第四節 第四話 誘拐
要約動画はこちらから(https://youtube.com/shorts/FBLjC5K6WK0)
ユミは女の声でないと分かり、少しだけ安堵感を覚えた。目隠しのまま起き上がり、声のした方向を振り返る。
「大丈夫、母さんは今寝てる」
声の主はユミの不安の種を把握しているようだ。
その声を聞いても緊張が続いたが、やがて目隠しがするりと外される。
その場で正座した少年と眼の高さが合う。丸みを帯びた瞼と青い瞳――先ほどの女性とよく似た眼だと思った。
少年はユミの眼を見て一瞬たじろいだが、すぐに優しい表情になり微笑んだ。
「あ、かわいい」
ユミはぽろっと漏らしてしまう。優しく微笑む姿に眼を奪われてしまったのだ。それはどこかソラにも似た雰囲気がある。
少年の表情は気恥ずかしそうな色に変わる。その右の頬にうっすらと赤黒いあざが浮かんでいることに気づいた。
「さっきの女の人があなたのお母さん?」
徐々に緊張の解けてきたユミは、自然と口が開いていた。
「そう、あれは僕の母さん。母さんはお姉さんを拾ったとき、ソラが帰ってきたって喜んでた」
「ユミ」
ユミは強い口調で制した。
「私の名前はユミ。ソラじゃない」
「ユミ!」
少年は満足そうに呼び返す。
ユミも久しぶりに名前を呼ばれたことが嬉しくなる。
「ユミは僕の姉さんなの?」
しかし、先ほどと同じ質問に顔をしかめてしまう。
「それは違うよ。私はあんな人の娘なんかじゃない」
声に出してからしまったなと思う。あんな人でもこの少年の母親なのだ。
「じゃあ、ユミは誰なの?ここで一緒に暮らさないの?」
少年は残念そうに言う。母親をあんな人と呼ばれたことよりもユミとのつながりが切れてしまうことが嫌なようだ。
「私はここにはいられない。すぐにでもウラヤに帰らないと」
「待って!」
食い入るような、縋るような声だ。
「もう少しだけ僕とお話しして」
青い瞳はユミの眼をじっと捕える。今度はそのまま視線を離そうとしない。
ユミとしても休めるものならもっと休んでいたかった。ただ懸念点が1つ。
「あなたのお母さんは本当に寝ているの?」
「うん。さっきもらってきたお茶を飲んでから動かなくなっちゃった。うっとりとした顔はしてたけど」
やっぱりあのお茶だ。人を幸せな気持ちにさせたあげく、眠らせてしまう効果があるのだろう。
ユミへ与える前に自身で試してみたのだろうか。
それならば当分起きることはないはずだ。ユミを眠らせたまま森まで運んだ実績がある。
しかしあの茶を飲んだというのなら、ユミが母を激しく求めたようにあの女性はこの少年を前に、溢れ出る欲求を自制できたのだろうか?
「えっと……、あなたは無事だったの?その……、そのお茶多分やばいやつだから……、お母さんはあなたに変なことしなかった?」
「変なこと?」
あまり具体的なことは言いたくない。それに見たところ少年はユミより年下だ。まだ分からないこともあるだろう。
「あなたが無事ならいいの。あなた……」
だんだんあなたと呼び続けることが変だなと感じてくる。
「あなたの名前は何ていうの?」
「僕はキリ。父さんからもらった大事な名前なんだ」
キリはその質問を待っていたかのように胸を張って答えた。
「キリ!」
先ほどキリがユミの名前を張り上げたように、ユミもキリの名前を呼んだ。
「ユミ!」
キリもそれに応えた。見つめ合う二人の間に静かな時間が過ぎて行く。
ユミは既にキリのことをもっと知りたいと思い始めていた。
「キリはお茶を飲まなかったの?」
刹那、キリは顔を曇らせる。
「……母さんは僕に冷たいんだ」
だから飲ませてくれなかったということだろうか、そう言うと右の頬をさすり始めた。
「痛いの?」
指の隙間から手の下にあるあざが透けて見えた。
「痛くないよ。……今は」
まるで強がっているような口調だ。
「もしかして……、お母さんに?」
慎重に問うてみる。キリは答えなかったが代わりに唇を噛んだ。あまり母親のことを悪く言いたくはないのかもしれない。
振り払うように頬に当てていた手をおろし、拳を作る。
ユミは違和感を覚える。ユミは
一方で、キリの様子を見る限り恐らくは母親から虐待を受けている。キリは間違いなく実の息子のはずだ。
ユミがあざへと左手を伸ばすと、キリは覚悟を決めたように目を瞑り、歯を食いしばる。
