三、赤井川

 車道脇の残雪はいまだ、堆い。助手席のシートに身を預けながら、青山は外の景色を見つめた。三月中旬を過ぎたので、もう余程の寒波がなければこれ以上雪は積もらないが、溶けきるのもまだ先だろう。近かった日本海に背中を向けるように、車は山へと登っていく。信号の上、赤井川方面と書かれた青看板が過ぎ去った。青山は思わず振り返る。

「余市の方、通らないんですか」

 積丹半島を介すると、小樽は東側で岩内が西側だ。だから小樽から岩内に向かうには、積丹半島の根元を余市から仁木へと直進するのが近い。赤井川を通ると、日本海沿岸からは大きく外れる。確実に遠回りだろう。

「なんだ青山君、ガイドできるんじゃないか。この先任せてもよさそうだ」

 前を向いたまま、桜井は皮肉混じりに言う。まあこのくらいならできますけどもっと離れると無理です、とごにょごにょ返すと、桜井は冗談だとあっけらかんと笑った。

「岩内の前に、ニセコに行きたいんだ」

「そこも家族の思い出の場所ですか」

 青山も皮肉を返した。もう、そういう家族回顧ツアーだと割り切った方が、必要以上に嫉妬心が揺さぶられなくて楽だった。桜井は、ははと苦笑を漏らす。

「ニセコも岩内も特段そういうわけじゃない。私が個人的に行きたいだけだ」

 青い橋を渡り、桜井はハンドルを素早く右へ左へと切る。蛇行した道を登る車体は大きく揺れた。

「青山君は、有島武郎と木田金次郎を知っているかい」

 青山は己の知識を辿る。有島武郎。多くは知らないが、おそらく国語の教科書で何らかの作品を読んだ記憶がある。木田金次郎の方に記憶は無かった。

「有島武郎は確か、小説家でしたっけ」

「ああ、そうだ。そして、木田金次郎は画家だ。有島武郎は札幌に長らく住み、北海道を舞台にした数多くの作品を残したこともあって、かなりの知名度があるだろう。対して木田金次郎は、有島武郎ほどは知られていない。比較的マイナーな地方画家だ」

「その小説家と画家がどうかしたんです」

 尋ねたところでトンネルに入り、辺りが暗闇に包まれる。桜井の横顔は闇に溶け、その表情がよくわからなくなった。

「どちらも好きなんだよ。有島武郎の記念館がニセコに、木田金次郎の美術館が岩内にあるんだよ。せっかく岩内に泊まるんだから、途中でニセコに寄りたいと思ったんだ」

 桜井が答え終わったところでちょうどトンネルが切れた。青山は黒から変わった雪景色の白の眩しさに目を瞬かせる。桜井はじっと前方を見つめていた。その端正な横顔に気後れする。

「……おれ、文学館も美術館も碌に行ったことないです。知識も教養もないし。馬鹿だからか、なんか敷居が高いんですよ」

 勝手なイメージだが、芸術鑑賞など高尚な趣味だ。青山は膝の上に乗せた一眼レフを握る。桜井のようにカメラを雑に後部座席に投げることはできない。写真にすら怯えているのに、文学や美術は、より遠い。芸術の価値なんて何もわからなかった。

「変に意味を付けようとするから、おかしくなるんだ。所詮、人が創ったものなんだから、好きに観ればいい。わからなかったらわからないでいいのに」

「そんなものですかね」

「そんなもんだろう。私だって、例えば、ピカソの本当の心情なんて何もわからない」

 どこか自棄を織り交ぜて桜井は笑う。

「でも、好きだよ」

 それは真っ当な愛の告白のようで、青山は動揺した。

「ただ上手いなとか、色が綺麗だなでもいいし、なんでこれを描いたんだろうとか、何を思っていたんだろうかと、考えるのが好きだ。わからないなりにわかりたいんだよ」

「そんなんでいいんですか」

「青山君が、有島武郎と木田金次郎に何を思うのか、すごく楽しみだ」

 ふふふと桜井は笑った。やはり試すような所作が、死神や悪魔のようだと思う。

 青山は視線を横へと逃す。窓の外では、雪の壁が地層のように積み重なっていた。雪解けの土が混ざり、黒く汚れた雪が一つの層となっている。積み上がった雪の傍らを、白樺と針葉樹に囲まれて上っていく。

