二、小樽

 岬からの雪深い坂を下り、桜井の車へと辿り着く。そこにあったのは、札幌ナンバーを冠した軽自動車だった。車体は白く、雪の中で輪郭を失いかけている。車の前に黒い桜井が立つと、その異質さがより際立った。

 桜井はポケットから鍵を取り出す。今どき、キーレスでないのは珍しい。鍵穴に挿して回すと、音と共にロックが解除された。青山は戸を開け、助手席に座った。

 カセットデッキの横、備え付けの灰皿に煙草の吸殻と灰が溢れている。染み付いたヤニの香りを吸い込みながらシートに背を付けると、氷点下で冷えきった温度が伝わってきた。桜井は首に掛けていた一眼レフを後部座席へと投げ、キーを差し込んで回す。エンジンが掛かり、目先のエアコンから勢いよく冷気が吐き出された。青山は思わず身震いをする。

 桜井は暖房の温度を調整しながら、口を開く。

「青山君は免許持ってるの」

 シートベルトを締めながら、青山は答えた。

「持ってますよ。漁やるから船舶もありますけど。別に漁師じゃなくても、ここでは車持ってないと生活できないです」

「そういやそうだったな」

 桜井の同意に引っ掛かりを覚える。その返しは、まるで北海道出身であるかのようだった。桜井の小説はどれも東京を舞台にしたものだったから、勝手にそちらの出身だと思い込んでいた。

「桜井先生って、出身はどちらなんですか」

「私の生まれは札幌だよ。でも、大学進学と共に上京して、そこからずっと東京に住んでる」

「じゃあ、この車はレンタカーですか」

「いや。これは実家から持ってきたんだ」

「この取材旅行って里帰りも兼ねてます?」

「ま、そんなところだ」

 大学進学までならば、二十年弱は北海道で暮らしていたことになる。やはり、こちらにガイドとしての期待は無いのだろう。行き場を無くした手を上着のポケットに差し込むと、受け取った札束がかさりと音を立てた。

「……東京に移り住むなんて、やっぱ作家って住む世界が違いますね」

 どこか僻むような口振りになった。実際、この雪の大地から抜け出せただけ羨ましくて堪らない。小説家など尚更、遠い。

「私は最初から小説家になりたくて上京したわけじゃないから」

 桜井はバックミラーを掴んで動かす。ミラー越しに一瞬、苦笑が映った。

「根強く地元に居続けることが、ひたむきで美しい芸術に繋がることは大いにあるだろう。一概に上京が良いとは言えない。小説なんかどこにいたって書ける」

「でも、羨ましいです」

「ちゃんと漁師として生活に向き合ってきた、青山君の方が偉いよ」

 褒められても上手く賞賛を受け取れなくて、青山は腰をシートに沈める。フロントガラス、白い雪の向こうに鈍る海が揺れている。

「私はいまだに、小説家を職業だと思えてないから、本気でやっている人から見たら酷く無責任なものに映っているだろう。小説家なんてのは、人間の一つの状態のようなものだと、書くたびに実感してる」

「状態、ですか」

「結果論なんだ。今、こうだから書いているしかない」

 こちらの不安など見透かしたように、桜井は言う。

「だから、無理にモデルになろうとか、道案内の役に立とうと気負わなくていいよ。君が君のままでいることに、私は価値を見出しているから」

 桜井はギアを引く。同時にその体は前傾し、アクセルが踏まれた。

「君は旅の間、私の隣にいてくれさえすればいい」

 粗目の雪に覆われた駐車場から、コンクリート剥き出しの車道へとタイヤが下りる。その衝撃でシートベルトが体に食い込んだ。上体が大きく揺れ、後部座席に一瞬、視線が移る。

 先程、桜井が投げた一眼レフの隣、毛布の山が視界に入る。その端が少し捲れ上がり、オレンジのちりめん柄が覗いていた。なんだこれ、という疑問が浮かぶのと同時に、毛布が車体の振動でずれて、中身が露わになる。青山は思わず目を見開く。

