四、有島

 受付で手渡された有島記念館のリーフレットには、緑の草原に聳える青い羊蹄山と、寄り添うように建つ白い有島記念館の絵が描かれている。しかし、そんな初夏の画の爽やかさとは裏腹に、黒いインクをぶちまけた背景に白くプリントされた、有島武郎の写真と対峙するすぐ側には二本の白樺が聳えられており、一歩踏み出せば展示の入口だ。誂え向きに、写真の横には有島武郎の世界、と印字がされている。

 青山は、有島武郎の顔を初めて認識する。目はぱちりと大きく、はっきりと鼻筋が通り、どこか愛嬌のある顔だ。だが、その表情は真顔とも微笑みとも言い切れない。こちらを見透かすような目が、少し怖い。

「青山君。観るペース合わせなくてもいいかな」

 近くにいた桜井が問うてきた。その手には同じように青々としたリーフレットが握られている。暗い服の桜井には、いやに鮮やかに映る。

「こういうとこ何もわかんないんで、先生が好きに観たいって言うなら、おれはおれで勝手に観ますよ」

「ありがとう。助かる」

 了承を得ると、桜井は白樺の間を躊躇なく越えていき、黒い道の中へ吸い込まれていった。青山は一呼吸置く。緊張を覚えていたが、そういえば桜井は、所詮人が創ったものだから好きに観ればいいと言っていた。青山は無知だ。だから、わからないことをわかっていたい。一歩を踏み出す。

 選択することへの期待があった。選ばされるのではなく、選びたい。

 白樺を越え、赤煉瓦の床を踏み締めて歩く。壁も天井も漆黒に染まった通路の右側から、色づいた日差しが細く差し込んでいる。果物が描かれたステンドグラスだった。鮮やかな林檎や葡萄の絵が太陽を通して瞬く。反射で煌めく床を踏み締めて曲がると、一面、赤煉瓦の空間が待ち受けていた。ぐるりと一周、回り込むように展示が始まっている。

 正面の煉瓦の壁には、有島武郎の白黒写真が所狭しと展示されていた。その写真たちを裸電球が淡く橙色に照らしている。幼少期から晩年まで様々な姿が並んでおり、妻子らしき人と共に写る有島武郎の顔は、優しい笑みを讃えている。

 また、端に一枚、郊外の灌木近くを歩く、二人の男の背をうつした写真があった。片方は洋装でもう一人は和装だ。親しく寄り添っていながらも、二人はそれぞれの道を向いて歩んでいるような印象を受けた。

 写真の下には、有島武郎と木田金次郎とある。

「木田、金次郎……?」

 咄嗟に答えが欲しくて辺りを見渡す。桜井の姿は側にない。確か、好きな画家だと言っていた。岩内に美術館があるから行きたい、とも。有島武郎と木田金次郎が好きだ、と。

 だが、二人に接点があるとは思いもよらなかった。小説家と画家に果たして何の関係があるのだ。有島記念館の一枚に飾られるほど、深く繋がりのある画家なのだろうか。青山は、桜井が怯える小説家の末路など何も知らない。隣に桜井という師はいないから、青山は自分の感想を抱くしかない。きっと答えはここにある。だからこそ、進むしかなかった。

 道は左右に繋がっていたが、左側から回ると順に有島武郎の誕生を辿れるようだった。壁にはパネルが貼られており、すぐ下には底に赤い布が敷かれたガラスケースがある。ガラスの中には原稿やノートなど、有島武郎に関わる品が展示されている。

 最初の壁には、有島武郎の誕生というタイトルのパネルと共に、有島武郎生誕五ヶ月の写真が飾られていた。父は武、母は幸子という名前らしい。両親の写真も飾られていた。ガラスケースの中には、有島家の家系図が展示されている。

 文学館とはこういうものなのかと青山は驚愕する。美術館の方がまだ想像が付く。あちらはきっと、絵画や彫刻がたくさん飾られているのだ。だが、文学館に小説の中身は開かれていない。あるのは上っ面の表紙ばかりだ。作者の人生が順番に、まるで見世物のように並べられている。よく知る、祝津の鰊御殿より露骨に人間が語られていた。文学館なんてエゴだ、と桜井が言っていた意味がわかった。人間の人生を解剖して並べている。

 眼前のパネル曰く、有島武郎は一八七七年に生まれたらしい。百年以上経っているから、有島武郎は絶対に生きていない。だから、生から死までの人生の全てがここに飾られている。

