ホワット・ア・ワンダフル・ワールド

 アヤカの死から少しばかりの年月が経った。


 おれは変わらず、ジャズバー「BLUE NOTE」で働いている。

「サイドカーをくれ」

「かしこまりました」

 客の注文に応じて、おれはシェイカーを振る。

 そう。変わったことといえば、シェイカーを使えるようになったことだ。

 いい具合にシェイクしてグラスに注いだサイドカーを、カウンターの上に出す。

「様になってきたな」

 先輩が小声でそう言うので、おれは口の端を上げて答える。

 ――先輩には、アヤカと一緒に選んだ結婚祝いの紅茶と茶菓子を渡しておいた。「お前とアヤカが選んでくれたものだから、ありがたく受け取るよ」と先輩は少し寂しそうに笑っていた。


 次々と入るカクテルの注文に応じながら、考え事ができるくらいには仕事にも慣れた。


 アヤカのデバイスの全権限を引き継いだことにより、彼女がジャズシンガーとして生前に築いた莫大な遺産も譲り受けた。だがこんな大金、一生遊んで暮らす人生を何周繰り返せばいいのだろう――そう考えてしまい、ほとんどは信用できる難病の支援団体などに寄付した。アヤカのような難病で苦しんでいる人間を、またはおれのように難病の家族や友人を失って悲しむ人間を、少しでも減らせたらとの思いからだった。たぶん、これがアヤカの望む使い道だとも思うし。


 それでも、アヤカの楽曲データが購入されるたびに入る印税があって、おれの所有する口座の残高はどんどん膨れ上がってゆく。

 なのに、おれがこの「BLUE NOTE」で働くことをやめないのには――。


 そこで片耳ヘッドセットからオーナーの声がして、思考が一旦止まる。

「ユーイチ。出番だ」

 声に応じてステージの方を見やると、ベースとサックス、ドラム、トランペットの奏者がそれぞれ準備を始めている。


 そう――おれのピアノとセッションしたいというジャズ奏者が現れるようになってきたのだ。

 おれはアヤカと出会って、ジャズの本当の楽しさを知った。人と人の出会いと別れは、ジャズセッションにも通ずるところがある。


「先輩。行ってきます」

 そう小声で告げるとおれはカウンターを出た。ピアノへ向かうおれに、客の視線が集まる。やっぱり少し緊張するのには、まだ慣れないが、それよりも今夜はどんなセッションができるのだろう――その期待を込めて、おれは左耳に着けたシルバーのリングピアスを左手の人差し指で軽くはじいた。


 おれがピアノの前に座り、準備完了と目で合図する。今夜のリーダー、トランペット奏者が指を鳴らしてリズムを取り始めた。

 ――ワン・ツー・スリー・フォー。

 トランペットのリードでセッションが始まった。これでいい。夜はまだまだこれからだ。


 ――そこで見ていて。

 アヤカが変えてくれた、おれの世界。

 この素晴らしき世界。

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火星の歌姫 高間晴 @hal483

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