第二節 第二話 拠点
しばらく森を歩いていると、やっぱり茣蓙が邪魔だな、と思った。
決して重くはないが、長い時間担ぎ続けていると肩がおかしくなってくる。
――拠点を作ろう。
そう思い立った。
昨晩母と戯れてから目覚めるまでの時間はせいぜい半日ほどだ。
二人の試験監督がその間にユミを運んだことになる。
子供のユミの足と、ユミを抱えて歩く二人の大人の足、どちらが早いだろう?
恐らくは森に慣れたクイとヤミの方が早いと考えるのが妥当だ。
それを考慮しても、目覚めた場所からまっすぐ村へ向かうことができれば一日もかからず目標にたどり着けるはずだ。
どこかに今抱ええている荷物の置き場所を作り、拠点とする。
明るいうちに森の探索を行い、日が暮れる前に拠点へ戻ってくる。それを繰り返せば、そのうち帰り着けるのではないか。
そこまで考えて思い直す。
そもそも森は迷うのだ。拠点を作ったところで戻って来られる保障はない。
一体これまでの合格者はどうしてきたのだろう。
かつてヤマも受けたという孵卵について聞いたときは「大事なもののことを思うことだ」とだけ答えが返ってきた。
「おかーさーん…………」
とりあえず声に出してみる。
「…………そらー…………」
当然返事はない。虚しさが広がるだけだった。
――長期的なこと考えるのはやめよう。まずは今晩の寝床だ。なるだけ安全な場所が良い。
しかし、どこまで行っても同じように木々が生い茂っている。どこなら安全と言えるのだろう。
木が倒れてきたら?獣に襲われたら?危険が迫った時にはクイとヤミは助けてくれるのだろうか?
昨夜ユミが森の中に横たわっている姿、それを傍から見た様子を想像してぞっとする。
――腹を満たすことを優先しよう。
焦りのためか思考がどんどん単純になっていく。しかし、方針さえ決まってしまえば手も動く。
その場に茣蓙を下し、ざっと周りを見渡した。
たべもの、たべもの、たべもの。頭上から足元まで目を凝らす。
――食べられそうなものが……ある。茸だ。
ヤマから聞いた知識を頭に巡らせる。実物を見ながら食に適するもの、適さないものを教わった。見分け方は完璧だ。
これは、……よし、大丈夫。根本に白い卵のような殻、赤い傘、軸は黄色い。タマゴタケだ。食べられる。
こっちのは、……だめだ、さっきのと似ているが軸が白い。
しばらく夢中で食料を探した。目が届く範囲で見つけたものを茣蓙の上に置いていく。
――これが森の恵みか……。
茸をはじめ、いくつかの木の実が集まった。
村の大人たちが森に入っては持ち帰って来たものを思い返す。
あれらも鳩がいなければ村にもたらされることはなかったのだ。勇敢にも森に挑んだという父に感謝しつつ、改めて鳩の存在意義を実感した。
日が傾き始めるころには明日の朝までなら凌げそうなくらいの量が集まっていた。
――あとは火か。
ここまで働いたのだ。つまらないことで腹を壊したくはない。
すぐ傍から落ち葉や枯草、木の枝を拾い、集めた食料とともにまとめて置いた。
――まだ日が落ちるまでに少しは時間があるはずだ。
一仕事終えると少し落ち着きを取り戻した。今度こそ寝床を探そうと方針を定める。
今日の成果を茣蓙に包み、両手で抱えるようにして持つ。
立ち上がろうとしてその場でよろめく。食料探しに夢中で自覚していなかったが、やはり疲労が蓄積していた。
――いっそこのまま野営しようか。ここなら少しだけ広間になっているし、……星空もきっと綺麗だ。
すでに探索する意欲を失せてしまったユミはその場にとどまる理由を模索する。
やがて大きく頷き、持っていた茣蓙を広げ直しその場に置いた。
その上から枯草を手に取り、くしゃくしゃと丸めて荷物から少し離した場所に置く。
焦がしたらやだなと思い羽織を脱ぎ、茣蓙の上へ丁寧に畳む。
風呂敷の中から火打石と火打金を取り、枯草の上で打ち付ける。火花が散る。しかし、なかなか火が移らない。
――家で何度もやっていることだ。落ち着け私。
繰り返し着火を試みるとやがて枯草へ火をつけることに成功する。そこに落ち葉を足し、息を吹きかけると火が大きくなっていった。その上に木の枝を組んでいく。枝に火が燃え移ったことを確認すると、ユミは立ち上がり新たな燃料を探し始める。
もっと太い薪があれば炎を長時間維持できるはずだが、すぐ傍には手ごろなものが落ちていなかった。一歩、二歩と火元を離れていく。三十歩ほど歩いたところで気づく。
――あれ?……もしかして結構まずいのでは?