 空間として異質だと率直に思ったから、もっと知りたくなった。青山は歩みを進めていく。

 東京に生まれた有島武郎は、父の税関長就任と共に横浜に移住する。当時の横浜は、開国から僅か二十年程の主要な港町だった。父の勧めで有島武郎は、西洋文化や外国の風俗や習慣を学び、家庭内では儒教や武士道の理念を身に付けさせられた。そのような和魂洋才の厳格な教育を受けたのは、父から跡取りとしての期待が掛けられていたからであった。

 ミッションスクール、学習院を経て、有島武郎は札幌農学校へ入学する。農業への志は高く、入学翌年の日記『観想録』には「我あえて大材を以って自ら期せずといえども、願わくは以って農業の革新の魁たらん」と農業への思いを書いていた。その直後、父・武が北海道のマッカリベツ原野・現ニセコ町の土地を不在地主として開墾する事業に着手し、有島武郎は自らの農業の志をくむ父の計らいに感謝の意を示したそうだ。

 つまり、有島武郎の父はニセコ町の土地を開墾のために買ったらしい。マッカリベツ原野とはニセコのどこなのだ。スマートフォンで地図を開いて検索すると、まさに今いる地点を示したから震えた。道中の看板で見たから覚えている。

 この土地の名前は「有島」だ。

 土地と名が同じなのは、偶然でも嗜好でもない。有島という余所者の金持ちが土地を買って、名を変えたのだ。少し考えればわかるはずの事実に至れなかったのは、人名によって地名が変わることを青山自身が心底憎んでいるからだ。

「青山留吉……」

 忘れたいのに覚えてしまっている名を呟く。青山留吉とは、山形県遊佐町から小樽の祝津に住み着き、漁場を開いて祝津に春鰊と富をもたらした張本人であり、青山の先祖だ。青山留吉によって、祝津に青山の名は轟いた。そして、衰退の歴史とかつての栄華を語る屋敷だけが残って、青山の名を祝津の地に縛り続けている。興味がないどころか嫌悪すら抱く青山家の歴史を、青山は父から自慢げに聞かされ育てられた。

 いつも思っていた。それはあんたのものじゃなくて、もうとっくに死んだ先祖の栄光でしかないじゃないか——。

 もはや父が嫌いなのか、青山家が嫌いなのかわからない。だから、息子の農業への熱意のまま土地を勝手に買い与えた父という存在と、それを馬鹿正直に喜ぶ有島武郎にはっきりとした怒りを覚える。青山の手は、首から下がる一眼レフへと伸びていた。

 好きに観ればいい。

 カメラに触れた瞬間、はっとして辺りを見渡す。やはり桜井の姿も声もない。いいのだろうか。こんな嫉妬と怒りを抱いても。だが、何故だか確信があった。桜井は笑って許してくれるのではないか、と。だから、カメラを持ち上げて、覗き込んだ。首を絞めていたネックストラップが緩む。気の赴くままに撮ってくれ——。

 シャッターが下りて、青山は瞬きをする。画面には「父・武が農場開墾事業に着手」のタイトルと共に、父の愛と有島武郎自身が輝かしい希望を語る文字が収められていた。青山は進む。

 続いてのパネルには、キリスト教との出会いと書かれていた。有島武郎は母方の祖母から信仰の必要性を説かれるが、仏教曹洞宗では求めるものは得られなかったらしい。やがてキリスト教を信仰する同級生・森本厚吉と出会い、定山渓温泉での自殺未遂事件を経て、有島武郎はキリスト教への信仰を固める。有島武郎は入信によって、弱者への同情的な人道主義精神を高めるが、同時に自分の精神的向上と肉体的欲求、霊と肉との相反する欲求の相克や、そこから生じる罪の意識に苦しんでいく。

 霊と肉体の欲求がぶつかり、そこから罪が生まれたらしい。有島武郎の言う罪とは、一体何なのだろう。

 くだらない罪の始まりだよ。

 赤井川の道の駅で、聖書を諳んじた桜井が浮かぶ。青山は聖書など一度も読んだことない。そういう家に生まれたり、望んで学んだりしない限り、日本人に聖書を読む機会など無い。桜井も有島武郎のようにキリスト教に入信したのだろうか。

 パネルは、軍隊生活とアメリカ留学を経て、信仰のゆらぎへというタイトルに変わる。有島武郎は、ペンシルヴァニア州・フレンド精神病院での勤務経験や、日露戦争を興味本位でしか見ないキリスト教国家の裏側に触れることで、キリスト教の「罪」に疑問を抱く。さらにワシントンの国会附属図書館に通うことで、トルストイなどの社会意識の強い人道主義的作品に親しみ、文学から信仰へと興味が大きく傾き出す。