 今更ながら思ったが、桜井は運転が上手い。残雪のある急カーブの狭い道だというのに、勢いが落ちない。カーブ先で突然現れた対向車に肩を竦めて驚くのは、いつも青山だけだった。峠を過ぎたのか、下り坂へと突入する。ひらけた崖の下、先程通ってきた道が見下ろせた。谷底は深い。

 大きな山を越えたのか、一度、道が平地になった。山のイラストが描かれた赤井川村のカントリーサインを通り過ぎる。先はまた山中のようだ。どんどん海岸線からは遠ざかっている。メープル街道393という楓の葉が描かれた標識が道路脇に並んでいる。疎らな住宅や牧場を抜けたところで、真正面に山壁が立ちはだかり、驚く。

「カルデラなんだ、この土地は。だから山が険しいんだよ」

 感心したように桜井は言ったが、学がない青山には何もわからず、返事ができない。そんなこちらの様子に気が付いたのか、補足するように説明は続けられる。

「カルデラとは、火山活動でできた盆地のことだ。屈斜路湖のような北海道各地に残るカルデラ湖のように、遥か大昔、ここも大きな湖の底だった。だが、更なる羊蹄山の噴火によってカルデラの端が崩れ、水が抜けて陸になったんだ。それが赤井川村だ」

「……そうなんですね」

 だから、赤井川村のカントリーサインに山が描かれていたのかと、今更ながらわかった。なんとなくカメラを掲げてみたが、絶壁の山に恐れをなして下ろしてしまう。情けない。元教師の小説家に知識で勝てるわけがないのに、劣等感が抜けない。怯えすら全て、見透かされている気がした。

 山と山の隙間、ひらけた駐車場へと車が入る。三角形の茶色の屋根の建物には、道の駅あかいがわと書かれていた。

「少し休憩しよう。出発してから碌に飯も取ってない。急ぐ旅路じゃないからね」

 桜井は相変わらずの薄着で軽やかに車を降りていく。青山も続いて降りた。道の駅の入口には、ご当地マスコットキャラクターらしきものが描かれたパネルが置かれている。菅笠を被った赤髪の女の子が名産品の野菜と共に、ようこそ赤井川村へとにこにこ笑っていた。すぐ右横には農産物販売所があったが、冬季は閉鎖しているようだ。

 道の駅の内部は、天井が高いワンホールとなっており、売店やカフェが点在していた。黒い薪ストーブがあり、赤い炎をぱちぱちと上げている。穏やかな雰囲気に反し、奥のガラス窓の外には雪の山が積み上がっており、辺りの景色がまるで見えない。カルデラみたいな場所だと、さっき得たばかりの知識を思う。

 売店の一角にはパンが陳列されていた。道産小麦使用を謳うポップが貼られており、菓子パンからドーナツまで全て、この道の駅で焼いているようだ。桜井は、トレイとトングを迷わず取る。

「何が食べたい?」

 当然のように尋ねられたが、青山は自分が桜井に買われた立場であることを思い至る。

「いえ、何でも構いません」

「遠慮しなくていいのに」

 遠慮なのかと自問して緩く首を傾げる。パンの善し悪しなどわからない。食えれば何でもよかった。押し黙る青山に痺れを切らしたのか、桜井はパンを四つ選んで、レジへと持っていく。

「飲み物は? 私はホットコーヒーにするけれど」

「じゃあ、同じものを頂きます」

「本当にそれでいいの?」

「はい」

 青山が迷いなく答えると、桜井は注文して財布を開いた。会計後すぐに、紙コップに入ったホットコーヒーが二つできあがったので、青山が受け取る。桜井はパンを持ち、近くの席へ持っていった。二人、対面で腰を下ろす。

「どれがいい?」

 コーヒーを啜りながら、桜井は尋ねる。ウインナーが挟まったパンが二つと、焦茶とベージュのドーナツ型のパンが一つずつある。

「ウインナーパンと、ショコラオランジュと林檎のベーグルだって。好きなの取っていいよ」

「じゃあ、こちらをいただきます」

 二つあるなら当たり障りが無いだろうと、青山はウインナーパンを一つ取った。

「それだけ?」

「ええ、まあ、とりあえずこれでいいです」

「もっと食べなよ。食べ盛りでしょう」

「いや、おれ、二十四なんで。桜井先生と、そんな年変わんないですよ」

「私は少食なんだ」

 桜井はウインナーパンを手に取り、齧る。その肉の食らい方を見ると、あまり食が細いようには見えなかった。だが、やはり金を払ってもらっている手前、好き勝手に選ぶわけにはいかないと思う。