慌てて振り返る。ちゃんと火から煙が立ち上っているのが見えた。
「ふぅ」
森では方角が分からなくなるはずだ。わずかな距離でも帰って来られなくなると聞いている。
目印があったとはいえ、持ち場を離れたのだから荷物を丸ごと紛失していた恐れもある。
一体どれくらい離れていたら戻れなくなっていたのだろう?
二人の試験監督はどこから自分を見ているのだろう?
幸いにも今回は煙があったから問題なかったのだろうか?
だとすれば……、目印増やしてしまえば迷うことはあるのか?
何か気づいてはいけないことにたどり着いてしまったような気がして、ひとまず考えるのをやめた。
――それよりご飯だ。
火元から離れたことで、太さはともかくそれなりの数の枝を確保することができた。
木の枝にタマゴタケを刺してあぶる。焦げ目がついたところでふーっと息を吹きかけ、それにかぶりつく。
――まあ食べられるか。
何の味付けもしていない焼いただけの茸。香りはよかったがあまりおいしいとは思えなかった。贅沢も言ってられないが。
続いて木の実を殻ごと火にくべる。しばらくするとぱんと音を立て爆ぜる。焚火から飛び出したそれを恐る恐る拾い上げ、手の中で転がす。持てるぐらいに冷めたので殻を割り口に放り込んでみる。
「ぐえー」
吐き出してしまった。やはりコナラはあく抜きが必要だったか。分かってはいたがそれには大量の水がいる。
今はそれよりも口直しが優先だ。竹筒に入った水をちびちびとすする。今朝食べた握り飯の味が懐かしい。
呆然としていると火も消えてしまった。
「お母さん……」
懐から母の文を取り出す。文面は覚えているが母の文字にも縋りたい気分だった。
――愛しています。お母さんより。
ぎゅっと文を胸に抱きしめる。
ユミの周辺は何とか文字が読み取れるぐらいの明るさが残っていた、腹も満たされていない。しかし、もう何もやる気が湧いてこない。星空だってどうでもいい。
履物を脱いで茣蓙に寝ころび毛布をかぶる。
目を瞑り無理やり闇を作り出す。
昨晩飲んだ茶が恋しくなる。幻想でもいいから温かな気持ちで微睡んでいたかった。
顔に落ちる雫で目を覚ました。
――最悪だ。
幸いにも辺りは明るみ始めていた。慌てて履物に足を入れ、羽織りに手を通し、風呂敷を担ぐ。
雨具代わりに頭から毛布をかぶり、体を抱えるようにしてその端をつかむ。茣蓙はもう諦めた。
木の隙間から落ちる雨の下、一心不乱に駆け出していく。行先なんてわからない。少しでも濡れない場所を探し求めた。
雨足が強くなり、毛布に水が染み込んでいく。
雨で視界が歪む。ユミ自身の涙だったかもしれない。目元を拭えるものも濡れてしまった。
ヤマの言葉を頭に巡らせる。
――少しの雨でも濡れるのは危険だ。体を冷やせばお前は力をどんどん失っていく。
「そんなのわかってるよぉ」
大事なのは濡れないためにはどうすれば良いかだ。
「なんとかしてよー。そらー……」
友人の名前が憎くなる。今まさに空に虐げられていた。
叫んでいないと気がおかしくなりそうだった。
森に願いが通じたのだろうか。視界の先に黒い穴が見えた。それに向かって足を急がせる。
近くまで来ると、それは小さな洞穴だとわかる。中は大人が5人くらいは寝起きできそうなくらいの広さがある。
「たすかった……」
中へ入り足元に荷物を置き、尻が汚れるのも構わずどかっと腰を下ろす。
とにかく雨が止むまでここで休もう。
走っている最中は時間がとてつもなく長く感じたが、冷静になってみると昨晩の寝床からそこまで遠く離れていないのだろうと気づく。
ユミは自身の行動力の割に体力の無いことを自覚していた。それで何度ももどかしい思いをしたことがある。それでも走って来られたのだから大した距離でもないはずだった。
――昨晩のうちにここへ来られてたらな……。
悔やんでも仕方ないが、冷えてしまった体を抱きながら心でぼやく。
風呂敷に食料は入っているが、燃料が濡れてしまっている。せめて水だけでも汲んでおこう、と鍋を取り出し雨の下に置いた。
雨は日が昇り切る前に止んだ。
荷物を乾かそうと思い風呂敷を日の下へ広げようとしたが、洞穴の前は依然としてぬかるんでいる。その場に置いたら乾いたとしてももっとひどい状態になりそうだった。
――やっぱり茣蓙がいるか。
そう考え、雨の中走ってきた道のりを頭でや辿る。
――戻れるんじゃないか?