 有島武郎は、当時の心境を「欧州に旅立つ前に一人の文学愛好者として、教員でもして一生を過ごそうという決心をした。それは悲しいあきらめだったが、私は貧しい頭脳の自分自らが文学者になろうというような決心には如何にしてもなれなかった」と振り返る。さらに、詩人・ホイットマンの詩を知り、霊と肉・善人と悪人といった二項対立的なものの考え方から離れ、人間をあるがままにみられるようになった、という。

 二項対立という言葉に心臓が跳ねた。陸と海、生と死。青山自身に心当たりのある思考回路だ。敵か味方のどちらかでいてほしい。一つを愛して、もう一つを憎みたい。どちらかに縋ることは単純で明快だ。死ねなかったから、生きている。だから青山は今、桜井に買われてここにいる。その二項対立から離れることが人間のあるがままだ、と展示は告げている。

 青山は、ふと我に返って上を見る。低かった天井が開け、屋根裏まで続く吹き抜けの空間となっていた。ぐるりと続く壁際の展示から離れた中央に、木製の農具が置いてあり、その横に上へと続く階段が続いている。二階はロフトとなっているようだ。きっとこれが、展示の全貌だろう。

 そこまで広くないのに、桜井の気配が全く無い。無理に探す気はなかった。桜井には好きに観てほしかったし、最早、青山自身も好きに観たくなっていた。また、壁のパネルへと視線を戻す。

 有島武郎は、ヨーロッパ大陸へと渡った後、ふたたび札幌へ戻り、東北帝国大学農科大学の英語講師に命じられる。この時期、有島武郎は父から見合いを持ち込まれ、陸軍中将の二女・安子と見合いし、結婚する。有島武郎は妻を愛し、三男の子宝に恵まれて幸せな時を過ごす。しかし、十一歳年下の安子は、結婚生活に精神的向上を求める有島武郎にとって重荷となり、夫婦は離婚の危機を迎える。また、結婚によって肉体的欲求の強さを知ることになり、有島武郎は「自分は欲も良心も兼ね備えた人間でしかなく、神の子ではない」と考えるようになる。

 ガラスケースの中には、有島武郎と妻の見合い、また、息子三人と共に映る父・有島武郎の穏やかな笑みが写真として残されていた。父としての有島武郎の笑みに心がざわつく。青山はカメラを構えて、写真の写真を撮った。写真自体を撮るのは、なんだか奇妙な心地がした。

 レンズから目を離し、視界が開けたところで、ガラスケースの向こうに一枚の水彩画があることに気が付いた。何人もの男性がこちらに視線を向けずに、自然体を捉えるかのように描き認められている。スケッチの横に、それぞれモデルの名を示しているのか、筆記体や漢字のサインが書かれていた。タイトルには、有島武郎水彩画『黒百合会の学生たち』とある。その先に説明が続いていた。

 一九〇七年、絵を好む有島武郎や北大の学生が中心となって美術愛好会「黒百合会」を設立。展覧会に有島武郎は自作の絵を出品するほか、同人雑誌『白樺』と縁が深いロダンの彫刻作品やミケランジェロの複製絵画などを展示し、北海道における西洋美術の移入者として大きな役割を果たした、と書かれていた。有島武郎も絵を描いていたことを初めて知る。直筆のスケッチを観る限り、確かに繊細で上手い。

 パネルの文章には続きがあった。黒百合会は、小説『生れ出づる悩み』のモデル木田金次郎との出会いのきっかけとなった、とある。

 モデル、という言葉を見て、息が止まった。モデルということはつまり、木田金次郎という人間を基に、有島武郎が小説を書いたという事実に他ならない。最初に二人の写真を観た時から、ただならぬ友人ではない気がしていたが、想像以上に深い繋がりであることを知って、目眩がした。何故だか無意識が理解を阻んでいる。これは、確か桜井が最初に読んだ有島武郎の小説だったはずだ。

 次のパネルは、信仰を離れるというタイトルだった。有島武郎は、札幌独立基督協会に退会届を提出して、ついにキリスト教の信仰を離れる。その時の心境を有島武郎は「自分が自分の眼で自分を見たのはこの時が初めてだ」と語っている。そして、妻・安子を結核が襲う。有島武郎は大学に辞表を提出してまで看病に専念したが、安子は二十七歳で世を去った。また同じ年、体調を崩していた父・武が胃癌を患っていることが判明し、妻の死からたった四ヶ月後に父も死去する。二人の死に有島武郎は大きな衝撃を受けるが、皮肉ながら二人の死は家という束縛から有島武郎を解放し、作家活動を深化させる契機となった。「私は私自身を一番に大切にしよう。一番かわいがろう。私は私を一番優れた立派なものに仕立てあげることに全力を尽くそう」と有島武郎は決意し、作家として本格的に歩み出す。すぐ横には、花に囲まれた棺と遺影が映された安子の祭壇の写真が飾られていた。青山は自然とカメラを構え、シャッターを切った。衝動を止められない。