「だって悪いですよ。こっち金出してないんで。そもそもおれはそういう立場じゃないです。与えられたものを頂くだけですよ。金貰ってるんだから、おれは桜井先生の言う通りに飼われます」

 首に掛かったカメラが重い。このネックストラップは忠犬に掛かる首輪のようだ。引かれているから、忠実にこなしたい。できる限り波風立てずに、桜井の望む通りに動くことが正しいのではないか。

「つまんないね」

 ウインナーを噛みちぎりながら、桜井は笑う。その笑みには、嘲りが滲んでいた。

「先生は、おれに選んでほしいんですか」

「そうやって私に聞く時点で、もう選ぶ気がないよね」

「おれに選ばせて、なんかメリットとかあります? あんたは、からっぽで何もしないおれに期待しているんでしょう」

 青山は桜井に倣うように、桜井が選んだウインナーパンを齧ってコーヒーを啜る。味の濃いウインナーにはマヨネーズが絡まっていた。ふわふわのパンがやわらかい。コーヒーの渋さもとても合う。何の問題もなくおいしかった。

「メリット——というか、青山君はきっと何かを選んだことが無いんだろうね」

「選んだことがない?」

「今だってそうだろう。パン一つ、飲み物一つすら選べない。君は、おそらく遠慮をしているんじゃない。選ぶという発想そのものが欠落しているのではないだろうか」

 ウインナーパンを飲み下し、桜井はショコラのベーグルに手を伸ばす。一口大にちぎって口へと放り込んだ。

「興味が湧いた。どうして選べないんだろうね」

 ステップを踏むような軽やかな指摘は、青山の柔い心を刺した。口に含んだパンの味が急に消えたので、慌ててコーヒーを飲む。ちゃんと苦味がしたので安心する。

「どうしてって、そんなの」

「これは私の勝手な推測なんだが」

 青山の反論を遮るように、桜井は紡ぐ。

「君は、親から愛を充分に与えられず、家庭の中に安全基地を形成できなかった。常に親の顔色を窺って、マイナスをフラットにすることに心血を注いでいたんだろう。その長年の姿勢が、君から主体性を奪った。だから相手の望むように動こうとする。それが人の機嫌を損ねない、一番確実で安全な方法だから」

 急に口の中が酸っぱくなる。海人という名は父が付けた。海の人で、海人。安直なネーミングは呪いに等しい。かつて幼い青山を冷え切った海に誘い、映画館へと引き摺っていった父の自慢げな顔がこびりついて離れない。

 綺麗なほどに図星だったし、ぶん殴られたようで急に具合が悪くなる。

「こんな風に、他人の人生を分析して小説に使うんですか。悪趣味ですね」

「心外だな。ただ、こうかなと考えているだけなのに」

 桜井の指摘によって、長年、見ない振りをしていた寂しさが泉のように溢れ出る。甘かった。小説家の視界に映るためには、こんなにも惨めな自己に向き合わなければならないのか。

「おれを哀れんで、主体を取り戻させようとしているんですか。こんなパン一つすら選べない、可哀想な子だから?」

 桜井は微笑み、ちぎって残ったベーグルを差し出す。

「それを取り戻すのか決めるのは、君だからなあ」

 艶のあるベーグルの表面が僅かに輝いている。青山はやはり手を伸ばせないでいた。

「主体性の喪失と選択の回避は、青山君にとって必要なことだったんだろう。それならば、今までの生き方を否定する気はさらさらないよ」

 わかっている。青山が腹を立てているのは桜井ではなく、己の哀れさを盾にしている自分自身だ。

 選びたい、とは思っている。でも、恐ろしい。

 昔から、何をやったっていつも父や周りに否定された。だから、死を選びたかった。だが、岬からの滑落が選択かと問われると否だ。あれは逃避だ。間違いなく、逃げだった。

「……先生は、おれが選んでも怒んない?」

 父の顔が明滅している。振り切るように顔を上げると、目の前には、無骨な父とは似ても似つかない桜井の端正な顔があった。

「そんなことでいちいち怒ってたら、そもそも旅など誘わないし、カメラも渡さないし、パンなんか分け与えない。私は君を金で買ったけど、従順にさせたいわけじゃなくて、泳がせて甘やかしたいんだよ。好意は素直に受け取ってくれると嬉しいね」