目の前には頭で廻った道と同じ景色がある。今度はわかりやすい目印もない。
森の中などどこも似たような景色だが、ユミは通ってきた道のりをはっきりと思い出すことができた。
「戻ろう」
口に出したら早かった。荷物を肩にかけたまま立ち上がり、記憶を頼りに今朝の道を引き返す。
案の定、茣蓙はあっさり見つかった。濡れてしまってはいるが、汚れはひどくないので乾きさえすれば十分に使えそうだった。
茣蓙をくるんで両手に抱え、洞穴へと引き返す。
今度こそ「森は迷う」という縛めに戸惑いを覚えた。
――もしかして私、鳩の素質があるのかも。
そう考えるのが妥当だろう。
しかし、孵卵の合格条件は「村へ帰ること」だ。素養があったとしてもそれを試験監督に示せなければ鳩にはなれない。
とにかく当初の計画通り拠点を得ることができた。
ユミは少し考えた後、呟いた。
「イチカ」
それがこれから拠点にする洞穴の名前だった。
イチカを拠点とする暮らしは思いの外快適だった。
初めの内こそ迷うことに慎重で、探索できる領域は狭かったが次第に大胆になっていく。
少し足を延ばせば木の実などの食料の他、植物の蔓などが手に入った。
歩ける距離に川を見つけた時は飛び上がって喜んでしまった。服を脱ぎちらし身を清める。ちょうど体の臭いが気になる頃だった。
川では沢蟹や貝類も見つけることができた。水にさらしておけば木の実のあく抜きもできそうだ。
気づけばイチカと川を往復する日々を送っていた。
また雨の日にはイチカにこもり、蔓で敷物を編み、枝と石で石斧を作った。これでもっと豊かな暮らしになるはずだ。
イチカの備蓄も増えていくとユミの心に余裕が生まれ始めていた。
――明日は何しよう。罠なんか仕掛けたら兎とか捕まらないかな?
眠りにつく前、毛布をかぶり考える。
ウラヤで獣肉を入手する方法は2つあった。森に入り弓で射たものを持ち帰るか、村の畑周辺に仕掛けられた罠へかかるものを回収するかだ。
いずれにしても、兎をはじめ鹿や猪などが入るとユミもその解体を手伝わされた。
獲物の腹を裂き、内臓を取る。皮を剥いで、串に吊るし焚火の上で丸焼きにする。それはとても良い香りがした。
しかし、村にとっても貴重な食料である。ユミが一口でもおこぼれをもらえれば良い方だった。
ウラヤの経済は村の一角にあるマイハの女たちに支えられている。
女たちは百舌鳥と呼ばれ、トミサからやってきた男の鳩をもてなすのだそうだ。鳩はこの時ばかりは郭公と呼ばれるらしい。
ユミにはまだその意味が分からなかったが、とにかく百舌鳥はウラヤにとって重要な存在らしい。
肉は百舌鳥達に優先的に与えられた。それを指を咥えてみていたユミは一度贅沢にかぶりついてみたいと思っていた。
孵卵の前夜、ハコとユミの親子は特別に兎肉を分け与えられ食卓を囲っていた。貴重な一切れを箸でつまみユミは呟く。
「鳩になれなかったら、百舌鳥になろうかな」
これにはハコが顔を真っ赤にして反対した。その顔は怒っているようにも見えたし、悲しんでいるようにも見えた。
それでも食べ盛りのユミの気持ちを察し、肉を一切れユミに分けてくれた。
味も然ることながら母の優しさにも触れ、とても温かい気持ちに満たされたのだった。
それ以来どれだけ口にしていなかっただろう、とイチカでの暮らしを振り返りその日数を数えてみる。
十二日まで数え上げたあたりで幸いにも気づく。
「何やってるんだ私は!」
叫んでしまっていた。
ユミの目的はなんだ?森での生活基盤を築くことではない。ウラヤの村に帰ることだ。
十日あれば遅い者でも村に帰り着くか音を上げる。そう聞いていたはずだ。
ヤマの言葉が蘇る。
――あんまり頼もしすぎても鳩にはなれないんだけどねぇ……。
当たり前じゃないか!