 流行作家・有島武郎として、その栄華は徐々に世間へ認められていく。『カインの末裔』『或る女』『惜みなく愛は奪ふ』など、当時の原稿や初版本がガラスケースの中に陳列されている。これが、作家としての有島武郎の確かなる軌跡だ。青山は顔を上げる。『生れ出づる悩み』の概要とあらすじが、壁のパネルに書かれていた。


 『生れ出づる悩み』は、有島武郎と木田金次郎の出会いを題材に一九一八年の新聞連載の後、後半部を補い、刊行された。「私」は画家志望の「君」の突然の訪問を受ける。「私」は「君」に絵を観せられて、不思議な力を感じる。十年後に再会した時、「君」は漁師の過酷な実生活と絵画制作の芸術生活との間で苦悩していた。その姿に、文学者としての自分の姿を重ね合わせて共感し、称賛する——。


 この話、どこまでが本当のことなんですか。そう桜井に問うたのは、他でもない青山自身だ。

 青山は、桜井志春という文学者の目に映りたいからここまでついてきた。価値を付けてほしいという期待があったからこそ、どうして自分なんかを助手席に座らせたのかという引け目が消えなかった。さらに、どうやら桜井は青山自身の選択を望んでいるらしい。一方的な献身の動機がわからないから、ずっと奇妙で、死神のように気味が悪かったのだ。

 ここまで有島武郎の展示を観ながら、どうにか気付かないようにしてきた。裕福な家柄、キリスト教への信仰と別れ、文学への陶酔、教員という仮初の道、そして、小説家という輝かしい名声——。

 ああ。恐ろしいほどに有島武郎と桜井志春は似ている。だから、あんたはおれを選んだのか。桜井志春の人生は有島武郎を踏襲しているから、木田金次郎と同じ漁師である男を選んだ。そして、このカメラを与えたのだ。木田金次郎のように、芸術家としての種子を仕込んで自分と共感させて、有島武郎の小説のようにモデルにして称賛する。そのために青山を有島記念館に連れてきたのだ。全てをなぞらせ、自覚させるために。

 踊れというのか、同じように。有島武郎と木田金次郎と同じ、末路のために。

 小説『生れ出づる悩み』の結末ではない。現実の末路はどこにある。視線の先、ガラスケースの中には、『或る女』のモデルの写真、『生れ出づる悩み』の当時の第一回新聞連載記事のコピー、『泉』という個人雑誌、そして『星座』の初版本が飾られていた。それらを振り切るように、青山は壁に目をやる。

 そこには、ただ一文字、「死」とだけが書かれた白いパネルが存在していた。人の辿る末路などそれしかない。わかっていたのに、その一文字は重い。有島武郎はどうして死んだのか。綴られた年表の一番最後を夢中で辿る。

 自裁。

 その意味を認識した途端、心臓から血液が送り出される音を聴いた。血が騒いでいる。納得が襲ってくると共に、自分の死が瞬く間に遠くなった。今朝、確かに跨ごうとした崖際の錆びた鉄柵とは違う。ここに潮の香りなどないはずなのに、境界が、揺らいでいる。

 有島武郎の人生は、小説執筆の停滞を迎える。友人に「創作は出来ないできない。今度位苦しんだことはない」と胸の内を伝えながらも、停滞に抵抗するように札幌農学校を舞台にした『星座』の執筆を始めたが、有島武郎の自死によって未完となる。有島武郎自身は、創作力減退の原因を自身の恵まれた環境にあると考えていた。「如何にしても徹底的に生活を改めなければ筆の動きようがない」と自負し、文学という自分のための仕事を妨げる障害を取り除くための「生活改造」に着手する。この生活改造の中心は財産の処分であり、中でも最も大きな仕事は、北海道の有島農場の解放だった。解放宣言を小作人に対して行い、農場を自ら手放した。財産の処分は文筆活動だけで生活していくという覚悟であるとともに、生前受けた父からの束縛や家からの解放も意味していた。