 そこには、車内には非常に相応しくない、鮮やかなオレンジ色に包まれた骨壷があった。しかも一つでは無い。いくつかある。

「うわっ」

 死神だ、本当に。このままおれも殺されるのかと思った矢先、桜井が口を開く。

「それは、十二年前に死んだ妹と、この前死んだ両親の遺骨だ」

 その言葉を裏付けるかのように毛布はずり落ち、三つの骨壷が後部座席に現れた。

「遺骨など、普通はすぐ墓に入れるだろう。だが両親は、妹が死んでも墓をつくらなかった。娘だから、先祖と同じように墓に埋めて手を合わせに行きたくないという駄々を捏ねていてね。そのおかげで妹の骨は、実家の仏壇の傍らに、十二年間置かれたままだったんだ。そして、ついこの間、両親が事故で死んだ。軽井沢から乗った、ヘリの山中墜落事故。二人して長年、旅行中にうっかり死にたいとほざいていたから、きっと理想的な死に方だったんだろう」

 走り出した車は止まらない。助手席側、海岸線を辿りながら景色が動いていく。鈍い灰色の日本海が揺蕩う。桜井の目は、バックミラー越しに遺骨を見つめている。鏡越しに青山と目が合った。

「俺が北海道に戻ってきたのは、三人の遺骨を積丹の海へと還しにきたからだ。あの海は、家族みんなの思い出の場所だから」

 桜井の一人称が、私から剥がれて俺となる。青山は察する。今のは小説家でなく、人間としての桜井志春の叫びだ。

 だからこそ、海が思い出だと迷い無く言える桜井に、淡い嫉妬を覚えた。青山にとって海は疎ましいものでしかない。幼い頃からずっと抱いてきた諦念が、今更濁る。

「先生は海と家族がお好きなんですね。おれは、この地元の全てが嫌いですよ」

 青山が思わず嫌味を吐いた途端、辺りはトンネルに包まれて暗転する。刹那の暗闇を抜けると、青い看板が正面に見えた。右手、鰊御殿旧青山別邸までの道を示す道標だ。

 鰊といえば「青山」なのだ。鰊漁の網元として一世を風靡した青山の名は、祝津の地ではあまりにも有名で、青山海人はその血を引く末裔である。しかし、青山の名を継ぐ全ての栄華は、既に手放され、国へ還元されている。もう鰊の群来もそれを目当てに集まる出稼ぎの人々も無い。いまだ亡霊のように現世に縋って観光資源として存在し続ける「青山」の名の全てを、青山はどうしても好きになれなかった。

「死者をなぞるのは、やはり気味悪いよな」

 後部座席に座る三つの遺骨のことか、もしくは祝津の青山家を知ってのことか、桜井は苦笑を浮かべた。

「嫌なら、すぐにでも降ろすよ」

「いいえ」

 青山は咄嗟に首を横に振った。三つの遺骨を乗せての五人旅。まともではないだろう。だが、その奇妙さが嫌だと言い切れるほど、青山に明確な意志は無かった。何者にもなれないまま、海の滸に帰る方が恐ろしい。

「おれは既に、先生に命を買われた人間です。積丹までは何があってもついていきますよ」

 青山はポケットの中の金を握る。金という実在は、保証にはなるが虚しさも募る。札束の厚みと共に、桜井への嫉妬心を自覚した。

「助かる」

 ハンドルを握った小説家はこちらを見ないままで、青山に感謝を告げた。その横顔は白い景色に溶け、血潮の通わない死神のように美しかった。


 祝津を出て市街地に分け入る。変わらず海は近いが、道は広く、活気のある観光客向けの店が並ぶ。青山にとっては、やはり全てが疎ましかった。運河を過ぎて大通りから逸れ、海の際にある赤茶色の建物へと向かう。灰色の空まで貫く建物に寄り添うように、虹色の観覧車が緩やかに回転していた。

「ここに入るんですか」

「ああ。マイカル小樽だな」

 桜井はその建物の名を呟く。ここは、小樽市内にある複合商業施設だ。漁港の隣に建てられ、潮風に晒されたこの施設は、多くの店舗を有しながらも、どこか寂しく閑散としている。青山もたまに立ち寄るが、いつも閑古鳥が鳴いている印象だ。

 車は地下駐車場へと潜る。四方がコンクリートで打ちつけられた、薄暗い空間だ。煌々と照る店内入口の側に駐車し、エンジンが止められた。

 桜井は車から降りると、後部座席のドアを開けた。何をするのかと気になって覗くと、桜井は毛布を遺骨に掛け直していた。確かに、ふと見た知らない車の後部座席に遺骨が並んでいたら驚愕するだろう。然るべき対処だ。だからこそ、こちらへ無理に隠さなかったのはどうしてだろうと今更思った。一応こちらは同行人だから無理に隠さなくてもばれると思ったのか、それとも、ばれようがどうでもいいほどこちらに無関心なのか、青山には計りかねた。

