欠けつづけて、光れ
青村カロイ
一、祝津
背後から、トドの唸り声が聞こえる。
粒の固い氷雪を踏み締め、登った先は崖だった。
北海道小樽市、
明治時代、鰊漁業で栄えていたらしい祝津の漁場は、昭和に入ってから衰退の一途を辿り続けている。鰊漁の出稼ぎのため、全国各地から集まる人々で溢れていた小樽の港は、漁獲量の減少と共に緩やかに廃れていった。
青山は、この港町で生まれて、漁師の家の長男として育った。青山が生まれた二十年前の時点で、栄光は既に歴史だった。かつて巨万の富を築いた網元によって建てられた鰊御殿は、その栄華をひけらかすようにこの崖上に残されている。
青山の佇む崖際、右下には鰊御殿、左上には日和山灯台が聳え立っている。二つのシンボルに挟まれたこの崖には、観光客のために転落防止として柵が備え付けられていた。だが、三月中旬の今は、鰊御殿も灯台も冬季閉鎖している。閉鎖している鰊御殿と灯台のために、わざわざこんな崖上まで登る観光客など少ない。地元民でも、訪れる人間など限られている。
青山はその一人だった。
ぶおおと再度、後ろでトドの鳴き声が轟く。野性のものでは無い。近くの水族館から聞こえる声だ。トドは崖を辿って左側、海を切り出して造られた野外水槽に棲んでいる。水族館は冬季休業しているが、トドは変わらず海水を纏って、この冷気の中で生き続けている。生命の強さに気圧され、青山は柵に腹を押しつけた。そのまま、ぐいと体重を預ける。
黄昏れるには生々しい願いがある。すぐ下は岩礁だ。柵を越えれば、容易く死ねる。
死んでもいっか。ここに来ては、いつもそんなことを考えている。
網を引く感触が、まだ指の間にこびりついている。青山の暮らしの基盤は漁だ。今日も昨日入れた刺し網を引き上げて、また海の中に刺し網を置いてきた。ずっと、その繰り返しだ。物心が付いたときには、漁師の父に連れ立って、波間に網を置いては引いてきた。青山は毎日海にいる。だが、海に棲んでいるとは言えない。沖に出て荒々しい波が牙を剥くたび、人はここでは生きていけないと実感する。
だからこそ大抵の漁師は、海の怖さよりも誇りや遣り甲斐を優先して生きているのだが、青山は気付いた時には海が嫌いになっていた。青山は船酔いをしたことが無い。おれが昔から船に乗せてやったおかげだ、と父はいつも自慢げに言うが、揺れる船や波立つ海と一体化する、あの気味悪い感覚を青山はいつも説明できないでいる。波が起こす振動は、青山の中から船と海との境界を消していく。皮膚も骨も内臓も、血液を溶媒にして全て溶けていき、海水へと全身が溶け落ちていく。だから青山は船に酔わない。
そのくせ、少し飛沫が跳ねるなどして、底冷えする海水に触れるたびに、除け者にされている感覚を知るのだ。潜れば酸素が足りなくて苦しいし、息継ぎをしなければ生きていけない。人は海水の冷たさに耐えられず、体温が下がって死んでいく。
人間は、いつまで経っても海にとって異物のままだ。魚や貝や鯨には、なれない。でも、その魚たちを殺して生きている。漁師としての誇りが生まれるよりも先に異物感を覚えてしまったから、青山はずっと惑い、静かに溺れ続けている。
だからといって、家業に反してまで、やりたいことがあるわけでもない。学のない自分が、陸での生き方を模索するのは未知で恐ろしかった。父に不満はあるが、反抗するほどの意志はない。飛び出すあてもなく、いつも崖の下を眺めている。柵から飛んでもそのまま滑落し、尖った岩に叩きつけられて死ぬだけだ。海は、決して青山を受け入れない。
それでもいいか、とぼんやり考えている。今日も逃げたいから、ここへ来た。
今日こそ、この代わり映えの無い日々に終止符を打とうと、雪を踏み締め、端へと登る。冷たい海水の中で死ぬよりは、落ちて死ぬ方がいい。この高さからの滑落死ならば、海が直接の原因でないまま死ねる。くだらない感傷だ。モラトリアムの延長のぼんやりとした希死念慮。
大した理由などなくても、青山はやっぱり死にたかった。
水平線の下、空の暗さに呼応するように、海は黒を反射し続けている。岩礁にぶつかり、波立つ白波を見据えた。生まれては消えていく白波に、見たことの無い鰊の群来を思った。産卵のため、沿岸に押し寄せていた鰊の大群。青い海を鰊の精子が乳白色に濁らせる現象を群来という。鰊は春告魚とも呼ばれ、かつての群来は栄えた小樽の春を告げる風物詩だった。もう鰊は来ない。だから栄華は無く、春も来ない。風で舞った細雪だけが煌めいて、ただ、海へと沈んでいく。
青山は祈った。
海よ。どうか、落ちて死んだ後だけで良いから、この身を飲み込んでくれ。せめて、最期くらいは海に愛されたかった。
柵に足を掛ける。靴の裏の金具が、剥き出しになった鉄骨に引っ掛かった。疎ましくて、振り切るために両手で強く柵を握る。力を込めると、ふっと体が宙に浮く。