それは反射的な動作に見えた。ずっとそうしてきたのだろうか。
ユミはそのままキリの頬に優しく触れ、撫でる。キリは眼を見開いた。
「あ……、」
噛んでいた唇を緩ませると気持ちよさそうに声を上げた。下された拳もいつの間にか
――かわいい。やっぱりソラと似てる。
ソラは誰かに撫でられるのが好きだった。ユミもヤマを真似してソラの頭を撫でてやると、ちょうど今のキリのような顔を浮かべていた。
「お母さんには撫でてもらえないの?」
キリは小さく首を横に振る。
「……父さんならたまに撫でてくれた」
何やら意味深長な物言いだ。訊いて良いものかとためらいながらも尋ねてみる。
「お父さんは?」
「……いなくなっちゃった」
その声は震えていた。絞り出すように続ける。
「悪いやつに、やられて、……それっきり」
声に嗚咽が混じり始める。やはり訊かない方が良かったか。
「ごめんね。ごめんね、キリ」
ユミは頬から手を離すと、両腕をキリの腰へと回す。一瞬、キリの体がこわばるのを感じたがやがて受け入れるように体重を預けてきた。
ユミ自身も驚いていた。行動的な性格であることは自覚していたが、初対面の少年に対してここまで積極的に動けるとは。それほどまでにキリのことを助けてあげたいという気持ちが沸き上がっていたのだ。
キリを抱きしめながらその状況に体が熱くなるのを感じる。
――私、臭くないかな?
羞恥心をごまかすように的外れな疑問が浮かぶ。そういえば先ほどキリの母親が風呂に入ろうと言っていた。このまま開き直って旅の疲れを癒してしまおうか。
キリの体を開放し、尋ねる。
「ねぇ、キリ。お風呂、沸いてるの?」
「うん、さっき母さんに頼まれたから村の風呂に火を入れてきた」
それを聞いて少し安心する。
母親に冷たくされていると言っていたが、全く会話がない訳ではなさそうだ。
「私、はいちゃっていいのかな?」
「もちろん。母さんが寝てる間に済ませちゃって」
ユミに抱きしめられたおかげか、キリは元気を取り戻したようだ。声に張りを感じる。
それを見て悪戯心が芽生える。
「……一緒に入る?」
キリは呆然とユミを見つめていたが、やがて言葉の意味を理解したのか顔を真っ赤にして首をぶんぶんと振った。
「……そんなに嫌がらなくてもいいじゃない」
ユミは口を尖らせる。
「イヤじゃないよぉ」
キリの顔はもっと赤くなった。
キリに案内され、村の浴場へたどり着いたユミは貸し切りの状態となっていた。普段はこの時間から浴場を使う者はいないとのことだった。――結局キリはユミと入ることを拒否した。
脱衣所で寝巻を脱ぎ、右腕の包帯を取ると傷跡があらわになる。そこは既にかさぶたで覆われて赤い筋が入っていたが、優しく手ぬぐいで拭くぐらいなら問題なさそうだった。少し治りが早い気もする。
浴室に入ると、蓬の香りが鼻の奥まで広がった。湯舟は10人ぐらい浸かれそうな広さがある。
床に置かれていた桶に湯を汲み、手ぬぐいを湿らせ体を拭いていく。早く肩まで湯に浸かってしまいたいが、他所の村の風呂を汚すのは気が引けた。
体の次は髪を洗う。初めのうちはそのごわごわとした感触に、こんなに汚れていたのかと不快感を覚えたが、徐々に指が髪の間を通るようになっていった。
これで良しとつぶやき浴槽へ向かう。そろりそろりと左足を湯舟に伸ばし、底に着いたことを確認すると右足も湯へ誘う。
足元から伝わってくる温もりに耐えきれず、ぐっと身を屈めた。
「……ふはぁああああ」
湯舟の縁に背中を預け大きな声で唸る。イチカの近くの川で水浴びした時とは全く異なる心地のよさだ。
「ユミー。熱くないー?」
ユミの唸りが聞こえたからだろうか、外からキリが返してくれる。火の面倒を見てくれているらしい。
「ちょーどいいよー」
「冷めてきたらまた言ってねー」
「はーい」
――ここまで長かったな。
まだ何も終わっていないのに達成感を感じてしまう。
「ねぇキリー、ここの村は何ていうのー?」
「ラシノー」
聞いたこともない名前だった。尤もユミは、ウラヤの他にはトミサしか知らなかったが。
とは言え、ユミが歩いてきた道のりを考えるとウラヤからそう遠くはないのだろう。
「ユミはさっきウラヤに帰るって言ってたよねー」
「うーん」
「ウラヤって、どこにあるのー?」
難しい問いだ。それが分かればとっくに帰っている。
