五、岩内

 有島記念館を発った車は、羊蹄山に背を向けて進んでいく。桜井の握るハンドルは、倶知安の市街地を抜けて、山の方へと向かっていた。前方を見据えながら、青山は尋ねた。

「ここから岩内までどのくらい掛かるんですか」

「大体一時間くらいだ」

 一瞬で終わっていく、短いトンネルを通過する。青山は助手席に強く背中を預けて、膝の上のカメラを握った。首に下がる重さが疎くて、ネックストラップを外す。

 電源を弾くと、モニターに羊蹄山を背景にした桜井の顔が映し出される。改めて見ても酷い間抜け面だ。だがきっと、これを撮った青山の方が酷い顔をしていたのだろう。いや、そもそもが逆だ。青山が泣いたから、桜井はこんな表情になった。

 そう考えると、どちらの方が撮られているのだろうか。この写真は桜井が被写体だが、桜井は映らない青山を反射している。被写体——モデルとは、一体何なのだろう。被写体と表現者。その二者は、どちらか一方が身勝手に搾取されるような関係なのだろうか。

「今って、木田金次郎美術館に向かっているんですよね」

 再度短いトンネルを越えて、突き当たりを左折する。白樺と針葉樹に囲まれた山を越え、雪壁の合間に点在する農家を過ぎていく。

「そうだ。美術館は岩内市内にあるからな。今日の宿からも近いんだ」

「美術館に行ったら、木田金次郎の思いって知れるんですかね」

 純粋な疑問があった。有島武郎は木田金次郎のことを小説に残したくらいなので、並々ならぬ思いを抱いていたことは確かだろう。では、モデルの思いはどこにある。木田金次郎は、有島武郎について何を思っていたのか。憎んでいたのか、愛していたのか。有島記念館で観た、寄り添う二人の写真が脳裏に浮かぶ。

「有島記念館と同じく、私も木田金次郎美術館には行ったことないから、すぐには答えられない」

 路肩の雪が低くなり、道はだんだん直線へと収束していく。対面車線と中央分離帯を隔てた、真っ直ぐな道に出る。両側には、雪で埋まった畑と農家が地平まで広がっている。雲で覆われ、白く濁る空は広い。助手席側の窓から、冠雪したニセコ連峰の輪郭が、空との境目ではっきりと輝いているのが見えた。

「だが、木田金次郎の絵は観たことある。それこそ、有島武郎の家でね」

「有島武郎の家?」

「ああ。有島武郎は、札幌で十回程転居を繰り返したんだ。その中の二軒は現存している。一軒は北海道開拓の村に、もう一つは札幌芸術の森に、それぞれ移築保存されている。芸術の森の方、白樺林に潜む赤い邸宅の中、二階へと向かう階段の途中に、木田金次郎の油彩が飾られていた」

「どんな絵だったんですか。有島武郎の肖像画とか?」

「いや、違う。『流氷のころ』という絵だ。真冬の荒々しい海を描いていた」

「海……」

 木田金次郎自身が漁師だから、海を描いたのだろうか。どのような絵かと安直に想像しようとしたが、漁師と画家を兼ねていたとは一体どういうことかと思い至り、思考が途切れた。肉体的にも精神的にも過酷な漁を続けながら絵を描いていたのは、時代は違えど同業者としては到底信じられない。

「印象派のようだったから、離れて観たかったのに、階段の踊り場の壁に展示されていたから、あまり下がって観られなくてもどかしかったんだよな」

「印象派?」

 青山が首を傾げると、ふっと桜井の息が漏れた。運転席の方を見ると、その口元は緩んでいる。白銀の畑が透き通った窓越しに、細く差し込む陽光が桜井の黒い輪郭を緩く溶かしていた。

「知らないならそれでいい。知識に縛られるよりも、まずは現物を観てほしいな。美術館に着けばいくらでも観られるだろうから、楽しみにしていてくれ」

 絵は画家の心を語ってくれるのだろうか。生活を改造して捨てて、挙げ句の果てに女と心中した有島武郎の事実は揺るがない。だからこそ、木田金次郎の信じた有島武郎の真実は何なのだろう。青山はそれが知りたかった。モデルにされることがただの搾取ではないと、どうにか証明したくなっていた。

 畑を越えると、ニセコ連峰に連なり、正面やや左側に、純白の山が聳えているのがわかった。山に見える細く蛇行した道のようなものはスキー場だろうか。車は市街地へと分け入っていく。

 ここが岩内の町だ。仕事で数回程漁港まで来たことがあるが、地理的記憶は薄い。山は岩内の町を見下ろすようにそこにあった。道路脇の雪深さは残しつつも、商店や住宅が立ち並んでいる。久々の信号に一時停車する。横断歩道を手を繋いで渡る親子を見て、人の暮らしを感じた。

