鳩の縛め
ベンゼン環P
第一章 孵卵
第一節 第一話 目覚め
目を覚ますと森の中にいた。
正確にはここは森の中なのだろうと推測した。
何故ならユミが森に入るのはこれが初めてだったからだ。
そして母からも森には近づかないようきつく言い聞かされてきた。
森はこのイイバの地の象徴である。また森の合間を縫うようにいくつかの村が点在している。ユミが住むウラヤも村の1つだった。
村と森との境界はあいまいなものである。しかし境界を1歩でも超え、森に踏み入ってしまうと、人は方向が分からなくなり村に2度と帰って来られなくなるのだと言う。
ユミはウラヤの村に大切なものが2つあった。母のハコと友人のソラだ。村に戻れなくなれば大切なものを同時に2つも失うことになる。それはとても怖いことであり、生まれて以来13年間母の
一方で、森の中を例外的に迷わず歩ける存在がいる。それは鳩と呼ばれる人々だ。
鳩を伴い、村の大人たちが森へ狩りに出かけるのをユミは眼にしたことがある。
彼らは鳩とともに様々な森の恵みを持ち帰ってくるのだ。もはやイイバでの生活は鳩を無しに成り立たせることができない。
しかし、その鳩を以てしても森の脅威は侮れない。ユミの父親は文字通り、森に入り帰らぬ人となったと聞いている。
それもあってか、まだ子供のユミは鳩を伴っても森へ入ることを許されていなかった。
上体を起こし改めて辺りに目をやると、見たことのない景色に呆然としてしまう。
これまでも村の中から森を眺めたことはあったので、きっとたくさんの木が立ち並んでいるところなのだという認識は持っていた。
それが今はすぐ眼の前にある。それどころか背後にも、木々の繁茂は及んでいる。
一方で頭上を覆う枝葉からは、陽の光が差し込んで来ていた。まばらな光ではあるが、周囲の状況を確認するには十分な明るさがあった。どうやら長い間眠りこけていたらしい。
縛めに抗い、森に入る決意をしたのはユミ自身だ。しかし、自らの足でここまで来たわけではない。
ご丁寧にも体の下には
周りに誰もいないことを確認すると少女はあぐらをかき、1つ大きなあくびをする。
右の手元には見覚えのある風呂敷が置かれてあった。風呂敷がここまで膨らんでいることはめったにないが。
その結び目には一通の封筒が差し込んである。
寝ぼけた頭のまま封筒を抜き出してみると「おはよう 弓」と書かれているのが分かった。まるまるとした母の文字だ。
「お母さん?」
ユミはそうつぶやくと、封筒の中から文を取り出し読み進める。
――お母さんです。ごめんね弓。家の中じゃなくてびっくりしたでしょう。でもこれがふらんの規則だそうです。
しかしユミにとって字を覚えることは造作もないことだった。これから受けようという試験の名前ぐらいは認識している。
――弓のことはこれから
クイとヤミとは孵卵の試験監督を務める鳩である。七日ほど前に対面した折に、彼らはそのように名乗っていた。
此度の孵卵においてユミは鳩たる素質を二人から見極められることになる。
試験の合格条件は森からウラヤの村に帰ること、とだけこの時は聞かされていた。
寝ている間に森へ連れて行かれるとは聞いていない。どうやら試験はすでに始まっているらしい。
――改めてありがとう弓。お母さんを思ってくれて。とてもうれしいです。
ユミが孵卵を受けるきっかけを作ったのは母だった。
母は病弱である。そんな母にとって日々の畑仕事は身に堪える。
ぐったりとした母に寄り添い、村にある医院には何度も通ったものだった。
「トミサに行けば、もっとちゃんとした医術を受けさせてあげられるんだけどねぇ――」
医院を営むヤマの言葉である。
母を看病しながらヤマはぼそっと呟いただけであったが、ユミがそれを聞き逃すことはなかった。
トミサと言えばイイバの中心の村である。各地の村から鳩が集い、医術をはじめ様々な物や文化が入ってくると聞く。
「どうすればお母さんをトミサに連れて行ってあげられるの?」
自然とユミの口が開いていた。
「お前が鳩になればハコとともに行くことができるさ」
ヤマの答えを聞いたユミは居ても立っても居られなくなった。
ヤマの医院を飛び出し、ウラヤの巣に向かって駆け出していく。
巣とは鳩が駐在する場所である。ユミはこれまでも、ヤマに頼まれ薬を受け取りに行くことが何度かあった。