 桜井はいまだパンを差し出し続けている。青山は微かに逡巡したあと、それを受け取った。大口を開けて噛み付くと、しっとりしたチョコの中で僅かに柑橘の味がした。おいしかった。

「俺はね」

 選んだ青山を見て、心底満足そうに桜井は言う。

「選べないのは仕方ないと思っているけど、選ばないのは怒るよ」

 ごくりと塊を飲み込む。首に下げたカメラが熱を帯びて重くなる。パンとコーヒーを握っているせいで、カメラが持てない。それでも「撮れ」と促された気がした。

 置いて、持って、外して、付けて、覗いて、ボタンを押す。何拍も遅れたせいで、桜井の一瞬の怒りは四散していた。穏やかな笑みだけがモニターの中に保存されている。

「うまく撮れた?」

 桜井は笑う。口では青山の好きなようにすればと促しているが、実は選ばされているような気がする。

 どうして、おれが選択することを望むのですか。

 答えはきっと、正しいものを選ばなければ教えてもらえない。青山は残ったベーグルを噛む。飲み下して、もう一つのベーグルを取って食べた。甘い林檎の生地の中に、細かい胡桃が入っている。生地の甘さが、噛めば噛むほど広がっていく。

「そっち、私にも食べさせてよ」

 桜井が頼むから、青山は林檎を一口分ちぎって渡す。桜井は食べた。林檎の味がするね、と笑う。

「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者になると、神は知っているのだ——」

「なんですか、それ」

「旧約聖書創世記三章五節」

 くだらない罪の始まりだよ、と桜井は言った。ベーグルを飲み下すたびに、甘ったるい果実の味が腹へと溜まる。青山は顔を上げる。

 桜井は微笑んでいた。その左耳では、銀の蝶を象ったピアスが静かに飛ぶように揺れていた。


 道の駅を後にして、カルデラの底から這い出るように、山道を上っていく。道路脇の雪は変わらずに高く、その雪の外側には白樺が並び続けている。いくつかの橋を越え、トンネルを潜る。等間隔で並ぶ橙色の明かりを越え、抜けたところでまたカントリーサインが待ち構えていた。

 倶知安町だ。白い視界、フロントガラスの右側に冠雪した尖った山が映る。

「でっけえ」

 そんな青山のぼやきを嘲笑うかのように、さっきの山とは反対の雪壁の向こう、さらに巨大な山が鎮座していた。雪を被った頭しか見えないが、青い広大な裾野が想像できて、息を呑む。山が息をしている。その神聖さに言葉どころか、生命力すら吸われるようだ。

「この道、少し恐ろしいよね。トンネルを抜けるとアンヌプリが出迎えて、見惚れているとすぐ、羊蹄山に殴られるから」

 殴られるという形容は正しい。青山は羊蹄山から目を離せないでいた。道央では有名な山だろう。青山も何度か見たことがある。だが、雪深い時期は小樽からこんな内陸までは来ない。冠雪した姿を生で見たのは初めてだった。山頂が白い分、下が青く輝いて見える。

「蝦夷富士と呼ばれる理由がよくわかる」

 桜井が呟いたから、青山は記憶を辿る。富士山など、ポストカードやテレビ番組でしか観たことがなかった。

「おれは富士山、生で見たことないので、羊蹄の方が馴染み深いです」

「正確に程近い円錐形で裾野が長いところは似ているな。まあ、羊蹄山より富士山の方が大きいけどね」

 富士山は、日本で標高が最も高い山だから巨大であるのは当たり前だ。だが、やはり実際に肉眼で見ないと、山の生命力はわからない。青山にとっては平面でしか見たことのない富士よりも、現実の蝦夷富士の方が大きく感じる。

「羊蹄ですらこんなにでかいのに、富士山はもっと大きいんですか。なら、地元の山なんかもっとしょぼいですね。小樽にも天狗山ってのがありますけど、あんなんスカイツリーより低いぞって同僚が笑ってました」