 セイコーマートのある角で右折する。曲がった道の先に、水平線が見えた。日本海に面する岩内港だ。祝津を始点と見ると、ちょうど積丹半島の反対側まで来たのか。車は岩内の道の駅を過ぎて、バスターミナルの手前で曲がり、駐車場へと入る。シートベルトを外しながら、桜井は言う。

「お腹空いたなあ」

 言われて、青山は初めて空腹に思い至る。そういえば、赤井川の道の駅で軽くパンを食べた以来、何も口にしていない。

「今、何時ですか」

「一時過ぎかな。昼飯にはちょうどいいかもしれない。夜はたくさん食べるから、今のうちに何か食っておこう」

 桜井は財布とキーだけを持って出る。青山はわずかに逡巡するも、膝の上のカメラを首に掛けて、車を出た。歩道は既にアスファルトが露呈しており、薄氷を避ければ歩くのに苦労しなかった。信号の無い横断歩道を渡り、道の駅の建物の下で立ち止まる。桜井は通りの方に視線を向けた。

「道の駅の近くだから何かあると思ったら、すぐそこに寿司屋とラーメン屋が見えるな」

 桜井の言う通り、車道の向こう側に二軒の店が並んでいた。右は格式高そうな寿司屋、左は食堂だ。食堂の横には、岩内名物えび天ぷらラーメンと書かれた紫色の幟が、冬風に吹かれながらはためいている。

「腹減ったし、もう食べちゃおう。青山君はどっちの店がいい?」

 桜井は財布を握り締めて、問う。勿論、桜井の奢りだ。じゃあ安いラーメンの方で、と意思が流れかけたところで、止まる。

 桜井にパンを差し出され、青山君って選べないよねと揶揄された記憶は近い。桜井の負担にならないように、ラーメンを選ぶことはきっと選択ではない。無意識に相手の顔色を窺っていた自分に気付いて、ぞっとした。

「じゃあ、寿司がいいです」

 小さな声で呟く青山に、桜井はにやりと笑う。

「漁師って、もう海鮮食べ飽きてるとかないの」

「魚介、ある程度好きじゃないと漁師なんかやってられないですよ。あと、寿司はまず賄いじゃ食べられないし……」

 言い訳のように理由を並べてみると、何だか気恥ずかしい。言葉尻の萎んでいく青山に対して桜井は、あははと声を上げて笑った。

「ま、俺は寿司、やなんだけどね」

「は⁉︎」

「海鮮は今夜嫌になるほど食べるだろうから、ここはラーメンにしよう」

 桜井は雪の溶けきったアスファルトを軽快に歩き出す。最初からラーメンを食べると決めていたのなら、何の為に聞いたのだ。揶揄われている。

 横断歩道を渡って、寿司屋を通り過ぎ、食堂へと辿り着く。白い暖簾をくぐると、入口すぐのところで券売機が出迎えた。先に注文してから席に座るシステムらしい。券売機の上部、赤いボタンが並ぶ中、一番左上の大きなボタンには「えび天ぷらラーメン スピード提供 まよったらコレ」と激しい主張が貼られていた。

「天ぷらラーメンって珍しいですね」

「この積丹周辺で有名なB級グルメだな。発祥はここ岩内町らしい。俺は結構好き」

 桜井は千円札を券売機に潜らせる。その指先は迷いなくえび天ぷらラーメンを押した。

「青山君は何にする?」

 券売機には他にもメニューが並んでいる。ラーメンは勿論、食堂でもあるので、蕎麦やカツ丼、カレーライスなどもあった。かなり腹は減っているが、悩む。先程、桜井が今晩の飯の話をしていたのが気に掛かる。

「そんなに今夜の食事、すごいんですか」

「ああ。豪華な海鮮が山盛りだ。宿を飯で選んだと言っても過言じゃない。あんまり食べ過ぎると夕食に響くぞ」

 自称少食の桜井と違って、胃には自信があったが、そこまで言うのならば、少しセーブしておきたい。

「じゃあ、おれもえび天ぷらラーメン。あと、ライスも食べたいです」

「ライスとは、さすが食べ盛りだな」

 今度の選択はちゃんと通った。桜井が追加で千円札を投入したので、青山はえび天ぷらラーメンとライスのボタンを押す。そのまま店員に食券を渡し、窓際の席へと座る。

 店内は、そこまで広くないが清潔な造りだった。テーブル席が点在しており、客は言葉少なにラーメンを啜っている。壁際には雑誌の取材記事やら、店長の家族らしき写真が飾られている。奥の厨房で店員が忙しなく働いているのが見えた。

 窓からは、岩内の道の駅が見える。人通りは疎らではあるが、絶えず車も通り続けている。小樽程の大きな町ではないが、漁場と共に繁栄してきた町だ。かつての鰊の影響を思う。積丹半島は勿論、それが岩内どころか江差にまで続くのだから、鰊が齎した栄華の広さに末恐ろしさすら覚える。