 作業を終えた桜井がドアを閉める。その首には、後部座席から回収したのか、一眼レフが掛けられていた。

「待たせたね」

「……いえ、別に」

 どうしておれにはあっさり骨を見せたんですか、とはやはり聞けなかった。どこか遠慮をしている。

 入口に向かう桜井についていき、エレベーターに乗り込んだ。上のフロアに着いたので、降りる。服屋や雑貨屋など店はびっしり並んでいるのだが、照明の少なさか広さに対する人の少なさのせいか、ぼんやりと薄暗い。フロアの端まで歩き、緩やかに螺旋する階段を上る。今更ながら、どうしてここに来たのかすらも聞けずにいる。聞けないから、横を見た。ガラス張りのショーウインドウの中、からくりのおもちゃが、ぎいぎいと鈍い音を立てて動いている。

 螺旋階段を上りきったそこは、映画館だった。シアターへと続く黒い空間の中で、蛍光色のネオンがピカピカと煌めいている。その反対側、窓の外では海がゆらりと揺蕩っており、こちらと向こうで世界が分断されているかのようだった。

 映画館すら、客は疎らだ。繁盛しているとはお世辞にも言い難い。入口には現在公開中のポスターが煌々と並ぶ。無人の線路にオレンジの西日が差し込む、青山でも知っている有名アニメの劇場版最終作のポスターも飾られていた。それらを青山が何気なく眺めていると、桜井が一枚のポスターの前で立ち止まった。そこには、青年と幼い少女が二人、海岸線で手を取り合う画があった。

「これ、今から観るんですか」

 わざわざこんなところで映画など観たいのかと、首を傾げたところで、青山は気が付く。ポスターの下に「原作・桜井志春」の文字があった。タイトルは『終末に向かうあなたと』だ。これは、桜井の小説が原作の映画だ。

「いいや。勿論、もう観てるよ」

「すみません。映画化してるとは全く知りませんでした」

「わざわざ連れてきてごめん。別に青山君に無理に観せたいわけじゃないんだけど」

 桜井はどこか輪郭を失ったような声で告げる。

「ここでもやってるんだって、この目で確かめたかっただけだから」

 ポスターのライトに照らされて、桜井の瞳が瞬く。この瞳の奥で物語が生まれたのか。青山は『終末に向かうあなたと』のあらすじを思い浮かべる。


 『終末に向かうあなたと』の物語は、十五歳の「僕」が、十二歳の妹を亡くしたところから始まる。「僕」にとって妹の存在は全てであり、最愛の妹亡くして、「僕」は生きていくことができなかった。だが、自殺するにしても、最期まで懸命に生きようとした妹の姿がちらついて、簡単には身を投げることができない。

 そこで「僕」は思い至る。十五歳の自分が十二歳の妹を亡くしたのだ。十二年経って二十七歳になった時、人生において、妹が生きていた時間より、妹が死んでからの時間の方が上回る。その時になっても、まだ妹のいない人生に意味を見出せていなかったら、死のう。

 そんな誓いを立てて「僕」は、東京の喧騒の中で、青春の日々を過ごしていく。十二年の時間は、「僕」を緩やかに揺蕩わせた。大切な友人や恋人ができた。しかし、妹がいないのに、自分だけのうのうと生きて、日々を真っ当に過ごすことに罪悪感が募る。やはり、二十七歳で死のうと決意したその瞬間、喪った妹が十二歳の姿のままで、蘇る。

 喪われたはずの妹と過ごす幸福な時間の中で「僕」は苦悩する。死ぬか、生きるか。己の誓い通り、妹と生きた十二年間と妹が死んでからの十二年間を秤にかけた結果、「僕」は全てを捨てて、妹と共に死ぬことを選択する。しかし、妹は「僕」が死ぬことを許さなかった。妹は、そもそも「僕」を死なせないために蘇った一時の存在だったのだ。

 妹は「僕」を諭す。泣き崩れる「僕」に別れを告げ、妹は二度目の死を遂げる。「僕」は、妹亡くして過ごした十二年間の中にも、確かな価値があったことを肯定する。そして「僕」は二十七歳になっても生き続けていく。