「単に大きければいいというわけでもないが。天狗山は上まで容易く登れるから、羊蹄山のように山の形そのものを尊重するのではなく、小樽の町を見渡せる展望台やスキー場として多様に機能しているんじゃないのかな」

「同僚は自虐で言ってましたけど」

「じゃあ、青山君はどう思うの? 天狗山は好き?」

 その同僚とは、祝津の先端、桜井が泊まったホテルに地元民ながら泊まっていた奴だ。だから、スカイツリーの件も東京かぶれと内心馬鹿にしていたのだが、突かれて狼狽えた。馬鹿にしていたはずの同僚の威を借りて、桜井と話したことが急に恥ずかしくなる。

「……海よりは、好きですかね」

 カーブと共に、羊蹄山の姿が見えなくなった。峠を越えたのか、その坂を緩やかに下り始めている。桜井は曖昧に頷いた。

「やはり、生活に遠いものの方が好きになるのかな。私は逆に、手稲山の麓に住んでいたからか、山より海の方が好きだ」

 確か、手稲山のある札幌市手稲区は、小樽市と隣り合っている。手稲区は、内陸である札幌の中では最も日本海から距離が近いが、スキー場のある手稲山を有していた。

「小中高、全部の校歌に『手稲山』の歌詞が入っててね。標高は千メートルくらいだけど、辺りが平地のおかげでどこからでも見えるんだ。山から流れる川も多くて、川を見ても山を思い出す。そのせいもあって、ずっとついてくるみたいで、嫌だった」

「嫌だったんですか」

「山って動かないから変わらないだろう。海は流れるからいい」

「でも、海だって波は動きますけど、場所自体は動きませんよ。海水だって蒸発していずれ川から海へ巡っていくから、中身が変わらないといえば同じじゃないですか」

「うーん。きっと感覚の話なのかな。川は海へ流れていくより、山から来るものだといつも思っていた。四季によって木の色が変わり、山の色が巡ってまた戻ることすら、どうにも息苦しかった」

 動かない山岳と、絶えず止まらない海原。桜井と青山、それぞれ好みの問題なのだろう。どちらが良いとか悪いとかではない。自分にとって、逃れられないものは苦しい。

「芸術家が生まれ育った地には大抵、山か水辺がある」

 橋を過ぎたところで、再度、羊蹄山の頭が山の向こうに擡げた。まだ、全体像は見えない。桜井は前を見据えたまま、呟く。

「文学館や美術館は、大体がその芸術家の生家や滞在地に建っていることが多い。全国各地を巡っていて気付いたんだが、芸術家の住んでいた地のすぐ近くには、いつも山や川や海や湖がある」

「そんなの偶然じゃないですか。おれだって海の側で暮らしてますけど、芸術じゃなくて漁をしていますし」

「まあ、そうだな。日本は自然が多いからね。芸術家に限らず、どこに住んでいても何かしらの青や緑はあるのかもしれないが」

 例えばと桜井は名を連ねていく。太宰治の岩木山、金子みすゞの仙崎大泊港、川端康成の元茨木川緑地、佐藤泰志の函館湾——、青山の知っている名前も、知らない名前もあった。

「そして、有島武郎の——」

 車は大きく左折し、雪の壁は払われた。羊蹄山の裾野が地平線まで続く。

 とうとう現れた羊蹄山の全体像に目が奪われた。青くぼんやりと輝く裾野はただ途方もなく、長い。ここから山までの間には白く染まりきった畑が続いている。

 桜井は先の言葉を切った。言われなくてもわかった。有島武郎が何に心酔したかなど、容易に。

「誰でも、きっと自然の麓に住んでいる。しかし、芸術家である彼らは繋がりがより密接なんだ。漁師や猟師、農家とは別の形で自然と結びつく」

 青山は、海の底冷えする水の温度を思い出す。漁師のように自然と共存するか、芸術家のようにそれらを吸って対峙して生きていくのか。どちらにせよこんな強大な山の前では、自然を前提にした生き方しかできないのかもしれない。

「雄大な自然への敬意と畏れから、芸術は生まれる」

 諦念を滲ませた桜井の横顔を青山は見つめる。端正な眉が歪み、僅かな嫌悪が感じられた。しかし、山が嫌いということは、それだけ強く意識しているのだろう。嫌いな理由は、もっと根深いのではないか。