「お待たせしました。えび天ぷらラーメン二つと、ライスです」

 スピード提供を謳うだけある。純白の丼に盛られたラーメンが、湯気を立てて目の前に置かれた。薄いスープが煌めく塩ラーメンの上、丼の直径に掛かるほど巨大な海老の天ぷらが二本、チャーシューを押し退けるように乗っている。

「うわっ、ほんとにえび天が乗ってる」

「早く食ったほうがいい」

 早々にいただきますと手を合わせ、桜井はするすると食べ始めた。麺が伸びるからだろうか。

 青山も手を合わせて食べ始める。やはり始めはこれだろうと、箸で天ぷらをゆっくり持ち上げた。衣がスープを吸い、てらてらと輝いている。味の染み込んだ衣に海老ごと噛みついた。

 じゅっと衣の音がする。海老のみずみずしい味と共に、塩味のスープのコクが舌の上で広がる。その風味を口の中に溜めたまま、思い切り麺を啜った。味が口の中で絡み合って、とても美味しい。長時間のドライブで冷え固まっていた体に、じんわりと染み渡る。

「あぁー、うめえ……」

「何とも言えない味だけど、おいしいよね」

 青山は感嘆と共に頷き、夢中になって麺を啜る。スープも全て飲み干してしまいたい。茶碗から米も掻き込む。これまた、海老と白米が合うから箸が止まらない。ある程度食べ進めて、二本目の海老天を持ち上げたところで、困惑する。

「桜井先生、これ、衣取れちゃいません?」

 青山は桜井に持ち上げた裸の海老を見せた。スープの染みた衣はその自重に耐えられず、丼の中へと沈んでいく。桜井はふはっと吹き出した。

「そうなんだよ。だから、早く食べないと駄目なんだ。天ぷらラーメンがあんまり流行らないのは、おそらくこれが理由だと思う」

 桜井も、同じように裸の海老を持ち上げて齧りつく。これでは海老と揚げ玉ラーメンだ。

「でも、この落ちた衣も美味しいんだよね」

 桜井は嬉しそうに、衣をレンゲで掬って飲んでいた。真似してやってみる。確かに美味しい。どうせスープも飲むつもりだったので、落ちた衣や浮かんだネギごと、全てを飲み干した。

「塩分過多じゃない?」

 からっぽの丼から顔を上げると、呆れた桜井の顔がこちらに向いていた。桜井の丼には、並々とスープが残ったままだ。

「これから美術館で、普段使わない脳味噌使うだろうから、ちょうどいいんです」

「脳を酷使する時に必要なのは、塩分じゃなくてブドウ糖だと思うけど」

「じゃあ、塩は体内の浸透圧とかを調節するんですよ。多分」

 青山は面倒臭くなって適当に答えた。塩分が役に立つかはともかく、ラーメンによって体が温まったので、何となく気持ちも上向きになる。そんなこちらの様子を見てか、桜井は微笑んだ。

「選んでよかったろう」

 私のおかげだな、とでも言うような顔をしていたので、じわりと苛立ちが湧いた。

「ってもおれは、夜に海鮮山盛りだったとしても、寿司食いたかったですよ」

「ははは。金を出しているのはこっちだからな。こればかりは、私の気分だ」

 桜井はどこか満足気に呟く。金を引き合いにはしているが、その態度に嫌味は感じられなかった。

「選択した先で希望が叶うとは限らない。それでも選ぶことが大切だと思ってる」

 桜井の穏やかな笑みに、湧き出た衝動が青山を襲った。隣の椅子に置いていたカメラを掴み、目に押しつけてファインダーを覗く。レンズの中で、桜井に照準を合わせた。

「君の撮りたくなる基準はよくわかんないね。撮りながら、突然泣き出したりするし」

 桜井はほんのり上気した顔で笑う。勿論、食べたラーメンのせいではあると思うが、それだけでは無い気がした。すぐには押さずに少し待つ。笑みは逃げない。今の桜井に戸惑いは薄い。

 有島記念館で泣いた理由は、青山自身よくわかっていない。桜井も、青山に訳を尋ねなかった。まだわからなくていいと思った。ただ、今はあんたを撮りたかった。

「もう泣きませんから」

 青山は微笑みを返して、シャッターを切った。


 道の果てに海が見えた。岩内港だろう。並ぶ漁船の手前には、小型船を海上で泊めるための碇が置かれている。その水平線へ行き着く手前で曲がり、円筒と箱形が合わさったような真白い建物に辿り着く。白い外壁の下には、いやに凝った灰色の瓦屋根が嵌っていた。