「森を抜けたとこー」
少し考えてから答えた。間違ってはいないが、その答えは変な感じがする。
ユミがたまたまラシノへたどり着いたように、また森に入ったところで抜けた先がウラヤであるとは限らないだろう。
「じゃあウラヤってどんなとこー?」
「お母さんがいてー。ソラがいてー。せんせーがいてー……。みんな仲良く暮らしてるよー」
どんなところかと訊かれても、ユミにとってのウラヤはこれがほぼ全てだった。
「ソラってほんとにいるんだー」
キリの母親の言うことに間違いがなければ、キリにはソラという姉がいるはずだ。友人のソラと同一人物であるかは未確定であるが。
「キリのお母さんの名前ってー、なんていうのー?」
「アイー」
やはり聞いたことの無い名前だ。ウラヤのソラの母親であると判断するには材料が足りない。
「ソラってどんな人ー?」
「とってもやさしーよー。それとー、キリと少し似てるかもー」
キリの頬に触れた時の感想を述べる。
「へー。じゃあそのソラがー、僕の姉さーん?」
似ているのならば本当に姉弟なのかもしれない。
しかしそれでは、ソラがアイの娘だということになる。
ウラヤの子供たちは親のことを気にしない。そういうものだと教えられる。
ユミはそういうものとはどういうものかと問うと、親がいない子供は
ならソラも鸛が運んできたのかと続けると、ヤマは何とも言えない苦い顔になり、そうだと答えた。
「キリって今いくつなのー?」
「じゅーいちー」
ソラは12だ。年齢的にはあり得る。
しかし、アイが産んだソラを鸛がウラヤまで運んだというのだろうか。なんとも荒唐無稽な話だ。
「キリのお姉ちゃんかもしれないねー」
「じゃあー、会ってみたいなー」
母親から虐待を受け、姉とは生き別れ、優しい父親は……、亡くなったと思われる。
ウラヤの子供は親のことを気にしないが、家族の状況が分かっているキリもまた散々な思いをしているのだろう。
ユミはキリのことを何とかしてあげたいという気になり、とんでもないことを口にする。
「キリも私といっしょにくるー?」
「……いきたい」
か細い声で、よく聞こえなかった。
「えー?」
「行きたい!ユミと一緒に行きたい!」
「よし行こう!」
ユミはがばっと立ち上がり、湯舟の縁に足をかける。体は十分に温まった。心にも高揚感が満ちている。
絞った手ぬぐいで体を拭き、脱衣所へ出た。そこに脱ぎ置かれた寝巻を見て思い出す。
「キリー。私が着てきた服とー、持ってた風呂敷ってあるー?」
「そうだったー。持ってくるから待っててー」
とてとてと足音が遠ざかっていく。
良かった。荷物を無くした訳ではないんだ。
勢いで立ち上がってしまったユミだが、この空白の時間に考える。
孵卵で課せられたことはウラヤに帰ることだけだ。誰かを伴ってはならないとは聞いていない。だからこれで不合格になることはないはずだ。
今までは一人だったから少々無茶なことをした。いざとなれば試験監督の二人が助けてくれたはずだ。
しかしキリは別だ。クイとヤミが安全を保障する義務はない。
何より森は迷うのだ。ユミが迷うことは無かったがキリが大丈夫とは限らない。
「ユミー。入るよー?」
それにキリはラシノの村を出て良いのだろうか。アイを独り置いていくことになる。
キリにとっては、折檻から逃れられるのだから幸せなことかもしれない。
しかし、いずれはラシノに帰さなくてはならないだろう。帰ってきたキリを見てアイはどうするだろうか。
「ユミー?」
いっそキリとともに森で定住してしまおうか。二人でイチカに暮らしてしまえばいい。あそこなら食料もあるし、雨風にさらされることもない。
いやいや、さすがに非現実的すぎる。ウラヤに残された母はどうなるんだ。
がらがらっと音がして脱衣所の戸が開く。
「置いといたから、準備終わったら出てきてねー」
裸のユミがいるのを確認したキリは、戸のすぐ近くに荷物を置き、すぐにぴしゃっと戸を閉めた。
そもそもキリをソラに会わせるのが目的だ。まずはウラヤを目指すべきだ。当初の計画通り、イチカは拠点として使えば良い。
何日かかるか分からないが、必ず成し遂げて見せる。
ふと脱衣所の入り口の方を見ると、荷物が置かれているのが見えた。いつの間にかキリが置いてくれたのだろうか。
――ん?キリ入ってきてた?