 そして、一九二二年頃から有島武郎は、雑誌記者・波多野秋子と徐々に関係を親密にさせていく。だが、その不倫関係が秋子の夫・春房に知られ、金銭的解決か姦通罪での告訴かの結論を求められた。追い詰められた結果、有島武郎と秋子が選んだのは死だった。二人は新橋駅で合流し、軽井沢の別荘、浄月庵へと向かう。二人はそこで自ら命を絶ち、有島武郎は四十五年の生涯を閉じる。

 ガラスケースの中、有島武郎の絶筆が残されていた。

「世の常の我が恋ならばかくばかり おぞましき火に身はや焼くべき」

 重ねて、遺書も展示されていた。遺書というタイトルの元、宛名ごとパネルに綴られている。まず、弟妹宛とあった。

「段々暗くなりつつあった人生観が一時に光明にかがやきました。私達は最も自由に歓喜して死を迎えるのです。軽井沢に列車の到着せんとする今も私達は笑いながら楽しく語り合っています。如何か暫く私達を世の習慣から引き放して考えて下さい」

 次の遺書は、母・幸子と子供宛だった。

「父は出来るだけの力で戦ってきたよ。こうした行為が異常な行為であるのは心得ています。皆さんの怒りと悲しみとを感じないではありません。けれども仕方がありません。如何戦っても私は此運命からのがれることが出来なくなったのですから。私は心からのよろこびを以てその運命に近づいてゆくのですから。凡てを許して下さい」

 最後に、死に向かう直前の二人に会って、説得しようとして失敗した、足助素一への遺書が飾られていた。

「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思わなかった。恐らく私達の死骸は腐爛して発見されるだろう」

 愛。死。無力。死骸。腐爛。どれも日常からは限りなく遠いが、この言葉を尽くしたのが、有島武郎の確かな最期だった。

 死と共に展示が一周した。この先は最初の写真たちだ。赤煉瓦の壁を虹色のランプが照らしている。青山は立ち尽くす。有島武郎は死んだ。愛だけが自由で歓喜で運命と述べて、死はこんなにも無力であると嘯いて、自らを裁いた。

 では、有島武郎にモデルにされた木田金次郎の人生は。さらに死後百年経った今、その人生をなぞろうとしている桜井志春の人生は。そのまたモデルに為りかけているおれの人生は、一体どうなる。

 桜井は何処だ。青山はもう一度誕生から展示を回る。何も観ようとしなければここなど狭い。一周回ったが、どこにも桜井はいない。青山は立ち止まり、高い天井、吹き抜けを見上げる。残された場所は二階だけだった。

 鉄製の手摺を掴み、煉瓦の階段を踏み締める。上りきったところで、眩しさに目を細めた。ランプの淡い火を掻き消す冬日が、大きな窓から差し込んでいた。白い日差しは紺青の羊蹄山を浮かび上がらせる。その裾野には、白銀の森が広がっていた。

「……これが、有島農場なのか」

「そうだ」

 青山の問いに、ようやく答えが与えられる。二階は狭い屋根裏だった。桜井は、有島農場を映す窓の前に佇んでいた。外からの逆光でその表情は陰っている。桜井の他には誰にもいない。

 青山は横の展示に目をやる。解放宣言というタイトルのパネルと共に、有島農場解放への軌跡が説明されているようだ。読もうとする前に、桜井の静かな声が響いた。

「かつて父・武が、子の将来を憂いて買い取り開墾したこのマッカリベツ原野の土地財産は、皮肉ながら父から逃れたかった本人の負担となってしまった。だから有島武郎は父の死後、ここを無償で小作人に返し、共生農園とした。戦後、農園としての繁栄の後、みんなが有島武郎に感謝の思いを抱き、この文学館は建てられ、『有島』の地名が残っている」

 青山は顔を上げる。パネルの上、天井付近の壁に金の縁取りで囲まれた「相互扶助」の書があった。この文字通りだ。解放宣言は一方的な救済や解放では無い。有島農場は、有島武郎と小作人、相互の救いの為に存在していたのだろう。

「でも、生活改造ですよね。有島武郎が農場を解放したのは小作人の為じゃない。己の作家活動を維持する為だ。小説を書きたい。ただ、それだけのために手放したんですよね」

「その通りだ」

 正解を当てられても狼狽える様子はない。ここにある展示など観なくとも、最初から、有島武郎の真意など桜井はわかっていたのだ。此処に来たのは、青山に辿らせる為だ。青山が有島武郎を知り、理解することを桜井は望んでいたのだろう。