 ここが木田金次郎美術館だ。強い潮の香りを振り切るように、中へと踏み入れる。

 受付で桜井が代金を支払い、チケットとリーフレットが手渡される。チケットには、青や紺、黄や橙など、一つの色では正確に形容できない色たちが、粗いストロークを紡ぎながら、夕焼けの海を創り出していた。青山は驚愕する。こんなにも雑で粗いのに、これが絵画だと認められているのか。

 木田金次郎の絵について尋ねようと顔を上げると、桜井は既に先へと進んでいた。青山は慌てて追い掛ける。受付の先にはシアターと売店があり、ポストカードや画集が陳列している。左手、ガラス張りの向こうには積雪した中庭が広がっている。先にはカフェがあり、そこを過ぎると展示室のようだ。

 白を基調にした受付側とは対照的に、展示室の先は薄暗い灰色の空間が広がっている。壁に絵画が飾られ、その一つ一つがライトで淡く照らされているのが見える。確かな静寂がある。だから、先に行ってしまう前に桜井に尋ねたかった。

「これが印象派の絵ですか」

 海が描かれたチケットを桜井に向けた。我ながら必死な問いだ。きっと美術は文学とは違う。画家をわからないままで、観たくはなかった。桜井は有島記念館と同じように、先に行ってしまうだろう。青山の首に掛かったカメラが揺れる。展示室の入口には撮影禁止の注意書きがあった。

「これ、というのは?」

 桜井はどこか試すような口振りで尋ねる。

「あんた、木田金次郎の絵は印象派だって言ってましたよね。こんな雑で粗っぽく描いた絵なんかが印象派なんですか」

 こちらの必死な懇願に、桜井はぎょっとした表情を浮かべた。声は思ったより辺りに響いていたらしい。近くにいた学芸員がちらりとこちらを見たから、急に恥ずかしくなる。桜井は苦笑を浮かべた。

「そんな慌てて聞かなくてもいいのに」

「……すみません。でもあんた、また先に行くでしょう。聞けなくなるの嫌だったから」

 桜井は目を見開き、言葉を詰まらせた。少し考える素振りの後、ふっと息を吐く。

「いるようにする」

「えっ」

「君が聞きたい時、すぐ答えられるようにするから」

 ここでは写真も撮れないからね、と言い訳のように付け足して、桜井は展示室の方へ向かっていった。一人で観たいはずの桜井が応えたのは、精一杯の譲歩なのか。遠ざかっていく桜井の背中を見つめる。変な期待が生まれるのは怖かったが、気に掛けてくれるのは純粋に嬉しかった。追い掛けるように、青山も灰色のカーペットへと足を踏み入れた。

 客は他にも数人程いた。端の椅子には学芸員が座っている。絵画の手前、展示室の入口近くに白文字で書かれた黒いパネルがあった。木田金次郎の年表だ。最初にあるということは、絵を観る前に画家の人生を知ってほしいという配慮だろうか。下手な先入観にはならないと判断し、その人生を辿っていく。

 岩内町に生まれた木田金次郎は、父・久造、母・ワカの六人兄弟の次男として生まれる。父の漁場で働く漁夫が描いた絵に心打たれ、絵画への関心を持ち始める。

 十五歳。岩内尋常高等小学校高等科卒業後、上京して東京開成中学に入学。在学一年半半ばで、開成中学を中退。東京京北中学三年に編入学。この頃から絵を描き始め、同時に上野で開催されていた文学賞美術展覧会などに足繁く通う。

 十七歳。京北中学四年を中退し、帰道。岩内ではなく、札幌に下宿し、郊外で絵を描く日々を過ごす。札幌女子尋常高等小学校で開催されていた黒百合会第三回展で、有島武郎の描いた『たそがれの海』の絵に深い感銘を受ける。後日、豊平川沿い、林檎園のそばにあった有島武郎の家を偶然に見つけ、数日後、自作を携え訪問。木田金次郎は絵を描くために岩内に戻るが、家業不振のため、漁業に従事する毎日となる。

 二十四歳。有島武郎に二冊の鉛筆素描帳と一通の書簡を送る。有島武郎が経営する狩太農場を訪問し、七年ぶりに再会する。

 二十五歳。三月、木田金次郎をモデルにした有島武郎の小説『生れ出づる悩み』の連載が、大阪毎日新聞と東京日々新聞の二紙で始まる。四月下旬、有島武郎急病のために連載は中断されたが、九月に有島武郎著作集第六輯として刊行。

 二十九歳。農場解放のために有島農場入りした有島武郎を来訪。その後、有島武郎と共に岩内に赴く。

 三十歳。一九二三年六月九日、有島武郎、軽井沢の別荘浄月庵で波多野秋子と心中。木田金次郎はこの頃より漁業を離れ、画業に専念する決心を固めたと謂われる。

 青山は一息ついた。ここまでで、おおよそ年表の三分の一だ。木田金次郎の人生だというのに、殆どが有島武郎のことばかりで辟易すると同時に、モデル画家としての重圧を感じる。この記述を見る限り、有島武郎が木田金次郎に『生れ出づる悩み』のモデルの許可を取っていたかすら怪しい。