巣の扉をばんと開け、既に顔なじみとなっていた鳩のカサに向かって声高らかに宣言する。
「私、鳩になる!」
――でもね、弓。絶対に無理だけはしないで。
ユミに対峙するカサは、実に面倒臭そうな顔をしていた。
そんな中、ハコがユミの後を追って巣に入って来る。
ユミ自身足は速くないが母はそれ以上に遅い。母を走らせてしまったと少し後悔した。
しかしハコは、自身の疲労以上にユミに対する心配の方が強く感じていたようだ。
カサはそんなハコを見かねたように、渋々と説明を始める。
「鳩になるには孵卵の試験を受け、合格することが必要だ。孵卵の試験は森で行われる」
そう聞いたハコはみるみるうちに青ざめていった。大事な娘を危険な森に行かせるわけにはいかない、そう教えてきたはずだった。
ユミは既に規定の年齢に達しており、ハコの同意さえあれば孵卵を受けることができた。しかしやはりと言うべきか、なかなか承諾を得られなかった。
――危ないと感じたらすぐに助けてと言いなさい。杭さんたちがウラヤまで連れて帰ってくれるそうです。
ユミはその一文を読み、一瞬背筋が伸びる。もしかして二人はすぐ近くにいるのだろうか?
あぐらをかいていたことに少し羞恥心を覚える。しかし今更遅いかと開き直り、伸びた背筋をゆったりと弛緩させた。
過去、孵卵へ挑んだウラヤの住民達も、危険を感じた折には助けを呼んでいたそうだ。その時点で試験は落第となるが、試験監督の働きによって受験者は村へ帰され、生還を遂げることになる。
カサから説明を受け、ユミの安全が保障されていることを知ったハコは、ユミがどうしてもやりたいことならと背中を押してくれた。
しかしユミは簡単に助けてと言うつもりはなかった。
心配性の母のことである。1度落第すれば2度と受験を許してはくれないだろう。
――風呂敷には森の中で役に立ちそうなものを入れておきました。使い方は山先生から聞いているでしょう。
ヤマも昔は鳩だったらしい。彼女は十年ほど前に鳩を引退し、故郷であるウラヤにて医院を営む決意をしたそうだ。
改めて孵卵を受ける旨をヤマに告げると、森での過ごし方を伝授してくれた。「自己流だがね」という言葉と共に。
今年71になる彼女はたくさんのことを知っていた。
水や食料の調達方法、火の起こし方、怪我した時の対処法等。
ユミはそれらをすぐに吸収し、ヤマを驚かせた。
「あんまり頼もしすぎても鳩にはなれないんだけどねぇ……」
意味深長な言葉に疑問を持ちながらも、ユミは日々できることが増える喜びを感じていた。
――おにぎりも入っています。目が覚めるころには冷めてしまっているだろうけど心を込めて握りました。
ユミは文を置き、無造作に風呂敷の結びを解く。腹が減っていたせいだろう、竹の皮の包みへと真っ先に目が行く。それを開くと中に握り飯が2つ入っていた。どちらもユミの片手にちょうど収まるくらいの大きさだ。
真っ白、とは言えないが、村で穫れた米で作られた握り飯だ。
ユミも村を上げた米作りに参画していたから、米には特別な思い入れがある。
我慢できず握り飯を口に運ぶ。おいしい、そう思うと同時に一粒の涙が零れた。少し緊張が解けたようだ。
「ちゃんと帰れるのかなぁ」
先ほどとは打って変わって弱気になってしまう。
帰り方など聞いていない。鳩が皆そうしているようにとにかく帰るしかないのだ。
試験監督の2人からは、試験難易度の目安を聞いていた。
合格者は100人に1人程度。早ければ3日、遅ければ10日ほどで村に帰り着くか音を上げる。
少なくとも今晩は1人で眠りにつくこととなるだろう。ユミにとっては初めての経験だ。
右手に握り飯を持ち、左手で文を拾い上げ続きを読む。
――昨晩は久しぶりに弓が甘えてきてくれて、お母さん本当はうれしかった。
昨夜の記憶がよみがえり、体がぽっと熱くなる。
夕餉を終え、いつになく落ち着きのないユミを見て母は茶を淹れてくれた。
湯のみを受け取り茶をすすると、かすかな甘みがゆっくりと口に広がり、恍惚とした気分が体中を駆け巡った。
そのまま母に抱き着き「いっしょにねていい?」と縋った。
母は微笑みユミを寝床へといざなった。
そこから先はほとんど夢の中だった。どうしようもなく母を求めてしまった。
今思えばあの茶が原因だったのではないだろうか?
