらどうなってしまうんだろう。いや、むしろこの人が茶を口にする方が怖い。
「その前に……」
女性は懐から白い帯のようなものを取り出す。
「ソラ、私はちょっと出かけてくるけど約束してくれる?」
既に従順になるしかないと思っていたユミは、即座に頷く。
「いい? その眼で私以外を見ては駄目。その眼を私以外に見せては駄目」
なんてことを言い出すのだろう。食事を摂り、少しだけ開きかけていたユミの心がぴしゃりと閉じる。
――何故そんなに私の眼を独り占めしたいのだろう? 私の眼にそんな価値があるのか?
戦慄を覚えながらその場で固まっていたが、頷く前に女はその白い帯でユミの眼を隠してしまった。
ユミの前に闇が広がり、代わりに音が鮮明に聞こえる気がした。
カタ、ばっ、ひたひたひたひた……。
恐らく盆を下げて行ったのだろう。すぐそばに女はいないはずだ。
目隠しくらい外そうと思えば外せる。しかしいつ彼女が戻ってくるかわからない。
布団の上で目覚めてから、すでにユミはいくつもの恐怖を体験した。間違いなく夜の森よりも怖い。
目隠しを外した状態で、女が戻ってきた時のことなど想像したくもない。
ユミは手探りで布団をつかみ、その中に潜り込む。体の震えが止まらなかった。
――――
どれくらいの時間が経っただろう。震えすぎて感覚がおかしくなっていた。
不意に、ばっと障子の開く音が聞こえ、それに呼応して背筋が凍り付く。
次いで足音が近づいてくるのが分かった。
――大丈夫、この人は私を監禁したいだけ、殺されるようなことはない。
監禁なら大丈夫、などという異常な感覚に支配されていたユミは、もう身を委ねてしまおうと覚悟する。
「お姉さんは僕の姉さんなの?」
予想に反して聞こえてきた声は、少年のものだった。
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