「こんなものを、おれに観せたかったんですか……?」

 展示の内容など、もうどうでもよくなっていた。桜井との距離を詰めていく。窓の向こうの羊蹄山が近づく。山は、動かない。

「あんたは有島武郎になりたいんでしょう。だから、おれも木田金次郎にしたいんですか。なんですかあの『生れ出づる悩み』っていう小説。崖の上で死のうとしていたおれが都合良く木田金次郎と同じ漁師だったから? その為に手間も金も掛けておれを連れてきてこんなものを観せて、共感させて絶望させて、カメラを渡して上手いこと操って、そんでっ」

 勢いのまま、首に掛かったカメラが揺れて体を打つ。ちょうど股間の位置に当たった。男根に響いて激痛が走る。痛みに耐えながら寄って、その首元を掴んだ。

「最期にあんたは、自らを裁いて死ぬんですか」

 そう吐き捨てて、桜井の表情を捉えた。瞬間、青山は目を見開く。どうせ全てを見透かした死神のように余裕を滲ませて笑っているだろうと思っていた。しかし、桜井の表情に浮かぶのは、心からの怯えだった。

 青山は握る手を緩める。解放された桜井は血の気を無くしたまま、冷え切った窓枠に崩れ落ちるように座る。その紫色の唇が力なく、微かに動いた。

「……俺の妹は、小学校の卒業式に向かう登校中に倒れて死んだ。雪の積もる川の側、山の麓だ。何の前兆もない、突然の発作だった。俺は当時十五歳、中学三年生で、病院に駆けつけた時、既に妹は死んでいた」

 山が、と桜井は虚ろに呟く。山が動かない。目の前の羊蹄山と重なって、青山の脳裏に映像が映る。白く冠雪した手稲山の麓、雪深い地に沈む少女は、冷たくなって永遠に温度を失くしていく。

「妹の他には何もいらなかった。妹が俺を兄だとたらしめ、存在させていたからだ。この切望が死という喪失によって齎されたものなのか、生前からあったものなのか、最早区別が付かない。妹への愛が、兄妹愛なのか性愛なのか執着なのかすら、もう何もわからない。ただ、俺はひたすらに救いを求めていた」

「救い、ですか」

 止め処無い独白に一石を投じたくて、呟く。

「ああ。俺は、妹がどこに行ったかを知りたかった」

 返答はあった。聞こえている。しかし、桜井は果てない遠くを見つめている。本当にわからないと、頼りなく瞳が揺れている。

「祈る意味がわからず、妹の四十九日から逃げた。仏壇をひっくり返した。ここにいないのに墓に骨を埋める意味がわからなかった。仏教以外なら答えがあるのかと思って、一人で教会に通ってみたし、新興宗教の門も叩いてみた。高校生の身分で手に入る限りの教典を探して読んでみた。でも神は、俺に答えを与えてくれなかった」

 罪の意識が苦しいと有島武郎は嘆き、結局キリスト教から離れていった。青山は神も教えも知らないが、それに救われる大勢が存在することくらいはわかる。しかし、学んで駄目だと見限る人がいるならば、信仰だって万能ではないのだ。桜井は浅く息を吐く。

「妹の死後も両親は、こんな好き勝手な俺を好きにさせてくれていたよ。全て、不足無く与えられた。だが、それでも救われなかった。雪深い北海道から逃げるように上京して大学に進学して、それなりに友人や恋人ができたが、俺はずっと空虚だった」

 へらりと桜井は自嘲を浮かべる。死という負い目と陰があるから、人の弱みを刺してくる。絡めとるのだ、人を。

「でも、人は嫌いじゃなかった。人文学科に進んだのも結局、生きた人間と関わりたかったからだ。恋人のことは大切だったし、それなりに満たされていたから、このまま国語教師でもして、結婚して家庭を持ってもいいとまで思っていた」

 先程、階下の展示で読んだ有島武郎の台詞に酷く似ている。教員でもして一生を過ごそうという決心をした——。既視感はきっと正しい。二人にとって教師は妥協で、過程でしかないのだろう。

「でも、教師になる為に通った大学の図書館で手に取った、有島武郎の『生れ出づる悩み』に殴られてしまったんだ……」

 桜井の声には恍惚と共に、底知れないほどの諦念が滲んでいた。手に取って惹かれて読んだことを酷く後悔している。そんな声色だった。

「その『生れ出づる悩み』は、本当に木田金次郎がモデルなんですか」

「ああ。当時、札幌農学校に勤務していて、作家と教師の狭間で揺れていた有島武郎は、画家と漁師で苦悩する木田金次郎の姿に深く共感した。芸術生活と実生活、どちらを取るかの二項対立——。その二人の苦悩を『私』と『木本』に置き換えて書かれたのが、『生れ出づる悩み』だ」