その言葉の意味を理解する。まるでイチカを村であるかのように振舞っていた。そしてウラヤに帰る意志を見失っていた。
――大事なもののことを思うことだ。
もう1つの言葉が頭をよぎる。その途端、母とソラの顔が思い浮かぶ。
――今の私に必要なのはこっちの記憶だ。
二人だって十日以内でユミが帰ってくると思っていたはずだ。今頃どれほど心配しているか分からない。
――今日はもう寝る。でも明日からは……。
しばらくイチカには帰らない。
そう決意をしてユミを瞼を閉じた。
イチカに帰らないとの決意が揺らがぬよう、その翌朝目を覚ますと朝餉はそこそこにささっと身支度を済ませた。
いつも通り髪を結い、羽織の上から帯を巻く。そして帯の左側には小刀を吊るす。
茣蓙と毛布はイチカに置いていくことにした。代わりに作った敷物を風呂敷に詰め、空いた腰の右側には石斧を挿した。
――きっと大丈夫、イチカがすぐに見つかったんだから似たような場所が他にもあるはず。
こういった楽観的な発想がユミの行動力を支えていた。
とは言え、目的地は明確であるが到達のためにはどこへ向かえば良いか分からない。
ユミは一枚葉の残っていた枝を拾い、上空に向かって投げる。
やがて地面に落ちたその葉先を見て、今日はこの方向に進もうと決めた。
イチカへ振り返らないようにその場を発ち、鼻息を荒くして歩を進める。
道中、草むらで2羽の兎が戯れているのを発見した。
昨晩の空想を思い出し、腰から石斧を抜くと2羽に向かって投げつけた。しかし、石斧は兎から大きく外れへなへなと落ちる。
兎たちは邪魔されたことに腹を立てたのか、戦意をむき出しにした4つの眼を向ける。が、やがてぴょんと跳ねその場を立ち去ろうとした。
ユミはむきになってそれを追いかける。落ちていた石を拾っては投げ、拾っては投げを繰り返す。しかし1つも命中することはなかった。
周りを気にせず追いかけたせいだろう、仕舞には大きな木の根に躓き転んでしまった。
「うっ……」
顔をかばおうとして出した右腕に尖った小さな石が刺さっていた。
何も考えずそれを引き抜くと血があふれ出した。痛みで顔が歪み、涙が零れ落ちる。
ユミは上体を起こし、その場で風呂敷の結びを解いた。中から竹筒を探し、傷口に水をかける。次いでイチカ付近で拾い集めた蓬を擦り付けた。
血が止まったことを確認し、一緒に取り出した手ぬぐいを巻く。しかし片手ではうまく結べない。無いよりかはましかとゆるゆるの状態で固定した。
さらに蔓の敷物を風呂敷から引っ張り出し、近くの木の根元へ気だるげに置いた。そこに腰をかけ幹へと身を委ねる。
我ながらバカなことをしたと反省する。
石を投げて足止めしようが、兎を追いかけて捕まえられるわけがなかった。
ましてや人よりも運動能力の劣るユミである。かけっこをすればソラにも勝てない。
森での生活が長くなり慢心もあったのだと思う。好奇心と食欲を抑えることができなかった。
右腕の傷が疼き、視界が歪む。無意識に竹筒の水を煽る。
「けほっ、けほっ……」
息も荒くなっていたようだ。
しばらく動かない方が良いと判断し、ぼーっと辺りを眺める。
すると先ほど投げた石斧が転がっているのが見えた。それを投げつけた時の軌道を思い出し、情けない気持ちになった。
――私の取柄って何だろう?
ヤマに物覚えの良さを褒められはした。そしてその知識でイチカでの生活も確立した。
しかしどうだろう。それが誰の役に立った?
ソラは年下でありながら既に医術をウラヤの住民に提供している。
何よりもあの心優しさだ。いつも誰かのためにできることを模索している。
今のユミの右腕を見ればきっと涙を流して手当してくれただろう。その心遣いが人の痛みを癒すのだ。
ユミにしたって、母を想ってこの場にいるのだから優しい心を持ち合わせていないわけではない。
問題なのはその心を置いて、やりたいことが新しく出来てしまうことだ。
結果として母への想いもそれに起因する興味も満たすことができない。
――歩こう。
立ち上がるとまだ頭がぐらぐらしていた。
ユミはよろよろと石斧に近づき拾い上げ、近くに生えていた木から枝を叩き落とす。
今のユミに課されたことは村に帰ることだ。目安の十日は過ぎているが、あくまでもそれは過去の受験者の実績だ。制限日数が規定されているわけではない。
ソラだってユミほど物事に対する理解が早いわけではないが、幼い頃から叩き込まれた技術をものにして役立てている。
他人よりも時間がかかってしまってもこの課題を成し遂げてしまえばユミの勝ちだ。母を助けることが叶う。今度こそ人の役に立てるのだ。
落とした枝を両手でつかみ、それを杖にして体重を預ける。
――大丈夫だ、前は見えている。
ユミは重い足を上げ、一歩、また一歩と着実に前へ進んでいった。
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