この歳になっても母に甘えたいと言う欲求は心のどこかにあった。
しかし、母を安心させたいと言う思いからずっと我慢を続けていたのだ。
茶の味で体が火照り、欲求を縛めていたものがかき消されてしまったように思う。
――必ず帰って来なさい。お母さんを空に取られたくなければね。
きっと冗談で書いた、のだろう。不意に心の中で嫉妬の灯が点る。
友人のソラには親がいない。物心ついたころからヤマに引き取られ、弟子として育てられたのだそうだ。
ウラヤの子供たちは親のことを気にしない。そういうものだと教わってきた。ユミは母親がいるだけ恵まれた方であった。
ユミの1つ年下のソラは素直な優しい性格で、行動的なユミを受け入れ次第に仲良くなっていった。
またハコもソラのことを気にかけ、本当の子供のように接していた。
ユミは母をソラに取られたくはなかったが、ソラのことも母に取られたくなかった。
故にユミが孵卵を受けると決意した時に、ソラも一緒に鳩になろうと誘ったのだった。
ソラは俄然やる気を見せたが、ヤマは怖い顔を作った。それはユミもソラも初めて見る顔だった。
「おいおい、優秀な弟子がいなくなったら私はどうすればいいんだい?」
ソラは泣きそうな顔になり、「ごめんなさい」と謝った。
するとすぐにヤマは優しい表情に戻り、静かにソラの頭を撫でた。
「お前が17歳になり、誰か気に入った相手がいればここから出て行けばいいさ。その土地でお前の能力を存分に発揮してやるといい」
ソラは小さく頷いた。
その時声には出ていなかったが、ヤマの口が「ごめんな」と動いているようにユミには見えた。
――愛しています。お母さんより。
文を読み終え、まだ手に残っていた握り飯をゆっくり噛みしめる。
食べ終えてしまってから、同様に風呂敷に包まれていた竹筒を取り、入っていた水を飲んでごくりと喉を鳴らす。
――この水も貴重だな。
そして改めて、託された荷物を確認する。
先ほど手にした竹筒、火打石と火打ち金、小さな鍋に椀、匙、縄、手ぬぐい、小刀、小刀を収め腰に提げるための袋、髪を束ねる赤い織物。
心許ないと思ったのが正直な感想であったが、足りないものは現地調達するしかない。ヤマから教わった記憶が役に立つはずだ。
風呂敷の下には羽織と赤い帯がたたまれて置かれていた。それにはしっかりと折り目がついており、気が引き締まる思いがした。
そしてユミが横たえていた茣蓙の傍らには履物が並べられている。
――身支度をしよう。
まず母の文を封筒に戻し、大事に懐へしまう。既に文面は覚えてしまっていたが、懐に温もりを感じる気がした。
そして赤い織物を手にし、髪を結いあげる。
小刀以外は風呂敷にしまい、元のように結ぶ。
羽織に手を通すと袂にあしらわれたツツジの花があらわになった。ウラヤの村にも咲き乱れる花であるが、ユミのお気に入りの花でもある。
羽織の上から帯を腰に巻き付け、腰の左側に小刀を吊り下げる。さらに肩から風呂敷を斜めがけに背負った。
最後に履物へ足を通す。
「よし行こう」
しかし取り残された茣蓙と毛布を見てためらう。
――ここに置いていくわけにはいかないよな。
考えた末、毛布は羽織り、端部を首の前で結び付けておくことにした。
茣蓙はくるくると巻き付け1本の棒状にして肩に担ぎ上げた。
「行ってきます」
誰もいない空間に呼びかける。
その言葉には、近くにいるだろう二人の試験監督への宣戦布告、ハコとソラへの必ず戻ると言う決意表明が込められていた。
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