 確か、そのような話だった。

「実は、小説は読んだことあります」

 映画を観ていない弁明として呟いた。桜井は、僅かに目を見開く。

「そうか」

 実際に小説の作者を前にした経験など無い。どんな感想を言うべきなのか、迷いながらも口にする。

「……よかったです。すごく」

「ありがとう」

 桜井から漏れ出たのは、気の無い礼だった。虚ろな視線はポスターに留まったままだ。こんなありふれた褒め言葉など、言われ慣れているのだろう。だが、青山が小説を読んで、死にたい自分と共感し、感動したのも本当だ。その思いをふいにされたようで、なんだか癪だった。

「この話、どこまでが本当のことなんですか」

 口を衝いて出たのは、あまりにも不躾な質問だった。口にした青山自身が驚く。だが、今、作家が目の前にいるのだ。だからこそ、聞ける問いなのかもしれない。

 おそらく一石は投じられたのだろう。桜井の目が、細く歪んだ。

「ははは、なんだか懐かしいな。よく、同じことを子供に聞かれたよ」

「子供って、お子さんがいらっしゃるんですか」

「違う違う。私は未婚だ。ついこの間まで教師をやっていたから、その時の話だよ」

 驚きは無かった。桜井の落ち着いた佇まいや、敬語が無くとも丁寧な言い回しが、まさに教師のそれだったからだ。小説家でも教師でも先生だったのだなと、妙な一致を覚える。

「中高で国語を教えていたんだ。教科書を範読するたびに聞かれた。先生、この話は本当のことですか、って。例えば、有島武郎の『生れ出づる悩み』に出てくる『私』は有島武郎自身のことですかとか、『画家の木本』は本当に存在するんですか、とかね。毎回必ず、誰かしらが聞いてくる」

 倦怠に切実を忍ばせながら、桜井は問うた。

「この小説、青山君はどこまでが、私の本当だと思う?」

 眼前のポスターの中で「僕」は、幼い妹と手を繋いで輝かしい海へと駆けていた。「僕」は、妹が生きたのと同じ、十二年間という誓いの果てで、二十七歳の先で生きていくことを選択する。  崖の下、雪景色に溶けかける白の軽自動車、その後部座席に座る遺骨という確固たる証拠。十二年前に死んだ妹。積丹の海にわざわざ撒きに来た遺灰。「桜井志春」は今、何歳なのか。

「あんたが、二十七歳で死のうとしたのは本当なんじゃないですか」

 きっと誓いは本当だ。だからあとは、桜井が二十七歳を前に死のうとしているか、二十七歳を過ぎて生きようとしているかだ。

 桜井は微笑む。ポスターの中、役者の「僕」よりも、悲痛が滲んだ笑みだった。

「正解だ。私は今、二十七だからな」

「それって」

「でも、『僕』イコール私ではない」

 桜井は真っ直ぐと手を伸ばし、ポスターの役者の「僕」の顔を隠した。

「青山君や子供らが問うた『小説のどこまでが本当か』に答えるのは、非常に難しい。小説は虚構だから、嘘だ。事実を緩やかに変えながら、小説は成り立っている。だが、真実だ」

 桜井は青山に向き直り、試すように笑った。

「君が聞きたいのは事実かどうか? それとも真実かどうか? それを知ってどうしたいの?」

 勿論、事実も真実も言葉としては知っている。ただ、桜井がここで意味する言葉の違いが、青山にはあまりよくわからなかった。

「俺にとっては真実。それ以外に意味とかある?」

 もう行こう。そう呟いて、桜井はポスターから手を離す。役者の顔が露わになったが、改めて見ると、この青年は桜井に全然似ていなかった。

 暗い映画館から出ていく、桜井の後ろ姿を見つめる。桜井の「私」がまた剥がれた。自分のことを「俺」と称する桜井志春は、毎度、少年みたいに幼い顔をしている。


 映画館から続く通路を抜けると、噴水とステージを階下に有した吹き抜けへ出た。巨大なガラス窓の外には堤防が広がっていて、日が上って少し白んだ海に、多くの漁船が揺蕩っている。遠くには防波堤も見えた。青山は目を背ける。今日岩内まで行くなら、明日の網の回収には間に合わない。今日どころか、きっと明日も。未来などどうなってもいいと逃げてきたのに、漁を気にかけている自分が嫌になる。