 桜井も死んだ妹はどうにもならないとして、消した恋人を書いた二作目『凪ぎつづけて、飛ぶ』の許諾など取っていないのだろう。喪失と衝動が書かせると嘯くのだ。青山は桜井の姿を探した。遠くの方で真剣に絵を見つめている。青山は年表に視線を戻した。

 木田金次郎の人生から、漁の文字が消えた。振り切ったように一心不乱に画業へと専念していく。四十六歳の時、父・久造を亡くす。四十九歳で山田フミと結婚し、子宝に恵まれる。生活にも安定の兆しが見えてくる。

 六十一歳。台風十五号による岩内大火で、油彩とデッサン合わせて約千五百点から千六百点を焼失。その後も精力的に活動するが、六十九歳、一九六二年十二月十五日、脳出血のため永眠。

 木田金次郎の死と共に年表の半分が終わった。木田金次郎が亡くなったのは、有島武郎の死から約四十年後だ。有島武郎の享年すら優に超えて、木田金次郎は描き続けた。木田金次郎が三十歳の時に有島武郎は亡くなったから、木田金次郎にとっては有島武郎が死んでからも、それから生きた人生の方がずっと長い。

 年表の残りは、死後の木田金次郎の受賞歴と、一九九四年の木田金次郎美術館の開館が綴られて、終わっていた。青山は視線を先へと向ける。灰色の空間の中、等間隔に絵画が並べられていた。

 文学館では、この年表に語られるような人生を全ての展示を使って丁寧に綴っていた。しかし、この先にあるのは絵画ばかりだ。木田金次郎の見た景色だけがある。カーペットが敷き詰められた空間は広く、天井も吹き抜けとなっている。鑑賞のために、絵画以外の物が削ぎ落とされているようだ。側には階段があるが、順路は一階からだった。青山は歩き出す。

 暖色のライトで淡く照らされた絵の、すぐ前で止まる。小さく息を呑んだ。チケットに描かれた絵の比ではない。こんなにも粗い点で描かれていることに愕然とした。今まで碌に絵など観たことないが、図工や美術の時間に上手いと持て囃されていたクラスメイトは、物体の細部を緻密に正確な線や正しい色で追った絵ばかりだったことを覚えている。しかし、木田金次郎の絵は全てが違っていた。

 絵の具は点の跡を筆のままに残し、ぼこぼこと隆起し膨れ上がっている。色は混ざりながらも所々が分裂して濁り、形など容易く崩壊している。絵を守るガラスの中で、絵の具の凹凸が白を反射していた。率直に、見辛い。タイトルを読む限り、岩内の町を描いた絵らしい。どうにもピンとこなくて、首を傾げる。

 彷徨うように、絵から視線を逸らした。広い空間、すぐそばに桜井がいたから面食らう。先程までもっと遠くにいたはずだ。

「うわ」

 青山が小さく声を上げて驚くと、桜井は微笑みながら人差し指を口元に当てる。そのままゆっくりと絵から遠く後退った。目線は絵から離れないままだ。不思議に思いながら、青山も桜井の隣に並んで下がり、絵を観る。

「あっ」

 離れた瞬間、絵の中に海風が吹いた。蠢く絵の具は、波と陽光を呼んだ。全ての点と短い線が掻き消えて、波と化してはざあざあと流れていく。

 動いている。

 躍動は全身を包み、どうしてか潮の香りを呼び起こした。ここは青山の暮らす海の滸だ。漁師が生きる、その世界が突然目の前に現れた。

 青山は思わず絵に近づく。形を定めないタッチの全ては種明かしとなった。木田金次郎が告げている。だから、ここにこの色を置いたのだ、と。

 青山は取り憑かれたように、次の絵を観にいく。ポプラ、海、晩秋、防砂林、波と夕陽、流氷の秋、新雪の羊蹄山——。

 どれも鮮明に青山の網膜を熱く焦がした。こんなに粗いのに、どうして。

 いや、違う。粗いから呼ぶのだ。様相や物理を無視した、光を。

 青山は、果ての絵の前で立ち止まった。漁港が、焦げて廃れている。

 ぞわりと鳥肌が立ったが、それは喪失の恐怖だった。黒く重く濁った海に浮かぶ青緑色の太陽は、今にもゆっくり沈もうとしていた。期待を抱く、明日への証だ。しかし、青山にとっては絶望の色だ。いつもの朝と違うことは、海が日光を反射しないまま、消し炭になった船を打ち上げ、鈍く濁り続けていることだろう。