あと一歩、越えようとした、その瞬間だった。
「すみません」
トドでは無い。背後から響いたのは、人間の声だ。青山は柵から足を離して、振り返る。
「この灯台、入れないんですか」
寂れた観覧車を遠景に佇んでいたのは、長身の若い男だった。黒のタートルネックとグレイのパンツに、ブラウンのトレンチコートを羽織っている。ウェーブの掛かる茶髪の下、端正な顔立ちがやわらかい微笑みを浮かべていた。色白い顔、左の耳朶には蝶を象った銀色のピアスが揺れている。
どうみても祝津の人間では無い。だが、ただの観光客にしては、どこか異彩を放っている。小綺麗な格好には冬への覚悟が薄い。
色素の薄い雪景色の中、男の輪郭がコラージュされたように、ぽっかりと浮いている。首に掛かるストラップの下、一眼レフが輝いており、その大きなレンズが銃口のように青山へと向いていた。
「……今は冬なので閉鎖してます。だとしても、もう使われてないですし、一般公開はたまにしかしてないかと」
答えながら、つい相手と己の容姿を比較してしまう。低身長、尖って短い黒髪、日に焼けた色黒の自分を見窄らしく感じ、黒のブルゾンの襟を口元まで引き上げた。男はさらに問う。
「随分とお詳しいんですね。地元の方でしょうか」
「まあ、そんなとこです」
「あそこのホテル、すごくいいところですね」
男は遠く後ろを指さす。水族館と観覧車の向こう、切り立った崖の上に、洋風の城を象った建物が建っている。合点がいった。あれは日本海の眺めを売りにしたリゾートホテルだ。同僚が、デートのために奮発して泊まったと自慢げに語っていた。レストランにはソムリエが常駐しており、本格的なフレンチがワインと共に食べられるそうだ。勿論、青山は行ったことは無い。
「あいにく、自分は泊まったことがなくて。同意できずにすみません」
「そうか。地元だと近すぎて、逆に泊まらないものかもしれませんね」
男は勝手に納得したのか、深く頷いている。その通りだと内心で同意した。日本海のオーシャンビューを売りにされても、毎日見ているから地元民に魅力は薄い。フレンチを食うなら、せめて札幌まで出たいところだ。
「あのホテル、部屋に展望風呂があるんですよ。私の部屋、ちょうどここから見える部屋でして。昨晩、その風呂に入って、景色を眺めていたら、暗闇の中にぽっかりと光が浮いていたんです。何だろうと気になったのですが、チェックインが遅かったのもあって、確かめる術がなくてね。でも、今朝起きたら、この赤と白の灯台が見えまして。昨晩の光は灯台だとわかったわけです」
「はあ」
青山は気の抜けた相槌を返す。長引く世間話を面倒に感じた。旅行先で喋りたいタイプの人間なのだろうか。青山自身、全く旅行をしないため、観光客には良い印象が無い。こちらの生活に土足で踏み入り、消費だけして去って行く遠慮の無さは苦手だった。観光シーズンは水族館や鰊御殿は勿論、小樽市街の方に向かうのすら、極力避けているくらいだ。
「そこで、灯台を見続けていたら、早朝にもかかわらず、黒い人影が見えたんです」
男の目がゆったりと細められる。青山は悪寒を覚えた。やはり、ただの観光客にしては異質だ。こちらを舐るような視線が青山を捉える。
「あんなところまで登れるのか、という驚きが半分。崖に近づくなんて何をしているんだろう、という興味が半分。だから気になって、急いでチェックアウトを済ませて車を走らせたんです。……間に合って良かった」
男の視線が、海とは反対側に落ちる。この崖の遥か下、雪の積もる坂に同化するように、白い車が雑に駐車されているのが見えた。今の時刻は、ホテルのチェックアウトにはまだ早い。ホテルでは朝から肉もシャンパンも出たんだと、嬉しそうに語っていた同僚の話を思い出す。この口振りだと、この男はそれらの豪遊を蹴って、灯台の不審な人影を優先したらしい。見知らぬ、辺鄙な港町の知らない男を追って。
真相を得た、探偵のような口振りで男は言う。
「君、もしかして、ここから落ちようとしてませんでした?」
「見間違いでは」
咄嗟に否定が飛び出た。見ず知らずの人間に、自殺未遂を見透かされるなんて面倒なことは無い。警察沙汰にされたら困る。だが、男は譲らなかった。
「いいえ。あなたは柵に足を掛けて乗り出していた。私が声を掛けなければ、きっと滑落していましたよね」
決定的な瞬間を突きつけられて、息が詰まる。あんなホテルの天上から見つけたくらいだ。もしかしたら、落ちようとするタイミングを見計らって、声を掛けたのかもしれない。この鋭い洞察力の前で、取り繕うのは無意味だと気付く。
「だとしたら、なんだっていうんですか」
不快感を露わに、男を睨んだ。あんたとおれの自殺に何の関係がある。目の前で人が死なれたら困るという正義感如きで、自殺を止められるのは癪だった。