 作家と画家の出会い。揺れゆく互いの欠落は共感に変わり、作家は画家を書かざるをえなかった。運命や偶然というには切実すぎる。きっと、邂逅は必然だった。有島武郎の人生を木田金次郎が抉った。その切実な思いは、小説という質量をもって、この世に存在している。そして、それを桜井志春は手に取って読んでしまった。

「あとはもう、シンプルな事象でしかないよ。俺も小説を書き始めてしまった」

 それが全ての始まりだったと懺悔するように、桜井は歪んだ笑みを浮かべる。

「それが、あの『終末に向かうあなたと』なんですか」

「俺は、小説の中で妹を亡くした『僕』を演じた。……演じた? いや、違う。『僕』は俺から生れ出たものだ。俺は、妹を亡くした『僕』の苦悩と同化し、蘇った妹と邂逅した。俺は小説の中で、やっと妹に会えたんだ」

 その途端、桜井は心底満足そうに笑った。死神から程遠い、心からの笑みだった。だから、青山の胸を騒がせる。自ら書いた小説に満足する、それは確かな狂気だった。

「だが、物語はしっかりと終わらせないとならなかった。蘇った妹と共に暮らしていく幸せな結末を書こうとしたら、容易く狂った。俺は、車の前に飛び出しかけた」

「なんでですか」

「あの時、死ななければならない、と強く願ったことは覚えている。おそらく、決して叶わない幸せを書いたから、小説だけを信じたくなったんだと思う。だから、不幸な現実の方を消そうとした」

 飛び出した時の明確な記憶は無い、止めたのは恋人だったから、と桜井は笑う。

「でも、書いている間は妹に会える。それが求めていた救いだと確信したから、俺は死ぬとわかっていても、書くことをやめられなかった」

「あんたの救いって、まさか」

「妹は何処にもいなかった。だから、書いて創るしかなかったんだよ」

 桜井の背後で、不可侵の雪原が煌めく。かつて白い雪に沈んで死んだ少女は、春になっても動かなかった。だから桜井は春を諦めた。冬のまま、死体の眠る地で暮らすことを選んだ。確かに論は通っている。しかし、あまりにも無茶苦茶な話だ。もし、本気で小説が現実を凌駕できることを信じたとして、実行できる胆力も覚悟も常人には無い。

 だが、この男なら。

 俺にとっては真実。それ以外に意味とかある?

 青山が小説の何が本当かを問うた時、桜井が答えた意味が、今更わかった。桜井は、書いた己の虚構を心から信じてしまえる。事実から捏造して生まれた虚構は、信じるから真実となる。後部座席に遺骨を乗せ、死にたがる男を漁師だからという理由だけで買って助手席に乗せて、積丹に遺灰を撒こうとしている事実がある。全て、常識の範疇では荒唐無稽な話だ。だが、もし、それらが小説という虚構を成立させる為ならば、意味のある事象となる。

「俺は、現状に不足を感じていない。小説がありさえすればいい。満たされないことに安定すら感じているよ」

「いや、でも」

 それならば、どうしてそんなに苦しそうな顔をして怯えているのだ。そんな所業が何のリスクも犯さず、容易く成し遂げられるわけが無い。今、桜井は顔面を蒼白させて、罪悪感に喘いでいる。その絶対的な理由があるはずだった。

 桜井の背後、雪の積もる有島農園が白銀に輝いている。些細な人の手は、広大な大自然に暴力的な程に覆い尽くされている。この景色は皮肉ながらも、酷く美しい。そうだ。有島武郎は文学という自分のための仕事を妨げる障害を取り除くことを生活改造と定義した。父から与えられたこの地を、捨てたのだ。

「まさか、生活改造をしたんですか。有島武郎が文学の為にこの地を手放したように、あんたも何か捨てたのか」

 死者を蘇生する文学を創る為の障害だ。その障害は、おそらく常識の外にある。

 懺悔するように、桜井は口を開いた。

「……俺は、有島武郎の文学に出会い、書いて生きていくと決めてから、大学と教員時代に、各地の文学館と美術館を回って、そうならない為の答えを探した。だが、駄目だった。大抵の芸術家は大切な人を亡くして、全てをかなぐり捨てて命を賭してまでかいていた。書くということは、他の全てを捨てることと同義だと実感した。すごく怖かった。できることならば捨てたくなかった。だが、創作を失えば、おそらく俺は二度と喪失に耐えられない。書くことはやめられなかった。だから俺も捨てたんだ」