 絵のタイトルには『大火直後の岩内港』とあった。傍らのキャプションを読む。

 一九五四年の九月二十六日、台風十五号の影響による大風が日本海側から吹き荒れた。函館湾、青函連絡船洞爺丸沈没の甚大な災害は有名だが、岩内町も大火に見舞われている。午後八時に起こった一つの火災が、大風により岩内を襲った。海岸通りに立ち並ぶ漁業関係の建物を炎がなめ尽くし、漁船用重油ドラム缶に着火、大爆発を引き起こし、燃えながら漁船は座礁し、町一帯が火の海と化した。延焼時間は十時間にも上り、市街地の八割があっという間に消失した。勿論、木田金次郎のアトリエも炎が襲った。持ち出せたものは、有島武郎からの書簡と、制作中の作品十点余りだったと言う。千五百点を超える作品が跡形も無く燃え上がって、消し炭となった。

 青山は、もう一度『大火直後の岩内港』の絵を観た。絵を描かない青山にも、身命を賭して描いてきた千五百もの作品を焼かれた痛みは何となく想像できた。作品という人生の軌跡が無意味に還ったのに、全てを奪い去って残した景色を、木田金次郎は描いて残している。しかし、絵には虚脱だけではなく、理不尽への怒りと変わらない太陽が描かれている。

 作品は尚も続いていく。ヘロカラウス残照、ビンノ岬、落日の海岸、菜の花畑、岩内山——。

 木田金次郎は描くのを辞めない。一つ一つの自然に、真摯すぎるほどに向き合い続けている。ふと、気が付く。大火後からの画のストロークが明らかに伸びている。点は線へ変容し、より力強く自然の実相を捉えようとしていた。絵の具は盛り上がって鋭く尖り、重なって厚みを増していく。花が風に吹かれて揺れて、飛沫が岩礁に当たって爆ぜるように、ただの線と点が自然を紡いでいく。蠢き、脈動していく。

 一階の展示は全て回ったようだった。月並みな感想だが、これが印象派なのかという理解が落ちる。辺りを見渡すと『大火直後の岩内港』の絵の前に、桜井がいた。静かに駆け寄る。桜井はこちらに気が付き、問うてくる。

「雑で粗い絵が、印象派だとわかった?」

 皮肉を混ぜて笑う桜井は、青山が作品を観て印象派に抱いた確信を当然に理解しているようだった。

「はい」

 衒いなく青山は答える。美術展に対する、以前のような劣等感は少し薄れていた。

「印象派は一八七〇年代のフランスから始まったと言われている。それまでの芸術家たちは神話や宗教などからモチーフを定めて描いていたが、印象派の画家たちは、自分たちの周囲にある日常の世界を描くため、戸外に飛び出し絵を描いたんだ。対象が人間の目に映った時の視覚的印象を再現しようとした。移ろいやすい光の性質と、それが視覚に与える印象に何よりも強い関心を寄せたんだ。木田金次郎は学生時代、下宿先から通った上野の美術展で当時日本に輸入されたばかりの印象派の作品を観て、影響を受けたらしい。まあ、初期の作品はともかく、特に大火後の絵は、単に光を追うだけではなく、独自性を極めていったように感じるな」

 桜井は焼け果てた岩内港を見つめた。青山も隣で見つめる。太陽も海も町も、形は何一つ正確ではない。しかし、エネルギーがある。この絵の時間は止まらない。過去と未来に挟まれた一瞬の今だけを、まるで写真のように、いや、写真より瞬間を、克明に切り取ろうと足掻いている。

「絵が、生きてます」

 思ったままに口にした。桜井の目が細められ、苦虫を噛み潰したように言う。

「有島武郎は死んだのにね」

 言われて思い至る。そういえば、木田金次郎の絵に宿る生命力からは、悲壮感を一切感じない。桜井はさも呪いのように言うが、青山は『生れ出づる悩み』を読んだことがないから、小説の中で有島武郎が木田金次郎に何を託したのかを知らない。

「もっと、この人の絵が観たいです」

 だから素直に告げた。桜井は曖昧に笑う。青山は先に歩き出し、二階への階段を上がる。

 二階の展示室は一階とは違ってパーティションで区切られており、その通路に作品が飾られていた。光源も一階よりずっと明るく、壁も白い。すぐ右手には枇杷、左手にそいを描いた作品があった。一階で描かれていた自然は息を潜め、静物画が並ぶ。だが、色彩の混ざり方や、筆跡の荒々しさは健在だ。『りんご』という題の付いた作品が数枚並んでいる。チューブから絞り出したままの赤色の中に、鮮烈な緑色が混じっており、今にも熟れ落ちていこうとする林檎の生命力を感じた。