「失礼。私、こういう者です」
男は、トレンチコートの内側に手を差し込み、上質そうな革製の名刺入れを取り出した。そこから一枚抜いて、青山の方へと差し出す。
淡い桜色の名刺には『
「小説家、桜井志春——」
思わず読み上げた。この人の著作を、おれは読んだことがある。
「小樽には、取材旅行で来たんです。そこの水族館が見たくって」
「……冬季は休業ですよ」
「そう。下調べが足りなかった。冬の水族館が書きたかったのに、空振り」
男の浮世離れした全てに納得がいった。桜井は、どこか自嘲を浮かべながら呟く。
「こういう生き様だから許してくれ、というわけではないが、どうも不躾な質問になってしまうのは、もはや性分みたいなものでね」
桜井は、咄嗟に飛び出た好奇心を自罰で打ち消している。衝動性と卑屈が同居しているのは、なんとも小説家らしいと思った。納得と共に青山の溜飲は下がったが、急に掌を返して貴方の小説が好きですと言うのも、何となく恥ずかしくて黙っていた。
「君は、本当に死のうとしていたのか」
雪が降り落ちるみたいに、敬語が剥がれた。
桜井の吐く息は白い。小説家も人間なのかと阿呆な感想を抱く。小説家など、遥か天上の存在だと思っていた。小説という一つの世界を創った神が、目の前に存在している。とっくに見飽きた雪景色すら、まるで舞台のように見えてくる。
「はい」
青山は自然と頷いていた。希死の確認は、正義感からの問いでは無い。純粋な興味だけが、見定めるように青山へと向けられている。
「それならちょうどいい」
名刺と同様、桜井のトレンチコートの内側がまさぐられる。取り出された黒い革の財布から、厚みのある万札が差し出された。
「君の命を買わせてくれないか」
「えっ」
「道案内を頼みたい。今日はこれから岩内に向かって、そこで一泊するんだ。明日はそのまま積丹半島を一周しようと思ってる。一泊二日の旅行の同行者になってくれないか」
「案内って言われても、おれ、この町以外のことは殆ど知りませんよ」
さすがに怖気付いた。名刺まで渡されたのだ。おそらく、小説執筆のための旅行だろう。だからこそ差し出された金額に釣り合う案内ができるとは思えず、青山は吃る。
桜井は笑った。
「君、死のうとしているんだろう。だからちょうど良いんだ。精通しているガイドじゃなくて、死にたがりの人間が助手席に欲しい」
桜井の瞳は僅かに赤みを帯びて瞬き、真っ直ぐと青山を見つめていた。
青山は確信した。今、この瞬間、青山に価値が付けられたのだ。自殺を止めるでも救うでもなく、桜井は死にたいままの青山をそのままに肯定している。
期待した。この美しい小説家の目に、自分はどう映るのだろう。まさにこの瞬間、桜井の瞳が映す世界が、物語として生まれ落ちている。
滑落しようとしていた眼下の海は、今も青山を拒むように鳴り響き続けている。海を疎んで陸にも行けなくて、居場所も価値も無い自分だ。だが、この人の瞳に映れば、おれだって主人公になれるかもしれない。
「いいですよ」
だから応えた。どう考えても危うい誘いだ。それでも構わなかった。どうせ人生に何の希望も無い。死にたがりの自分でも必要とされた。それだけで充分だった。
「契約成立だな」
伸ばした手に札束が押しつけられる。札束の隙間から触れた、掌の熱が青山へと宿る。桜井は手を握ったまま、青山に問うた。
「君の名前は?」
「青山海人です。祝津で漁師をやってます」
一瞬、桜井は大きく目を見開いた。驚きを打ち消すように穏やかに笑う。
「……よろしく、青山君。私は桜井志春。今は小説家だ。私のことは好きに呼んでくれ」
手が離れる。青山は、札束ごと拳を握った。これは契約だ。今、互いの呼び名が決まろうとしている。
桜井の背後、日光が雲の切れ間から差し込んでいる。まるで祝福みたいだ。袋小路の人生からの救いが欲しかった。目の前の小説家に、どうか教えを請うてみたい。
「じゃあ、先生」
呼んだ瞬間、桜井の瞳が僅かに揺らいだような気がした。
「小説家だから、先生がいい。桜井先生って呼んでもいいですか」
「いいよ」
神様のように桜井は笑う。神は神でも、きっと死神だ。あんたはおれの死にたがりを肯定したから。
ずっと、死にたかった。どこにも居場所を見出だせない、からっぽな人生だ。だから、あんたの価値になれたら、おれの人生もやっと報われるような気がするのだ。
「では、行こうか。青山君」
「はい」
死神の導きと共に、海の迫る崖から離れた。とりあえず滑落は止めたが、同行人が死神なら、行き着く先は死なのかもしれない。トドの声を背にして、桜井の後ろをついていく。
雪深い地に足を沈めながら、青山は歩き始めた。
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