 桜井は進み続けた。青山も続く。海の映る窓から遠ざかると、閑散としたショッピングモールに入った。すぐ両側は書店だ。桜井は呟く。

「私が子供の頃は、札幌に大きな映画館がなくってね。映画を観るためにいつも、小樽まで来ていた。映画が終わると、両親は買い物に行ってしまって、待ち時間を妹と一緒に、この本屋で潰していたんだ」

 大ヒット実写化公開中と書かれたカラフルなポップが掲げられた『終末に向かうあなたと』の本の山を桜井は一瞥もせず通り抜ける。

「昔はここに、おもちゃ屋があった」

 書店の途切れた先、桜井は立ち止まる。そこには、派手なライトが明滅し、喧しい電子音の響くゲームセンターが存在していた。おもちゃ屋の影も形も無かったが、桜井は愛おしそうに呟く。

「そのおもちゃ屋には、外国のボードゲームがたくさんあってね。好きな物をお試しで店員さんと一緒に遊べたんだ。買い物を終えた両親が帰ってきたら、必ずそこで遊んでね。家族みんなが気に入ったらゲームを買ったんだ。家では、夕食を食べ終わると食卓にゲームを広げて遊んだよ。大抵は父親が勝って、私は二位。ビリの妹はいつだって泣いて——」

 青山の脳天を、鈍い頭痛が揺らす。映画館を出る少年の姿を想像した。父親と母親に見守られながら、はしゃぐ妹を笑顔で追い掛けている。これから本屋に行って二人で仲良く好きな本を選びながら、両親の買い物を待ってご褒美にボードゲームを買ってもらう、いつもの日常が待っているからだ。映画館を出た吹き抜けの外に、青い海が映る。揺れる漁船に、は目を輝かせるのだ——。

 音がうるさい。思い出のおもちゃ屋を潰した、ゲームセンターすら疎ましい。潰したということは、確かにそこにあったということだ。桜井よりもすぐ近くに住んでいるのに、青山がここに映画を観にきたのは数回程しかない。青山の幼少期を覆いつくすのは、磯の香りと寂れた水槽ばかりだ。映画と本とおもちゃに塗れた世界に、生活水準の差を思い知る。桜井が喪った全ては、元々青山に無いものだった。

「自慢ですか」

 思ったより刺々しい声が出た。喪った人間に掛ける言葉ではないことはわかっているが、それでも止まらなかった。

「おれにはわかんないです。家族が死んでも、きっとそこまで悲しめない。亡くしたことがないから、そんなこと言えるのかもしれないけど。現に、桜井先生みたいに思い出を拾いに戻ろうとか、あんま思えない」

 激しく瞬くネオンに照らされて、自分の内の影が濃くなっていくのがわかる。何もない自分を思い知らされ、惨めだった。

「からっぽなおれを連れてきて、観せて色々語られても、おれはあんたに同情も共感もできませんよ」

 桜井は青山を見つめている。同時に、黒く重いカメラのレンズも青山をじっと捉えていた。

「それでいいんだ」

「え?」

 けたたましい電子音の合間で聞こえた肯定に、耳を疑った。桜井は視線を外し、ゲームセンターを通り過ぎていく。一瞬、ついていくかを迷ったが、青山は歩みを進めた。頼りが無いから追うしかない。こんなにも心許ないあてを。

 ショッピングモール、突き当たりまで辿り着く。暗い灰色をした吹き抜けの空間に、巨大な球体がぽっかりと浮かんでいた。球体は、細い鉄骨の集合でできており、膨張と伸縮を繰り返して、今にも蠢くかのようだった。

 そこで思い出した。昔、これを見たことがある。この商業施設での青山の思い出は、本屋でもおもちゃ屋でも無く、映画館でもない。この化物のような球体だ。

 幼い頃、父親に無理矢理、興味のない映画に連れていかれて、別に好きでもない甘ったるいクレープを押しつけられながら、ふと上を見たら、蠢くこいつがいたのだ。球体は直径を膨らませたり縮めたりして、妖しげにライトを放っていた。それはまるで意思を持った命のようで、堪らなく恐ろしかった。少しでも隙を見せたら飲み込まれそうで目が背けられなかったのに、父親はすごいなあとニタニタ笑っているから、怖いと縋れなかった。だから、一人、クレープを握り締めながら泣いた。先っぽから漏れ出たクリームが手にこびりつき、甘ったるい匂いがどんなに手を洗っても取れなくて、本当に嫌で嫌で、恐ろしかったのだ。夢にも見たから、夢だと思い込もうとした。その思い込みは成功し、今の今までこいつは夢だと思っていたのだった。