 絵と絵の切れ間、展示室の一角に椅子とキャンバスが置かれている。近づいてみると、岩内大火後の木田金次郎のアトリエを再現した展示だとわかった。子供の勉強部屋を兼ねた約十畳のアトリエには、信用金庫理事長から譲り受けたという椅子があり、目の前にイーゼルとキャンバスが置かれている。クリーム色のキャンバスには木炭で薄く下書きが描かれていた。傍らに積まれたみかん箱の中には、使い切った絵の具のチューブがみっしりと詰まっていた。およそ五百個入りのチューブが三箱で千四百六十個、十五キログラムにも上る量があるらしく、これは岩内大火後に木田金次郎が使った絵の具の量とされている。

 青山は不意に、網から引き上げられて籠に詰められた魚群を思った。木田金次郎は魚を捕らないと決めた分、絵を描いた。その覚悟と年月を物語る量の絵の具が、箱の中に詰められては遺されている。キャンバスに刻まれた粗い筆跡が、まだ描いていたいと叫んでいるようだった。

 そして、パーティションを抜けた空間では、四方に花の絵画が咲いていた。椿、牡丹、百合、アネモネなどの花瓶に生けられた花々の絵が並んでいる。赤や白の色鮮やかな花弁を際立たせるように、花を映す背景は青黒い。背景の暗さが、花の瑞々しい息吹を目覚めさせている。果ての壁の前で、青山は止まった。

 薔薇が、生きている。

 暗い青背景の中で、花瓶に生けられた赤と白と桃色の花びらが艶やかに揺れていた。葉と花の奥底には、滲んだ黄色が流れている。塗りたくられた白はやわらかく盛り上がり、花の中央に向かって立体を創り出している。新緑の葉は背景に舞って、鮮血のような赤を宿した花びらが白緑色のテーブルの上に、今、落ちた気がした。

 タイトルに『バラ』と記された横に、絶筆の注釈があった。この絵は本来なら依頼先へ渡すはずだったものらしい。未完のままで、木田金次郎は亡くなったのだという。「まだ制作中です」「もっとよいものを描きます」と、自身が亡くなる直前まで、依頼先へと手紙を送っていたらしい。

「作品は人です。人間が鍛え上げられて、りっぱにならなければ、いい絵が生まれるはずありません」

「うまくなったでしょう。これからももっとうまくなりますよ」

 木田金次郎が遺した言葉の先、目の前すぐが出口だった。中庭から漏れ出す雪の反射が、行く先をきらきらと輝かせている。青山は吸い込まれるように、外へと踏み出していく。

 二階は雪の積もった中庭を囲むように、ぐるりと円形の形をしていた。絵画の展示は終わったようだが、美術館の玄関口に戻るまでの通路に、木田金次郎に関する写真と遺品が並んでいる。辺りの明度は違うが、ガラスケースに覆われたその造りから有島記念館での展示を思い起こす。

 ガラスケースの中、見覚えのある写真があったので立ち止まる。有島記念館でも観た、木田金次郎と有島武郎のツーショットだ。写真に添えられた注釈を読んで驚く。

 この写真が撮られたのは、有島武郎が岩内を訪れた唯一の機会である。この翌日、有島武郎は狩太の農場へ戻り、「農場解放宣言」を行った——。

 写真の側には、ホイットマンの詩集と有島武郎のポートレートが飾られている。どれも木田金次郎が、岩内大火の際にいち早く自宅から持ち出した有島武郎の遺品らしい。同様に持ち出された書簡も残されていた。文面を見る限り、木田金次郎が先に絵と共に今後の創作活動への相談を送り、それに有島武郎が応えた手紙のようだった。

「御手紙と絵と共に落手しました。御製作には感心しました。そこで小生の意見を申し上げます。東京に出るよりも、少なくとももう暫くはその地におられて勉強をなさったら如何です。君の画のように既に立派な特色を備えた画は、余計な感化を受けないで純粋に発達させた方が遙かに利益だと思います。その地に居られてその地の自然と人とを忠実に熱心にお眺めなさる方がいいに決まっています」

 その有島武郎の言葉をきっかけに、木田金次郎の年表が蘇る。木田金次郎は有島武郎の死をもって、画家になることを決意したのだった。死後も岩内から出ずに絵を描き続けて、町を焼き尽くす大火の中、自分の作品を一つでも多く救うより、この手紙と思い出を最初に持ち出すことを木田金次郎は一切迷わなかった。それは、まぎれもない覚悟ではないのか。

 ガラスケースの中には、かつて有島武郎著作集第六輯として刊行された『生れ出づる悩み』の初版本の他に、木田金次郎が所有し、晩年弟に譲ったという有島武郎全集もあったが、こちらは『生れ出づる悩み』を収録した三巻が欠けていた。全集の外函は茶色く変色して角が欠け、出し入れしては繰り返し読まれた跡が見られた。それらの遺品の一つ一つから、木田金次郎が本当に、有島武郎との思い出を大切にしていたことが伺えた。