「何を」

「恋人だよ。車に轢かれかけた俺の手を引いて救った彼女を、捨てたんだ」

 愛している、と唇が戦慄いていた。嘘ではない。疎ましくて捨てたのではない。桜井は本当に心底恋人を愛していたのだ。だから。

「青山君は、私の二作目は読んだか?」

「……はい。『凪ぎつづけて、飛ぶ』ですよね」

「その通りだ。自殺を止めてくれた恋人を捨てるくせに、その恋人についての小説を書いてしまう屑人間が主人公の話だ。私は現実の恋人を捨ててまでも、小説で虚構の恋人と愛し合うことを選んだ。そしてまた妹の時と同じように小説の結末では、恋人と別れるんだ。別れるしかなかったんだ。全ては書くために!」

 桜井は顔を両手で覆う。整えられた前髪が乱れ、指の隙間から血走った目が覗いていた。

「わかりやすい生活改造だろう。私にとっての障害は、愛する人間だ。愛した人間が目の前から消えてくれることで、私は、愛を認めた虚構を書くことができる。そうやって生きている」

「どうして。喪った人間を手に入れる為に書いてたのに、もう書く為に失っているじゃないですか。目的と手段が入れ替わってる」

「とっくにおかしいことはわかっている。だが、心が凪ぐから飛べる。凪ぎつづけるから書けるんだ」

 これが俺の愛なんだ、と桜井は呟く。掌の隙間、覆われない口角が緩く上がっていた。果てない諦念と開き直りと、狂い。呼応するように、桜井の左耳で銀の蝶のピアスが揺れた。

「先生は、死にたいんですか」

 何様だろう。今朝死のうと、崖の縁に足をかけていた青山が尋ねられる問いではない。しかし最早、桜井の末路をこのまま知らずには終われないところまで来てしまっている。

「死にたくはない。必死で死なない方法を探している。だから幸せを捨てているんだ。愛の前にかくまで死が無力なものとならないように」

 わざわざなぞるように有島武郎の遺書を引用する。有島武郎も死にたいわけではなかっただろう。だが、その最後は自裁だった。

「なら、有島武郎みたく心中したいわけじゃないんですね」

「何。青山君も俺と心中してくれるの」

「それは……」

 波多野秋子みたいに、と微かに唇が動いた気がした。その唇に血の気は無い。有島武郎と似た道を辿るたび、桜井はこうやっていつも怯えてきたのだろう。有島武郎を踏襲したいのではない。逆だ。芸術家の本懐が死を連れてくるのならば、そうならないよう必死に桜井は足掻いている。

「心中相手になれないのなら、おれのこと木田金次郎みたいに書くんですか」

 言葉にして、すぐに後悔した。言い換えるならそれは、おれを愛せるのかという問いと同義だからだ。

「私は君のこと書きたいよ」

 桜井は顔から押さえていた手を離す。無垢な瞳が青山を刺した。

「だから声を掛けて、崖から出来る限り遠くへと誘った。漁師だったのは本当に偶然だ。木田金次郎と重ねたいわけじゃない。君が、君だけの価値を見つける瞬間を俺は書きたい」

 答えは返った。桜井は、青山を愛したいと言っている。愛せるとも言っている。

「でも」

 だが、その愛は文学を妨げる。

「俺は隣にいなくていい。君を見届けて俺は消えるよ」

 当然のように桜井は言った。愛があるから書く。だが、その愛は荒波を連れてくるから隣に置いてはおけない。凪が欲しいから。凪いでいないと、愛するあなたを書けないから。そして凪いだそこに、一冊の本だけが残るのだ。

 青山は下唇を噛み締めた。目の前の白銀が滲む。

 最初から二日間の契約だと決まっていた。小説家の価値になることだって、自分から望んだことだ。それなのに、どうしてこんなにもおれは傷付いている。

「……青山君?」

 死にたい理由を加害に変えて裁かれるのを待っているのだ、この人は。

 どうして妹ではなく、俺だけがのうのうと生きているんだ。桜井は、いまだ白銀に埋まる死体に向かってそう叫んでいる。死体などもう、埋まってなどいないのに。

 死ねないから、裁かれたいのか。愛する人を消すことを加害だと誤魔化して、自罰を攻撃に代えて書いて狂って死んでいく。有島武郎も桜井志春も、みんなみんな、みんな。

 衝動のまま、カメラのカバーを取って握り込んだ。親指で電源を弾いて、ファインダーに視界を押しつけた。そのまま人差し指に力を込める。もう、二度と逃したくなかった。

 シャッターを切った後の視界は潤んでいた。袖で涙を拭う。モニターには、雪に包まれた有島農場を背景に、戸惑う桜井の顔が映っている。

 遠くでは、羊蹄山が変わらないまま青く美しく輝いていた。

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