 だが、そうやって桜井に尋ねることは、青山自身、嫌いな海への忌避にも向き合わないとならないことを意味していたので、口を噤んだ。途端に車内は音を失う。

 フロントガラスの向こうで、雄大な羊蹄山がじっとこちらを見つめている。膝上の一眼レフを構えて対峙する勇気はやはり、青山にはなかった。

 羊蹄山に近づいては遠ざかってを繰り返し、倶知安の市街地を抜けて林へと分け入る。道を回り込んだせいか、山の形が変わった。山の右側が緩く膨んでいる。羊蹄山登山口の看板を抜け、スキー場の描かれた、ニセコ町のカントリーサインを越える。

 その山間、ふいに「有島」という地名表記が現れる。有島武郎の記念館は、ニセコにあると桜井が言っていた。今は、間違いなく有島記念館へ向かっているのだろう。地名と苗字が同じなのは、偶然なのだろうか。

 桜井の呟きを思い出す。文学館はその人の生家や滞在地に建っていることが多いらしいが、地名そのものが文学者の名であることはまずないだろう。偶然の一致か、それとも有島武郎自身が自分と同じ名前の土地に住みたがったとしか考えられない。

 ニセコの有島地区、Y字路を曲がる。進んだ先の雪壁に埋もれかけた赤い看板に、有島記念館の文字があった。狭い道、細い橋の先にまた同じ赤い看板を見つける。その向かい側に、積み重なった雪の壁をごっそりと抉ったスペースがあった。桜井がそこに車を向けたので、そこが駐車場だとようやく合点がいく。他に車は停まっていなかった。

「目的地だ」

 桜井は車を入れると、ギアをパーキングへと押し、シートベルトを外した。青山も倣って外す。ドアを開けた途端、入り込んだ外気が助手席で緊張していた体を冷やした。固い雪へと降り立つ。辺りを囲む雪の高さは己の身長より堆かった。

 人が歩ける幅だけ除雪された、煉瓦の道を歩いていく。まるで雪の壁で囲まれた迷路のようだ。等間隔に植えられた白樺の先、斜めの屋根を有した白く聳え立つ建物が見えた。

 その遠景、曇った空の中で白銀の冠雪を輝かせる羊蹄山が見える。倶知安町で見たよりは少し遠いが、本当にどこからでも見えるのだな、と思う。山がどこまでも追い掛けてくると嫌がった桜井の心情が、少しだけわかったような気がした。

「公園、全て雪で埋もれているな」

 桜井が白い息を吐く。青山も倣って同じ方を向いた。この冬、除雪など一度もされていないような積雪が、壁となって積み上がって広がっている。雪から逃れた近くの石碑には有島記念公園の文字が刻まれているが、今はただの雪捨て場でしかない。辛うじて銅像の先端や、針葉樹の天辺だけが見えるだけだ。

「春にならないと何もわからないですね。この雪の下には何があるんですか」

 視線を下に向けると、近くの幹から剥がれたのか、白樺の薄皮が落ちていた。見上げた枝に葉は無い。春はまだ遠い。

「偉そうに案内しておきながら、私もここへ来るのは初めてなんだ」

「そう、ですか」

 桜井の鼻は赤い。寒さのせいか、羞恥のせいかの判断はつかなかった。白い肌のせいでその顔の赤みは強い。

「きっかけは有島武郎だった。在学中に入り浸っていた大学図書館で、『生れ出づる悩み』を手に取った。そこから俺の芸術狂いは始まって、色々な文学全集や画集を読み漁り、バイトや教師をやって溜まった金で、日本各地の文学館や美術館を回ったんだけど」

 桜井は少し言い淀んでから、続ける。 「色々回ったからこそ、ここに来るのが怖かった。文学館なんて、大抵は死んだ後に遺された人間が作るエゴでしかないから。だが、ここは——」

 桜井は雪に埋もれた白銀の地を見やる。そこには雄大な羊蹄山が存在している。有島武郎が生きた時代とおそらく、何も変わらずに。

「有島武郎が、己の文学のために捨てた地だ」

 拒絶でなく、共感でもない。

 かつての有島武郎と同じ羊蹄山を見る桜井の瞳に映るのは、確固たる怯えだった。

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