「木田金次郎は、有島武郎のことを許していたと思うか?」

 声がしたから、振り返る。背景、ガラス越しの雪に照って、桜井が立っていた。いつもこの人は、白銀の雪景色に溶けかけている。

「……許すって、どういうことでしょう。心底憎んでいたら、大火から守るためにわざわざこんなにたくさんのものを持ち出さないんじゃないですか」

 思わず、ガラスケースに掌を突いてしまう。すぐに離したが、指紋の跡が残った気がする。桜井の顔が歪む。有島記念館で見たのと同じ、加害の顔だった。

「木田金次郎は素晴らしい画家だ。しかし、この岩内に縛りつけたのは有島武郎だ。事実、木田金次郎は東京に行きたがっていた。そもそも、上野の文展から印象派を学んだんだ。木田金次郎には画家として東京で大成する道があったかもしれない」

 桜井はガラスケースに近づき、コツコツと爪で叩く。ガラスの中には書簡がある。その地に居られてその地の自然と人とを忠実に熱心にお眺めなさる方がいいに決まっています——、と有島武郎は応えた。木田金次郎も忠実にその教えを守った。

「岩内定住、いや、結果的には永住か。そのアドバイスだけならまだ良かった。有島武郎の一番の業は、木田金次郎自身を小説に書いてしまったことだ」

 ガラスケースの中、有島武郎自らが描いたという『生れ出づる悩み』の新聞記事の挿絵が引き伸ばされて展示されていることに気が付く。そこには本文と共に「私」に対峙する「木本」の絵が描かれている。胡座をかく無骨な漁師の「木本」は木田金次郎がモデルなのだろう。

「有島武郎は木田金次郎を勝手に書いた。許可など勿論取っていない。木田金次郎自身も自分がモデルにされていることを人伝てに知った。得体の知れない、むしろ気味悪いような不安な気持ちだったと本人も語っている」

 桜井は顔をさらに歪めていく。考えているのは、死んだ妹か、消した恋人のことか。それか、いずれ書きたいと願う、おれのことだろうか。

「手紙で縛って小説でも消費して、終いには女と不倫して死んだ。身勝手にも程がある」

 桜井は口元を隠す。指の隙間から、歪む口角が見えた。有島武郎に吐いた分の暴言は、そのまま桜井自身に返ってきている。有島武郎を通して、表現者である自身を自傷している。そんな確信があった。

 だからおれは、有島武郎から木田金次郎への加害を否定してみたい。証明したい。有島武郎が遺したものを。小説家の祈りを。桜井志春という小説家の正しさを。

「先に、有島武郎の絵に惚れたのは木田金次郎の方です。木田金次郎が、有島武郎の家へ押し掛けたんじゃないですか。一方的な搾取だとは限らない。木田金次郎だって、有島武郎のことを心から大切に思っていた。だからこれらは、炎から逃れて残っているんでしょう」

 年表で得た、付け焼き刃の知識をなぞる。木田金次郎の人生は事実だ。この眼前のガラスケースの中に大火から守られた、手紙と言葉が現存することだって事実だ。

 桜井は口元に当てていた手を額まで上げて、引き攣った笑みを露わにしながら、呟く。

「俺は、木田金次郎が有島武郎を愛そうとしたことすら呪いだと思っている。そうしないと、木田金次郎自身の人生の辻褄が合わなくなるから。そう、最期まで振舞っただけ。許されるわけがないんだ」

 揺るがない。虚しいほどの水掛論だった。有島武郎の助言を受けたとは言え、自然と真っ向から対峙して描き続けたのは木田金次郎自身だ。こんなにも生命力に溢れた木田金次郎の絵を観ても、桜井は何一つ気付けない。いや、認めようとしない。それこそ、桜井志春自身の人生の辻褄が合わなくなるからだ。

 だから、証明したかった。木田金次郎が、有島武郎の示した道を望んで選んだことを。おれだって、望んでここにいるのだということを。

「おれ、有島武郎の小説が読みたいです。『生れ出づる悩み』を読んでみたい」

 ガラスに隔たれた向こう側で『生れ出づる悩み』の初版本が飾られている。青山は意志を持って、ガラスケースに強く拳を打った。

「木田金次郎の人生は、有島武郎を標としたから続いたんじゃないのか。勝手に小説のモデルにされて、父から貰った土地すら生活改造のために手放して、最期は勝手に女と死にやがった事実があっても」

 本の中には有島武郎の叫びがあるはずだった。

「有島武郎が何を願い、木田金次郎が何を信じたのか、おれはちゃんと知りたい」

 桜井は頷かなかった。どこか後ろめたそうに笑みを浮かべる桜井を見て、青山は知る。

 おれは、ひたむきに強くにあろうとする、本当は弱いこの人のことを存外気に入っている。

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