 青山の足が竦んだ。桜井も気付いたのか、立ち止まってこちらを振り返る。その姿に球体が重なる。

 似ている。

 初対面で死神のようだと形容したその男は、まるでこの化物に似ている。目を逸らしたら呑み込まれるのに、離せない。化物は口を膨らませて、言った。

「からっぽの君だから連れてきたのに、どうしてそんなに傷ついた顔をしているんだ。君だって、自分が死にたがりだと了承したからついてきているんだろう」

「どうしてって、それは、その……」

「それでいいのに」

 桜井は、先程と同じ肯定を重ねる。

「別にね。君がこの旅を終えて、自殺や他殺を選択したって私は咎めないよ。君は、私が私のままでいることを許してくれそうだったから、誘ったんだ」

 この桜井の言葉は教唆に等しかった。茫然とする青山の前で、桜井はどこか満足げに言う。

「だって、私を疎んで嫉妬するということは、君は心底、私との違いを実感しているのだろう。それは、私を尊重してくれることと同義だ」

 見抜かれていた。家族で映画を観て、本を読んでおもちゃを買ってもらった子供と、強引な父親と嫌いなクレープを齧りながら不気味な球体のショーを見せられた子供。同じ場所のはずなのに、辿った思い出が違いすぎて、迫る劣等感が苦しい。

 図星なのだ。おれは、あんたが送ったような、そういう幼少期が堪らなく欲しかった。

「だから、君なんだ。君にとって私は、何者にもならない。君の目で『桜井志春』を切り取りながら、この旅を見届けてほしい」

 桜井は穏やかに微笑んで、緩く俯く。するりと両手でネックストラップを外した。その手には、黒い一眼レフが握られている。

「これで君の見た景色を撮ってほしい」

「えっ、これでですか」

 突然の譲渡に動揺した。こんなに本格的なカメラは使ったことが無い。だが、桜井は本気のようだった。

「なんでもいい。君の、気の赴くままに撮ってくれ」

 桜井の真摯な瞳の色に心が揺れた。見届けるという目的のために、カメラ程誂え向きなものはないだろう。見届けた現実に、写真という質量が生まれる。桜井の願いに最大限応えられる。写真が残ることで、青山の価値も保証される。

 だから怖くなった。なんでもいいと言われても、こうやって無条件に与えられるのは怖い。

「……あの。もしも、おれが先生に同情したり共感したりしてしまったら、どうしたらいいんですか」

「別にどうもしない。君は君だろう」

 桜井は、当然のように言い放つ。

「君が選んだのなら、何だって構わない。私はそれを尊重するよ」

 桜井の態度からは何の期待も感じられなかった。だから、青山は安心して手を伸ばす。

 指先が一瞬、桜井の掌に掠る。その熱が離れる頃には、一眼レフは青山の手中に収まっていた。初めて触るはずなのに、カメラはいやに手に馴染んだ。様々なボタンやレンズがあってよくわからない。正直に告げた。

「使い方を教えてください、先生」

「何も難しいことはない。電源を入れて、ファインダーを覗いて、シャッターを切る。ただそれだけだよ」

 桜井は微かに笑う。その笑みは背後の化物の球体と重なっていた。ふいに青山は、ふたつが重なったことを覚えていたくなった。今、教えられた通りに、パチンと電源を弾いて、ボタンに指を掛けてファインダーを覗く。

 早速撮るのかと、どこか照れくさそうな声が外界から聞こえる。レンズの先で、肉眼と変わらず桜井が笑っている。青山は、球体と桜井がちょうど重なるように標準を合わせ、人差し指に力を込める。

 瞬間、世界が固まった。驚いたから、ファインダーから瞼を離した。

 当たり前だが、辺りは三百六十度の空間が存在する世界だ。だが、モニターの中では瞬間が平面で止まっていた。

 化物と桜井はぴったりと重なり、同化していた。

「うまいじゃないか」

 桜井は嬉しそうに画面を覗き込む。だから、青山も嬉しかった。撮り続ければ慣れていくのだろうか。きっとそのうち、現実と平面の差異に驚かなくなっていくのだろう。

 淡い覚悟と共に、青山は首にカメラを下げた。その重さは、青山の首を緩やかに絞めた。

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