ぽっと体が熱くなる。キリを風呂に誘ったのは冗談だったが、いざ裸を見られたかもとなると途端に恥ずかしくなった。
しかしそれは、アイに抱いたような不快感はなく、あくまでも羞恥心だった。
「もーキリー。入ってくるんだったら言ってよー」
「言ったよぉ」
言っていたのか。全く聞こえなかった。
これはユミの悪い癖だった。考え事をすると周りが見えなくなってしまう。ヤマからもこの点だけはよく𠮟られた。
「ごめん」
「別に謝んなくてもいいけどさー。僕の方こそごめんね」
キリは素直な良い子だと思った。あんな母親を持ったのにまっすぐ育ったものだと感心する。
服は綺麗に洗われ、折りたたまれていた。アイがやったのかキリがやったのかは分からないが、乾いているところを見るとそれなりの時間がかかるはずだ。
「ねぇキリー。私ってどのくらい寝てたー?」
「昨日、一日ずっと寝てたよー」
感覚的には一晩寝て起きただけだったが、丸一日寝てしまっていたのか。アイはあんなのだが、看病してくれたことには感謝しなくてはならないと思った。
服を着てから、そういえば懐に母の文を入れていたはずだと思い当たる。風呂敷の方を探ってみるが、無い。
「キリー、荷物に文が入っていたの知らない?」
「ふみー?……あ」
何か思い出したのだろうか。
「ごめん。母さんが破って燃やしてたかも……」
前言撤回。やっぱりアイは異常だ。顔も見ずにさっさとここを発った方が良い。
服を着て、髪を結い上げたユミは脱衣所の戸を勢いよく開ける。
すぐ傍には、キリが笑顔で立っていた。少し沈んだ気持ちになっていたが、つられて笑顔になる。
「おまたせ!」
ユミは体を大の字に広げ、ひらひらと袂のツツジを見せびらかす。
「かわいい……」
そのキリの呟きに、嬉しくなったユミは調子に乗る。
「花が?それとも私が?」
「ユミ……」
まっすぐな眼で即答するキリに、ユミは顔を赤くする。
ユミもキリのことが可愛いと言ったが、それは妹同然のソラになぞらえてのことだ。今のキリにはユミしか見えていないようだった。
「ユミ、腕を出して」
ぼーっとした表情のままユミはそれに従う。
キリは懐から包帯を取り出し、丁寧に腕に巻いていく。
「キリがやってくれてたの?」
「うん」
「ありがと」
ユミは空いたもう一方の手でキリの頭を撫でる。
一瞬、また気持ちの良い声を上げそうになったが、我慢してユミの右腕を注視する。
「いいよ」
キリは包帯の巻き終わった腕を見て、満足そうに頷いた。
ユミは左手で右肘を押さえ、その先を曲げ伸ばししてみる。大丈夫そうだ。包帯がずれることもない。
「ユミ、もう行くの?」
キリはうずうずした様子を見せた。これから森に入ろうというのに怖くはないのだろうか。
「私は行けるけど。キリの準備は?」
「うーん。ウラヤまでどのくらいかかる?」
「わかんない」
「わかんない?ユミはウラヤから来たんじゃないの?」
ユミはその辺りのことを説明していなかったと気づき、どこから話したものかと頭を捻る。
「……えっと、鳩は分かる?」
「うん」
「私は今、鳩になるための試験中なの」
「そうだったんだ」
キリは眼を丸くする。ウラヤでは仕事中の鳩をしばしば見かけるが、ラシノでは珍しいことなのだろうか。
「試験ではね。眠ってる私をいきなり森にほっぽり出すの」
「……ひどい」
キリは顔を歪める。今にも泣きだしそうだ。
やっぱりキリは優しい。出会ったばかりのユミのことをこんなにも思ってくれている。
「ちがう、ちがう。それはもういいの」
キリの頭を撫でようかとも思ったが、無駄に長くなりそうなので手を引いた。
「だから、ここからウラヤまでの道がわかんない」
「それでも帰らないとだめなの?」
ユミは決意を改める。
「そう。お母さんとソラが待ってる」
「それじゃあすぐに行かないと!」
結局キリは、今晩の食事にと豆の混じった握り飯を包み、腰にはアジサイ柄のがま口だけつけて出発することにした。
そもそも家にはキリの持ち物がほとんど無いという。これもアイの方針なのだろうか。
――大丈夫、まずはイチカを目指そう。毛布を二人でかぶればもっと温かいだろうし。
もはやユミには、キリと触れ合うことの抵抗感が消え失せていた。
「行くよ!」
ユミは左手を差し出した。
「うん!」
キリは元気よく頷き、ユミの手を取った。
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