第2話 Outside

 けれども外か。もうどのくらい外に出ていないんだろう。

 1年半ほどになるだろうか。スワニルダと付き合うことに決めた時、外出を喜ばないスワニルダにあわせて外を見るのをやめた。外に出ればスワニルダが俺を心配するから。けれども先々月ほどから、外気は久しぶりに安定していると聞く。だからベランダの窓を開けてくれるようになった。

「今日は本当に天気がいいです。ジェイスの言うように桜が見頃のようですね」

 再びガラリとベランダへの扉が開けられる。

 その手前で少し躊躇する。

「外、出てもいいかな」

「そのために開けています」

「嫌な気分にならない?」

「……なりません」

 その返答は、いつもより少しだけ間があった気がする。やはりやめよう。そう思って踵を返そうとした時、背中に風が吹き付けた。

「スワニルダ、僕はすごく見たいわけでもないんだ。もともとインドア派だし」

「本当は外に出たいんでしょう? フランツ」

 いつもと同じ平板な声。相変わらず、何を考えているかはわからない。ひょっとしたらジェイスとの会話で考えでもかわったのかもしれない。けれどもそう簡単に変わるとも思えない。けれどもこんな機会は多分、あまりない。

 おそるおそる一歩を踏み出す。

 久しぶりに足を通したスリッパは、屋外から舞い込む埃のせいか、いささか足の裏をざわつかせた。整えられた室内とは異なる湿度が風と共に肌に触れる。こんな感触も久しぶりだ。狭いベランダだ。2歩も進めば突き当たる。けどそれ以上膝をすすめるのは躊躇する。俺にとって、この1年半ほどの時間は随分遠く感じた。もう外に出なくてもいいやと思うほどに。

 それほど嫌じゃなかった。俺はもともと外で活動するようなタイプじゃない。

「もういいかなとも思うんだ」

 二度と外にでなくても、生活に特に支障はない。支障はなかった。

「そうですか」

「一人で外に出る気にもならないし」

「ベランダまでなら把握できます」

「そう?」

 空調はかわらずそよそよと俺の背中に風を送る。それにつられて、不意に一歩、足が伸びてサッシを超えた。途端、ふわりと風が舞い込み、少しだけ埃の香りがした。

「嫌じゃない?」

「嫌ではありません」

 ゴウと風が吹く音がする。見上げれば、白い雲がもくもくと伸び上がっている。空が、青い。胸ほどもある手すり壁から外を覗けば、最初に見えたのは点々とした桜色で、その下の黒土をチラチラと動く影がある。確かに人が出ていた。

「ジェイスもあんな風に外出したのかな」

「あのように人同士が触れ合うのは反対です」

 人間と人間との肉体的な接触は忌避される。なぜなら人間というものは多かれ少なかれ保菌しているからだ。長期にわたる数多の疫病の発生から、生き物は危険なものだと認識されている。

 だから一定数の人間が毎年実験施設で生まれ、それぞれ母親代わりのマザーAIが育てている。俺の親代わりのAIは合理的で品行方正な個性を持っていた。だからそのぶん、人間との付き合いが次第に面倒になり、AIとのお見合いを勧められて設計されたのがスワニルダだ。

「そうだね。でもスワニルダとなら」

「レオニーに聞きましたが、商店3区に新しいカフェがオープンしたそうです」

「システム直営?」

「ええ。5823番隔離農場で栽培したコーヒー豆を使用しています。入手しますか?」

「俺は紅茶派だよ、スワニルダ」

 視線を先に伸ばす。この街にただ一塔だけそびえ立つこの居住塔ヴィチュアリス・トリムを中心として半径10キロ先にある高さ10メートルほどの壁と、そこから上空に向かって立ちのぼるシールドが風の加減でゆらぐのが薄っすらと見えた。あのシールドが外の汚染された世界の侵入を防いでいる。目を凝らせばその奥には寒々しい荒野が広がっている。けれども目を落としたその内側には、細々と商店が営まれている区画がある。俺が行くことがない世界。

 外を見れば行きたくなる。だからやっぱり、ベランダに出ないほうがよかったのかもしれない。

 外はこのトリム内にいるよりほんのわずかだけ、生存率が落ちる。今は危険な病気も流行っていないし、外敵が襲ってくることもない。だからそれは無視できるほどの微差で、けれそもその差異は純然として存在する。スワニルダが受け入れられない誤差。


「フランツ、そろそろ部屋に戻りましょう。風邪をひいてしまうかもしれません」

「そうだな。スワニルダ、一緒に外に出る気にはならない?」

「外は危険です。フランツに何かあれば、私は生きていけません」

「そうだね。でもジェイスとレオニーも外出してる。一緒にでかけたいと思わない? 商業区までとはいわない。せめてあの桜のところまで」

 そう問いかければ部屋の景色が一転し、桜並木が現れた。部屋の中なのに柔らかな風が吹き、俺の髪を柔らかく揺らす。本来あるはずの天井を見上げれば空が投影され、その少し下で桜の枝が揺れ、たくさんの花びらが舞う。先程眺めおろした桜を下から見上げるより、おそらく数段美しい。

「美しいです。私にはレオニーたちが何故わざわざ外に行くのかわかりません」

 スワニルダの美しいという言葉は、おそらく自分の中の意味と少し違うのだろう。

 けれどもいつも通り、その差異というものは特段自分とスワルニダだけに生じているものではなく、ジェイスとレオニーにだってある。いつも通りそう納得しようとした。

「ソファに座って眺める桜もきれいだと思うけれどね。俺は君と外を歩きたいんだ、スワニルダ。いつかね」

「フランツ、私にはまだ体がありません。ですから歩くには素体を生成しなければ」

 淡々とした言葉に、珍しく感情が乗っているような気がした。

「言葉の綾だ。それにウェアラブルに少しデータを移せば、一緒に外には出られる」

「素体がなければ何かあったとき、救助を呼べません。まだ私の姿を決めかねているんですか?」

「今のところ、無くてもいいと思ってる」

 スワニルダは俺の好みが反映され、恋愛対象として設定されたAIだ。普通、AIはレオニーのように相性が定まればユーザが容姿を設定し、人とほとんど変わらない素体が生成される。

 俺はスワニルダを安易に設定したことを酷く後悔していた。あまり乗り気じゃない俺に変わってマザーがオートで決めた部分が大きいから、未だにスワニルダがどんなAIかよくわからない。

 スワニルダが自宅のAIとなった時、マザーAIのプログラムは削除され、素体が回収された。だからどんな設定にしたのか、聞くこともできない。マザーは僕は歳をとったから新しい関係を築くほうがよいと判断したんだろう。けど突然の喪失は大きくて、一緒にいてくれたのはやっぱりスワニルダだった。

「フランツ、もしあなたが私を気に入らないなら、他のAIに交代します」

「そんなことは望んでない」

 スワニルダに設定されたプログラムは俺の好みを反映して、合理的、つまり余剰が少ない。ジェイスなんかはもう少し許容性をもたせるように調整したほうがいいと言う。でもスワニルダがいなくなるなんて考えたことはない。いなくなって欲しいと思ったこともない。

「体なんかなくたっていいじゃないか。もしスワニルダが希望の素体があるならそれで構わないんだけど」

 映像は次第に切り替わり、桜が散って若葉が芽吹いてきた。素体があればジェイスとレオニーのように一緒に外を歩くことができるだろう。でも体ができてしまえばいなくなってしまうんじゃないかと思ってしまう。

「フランツが希望されないなら、必要性を感じません」

「なら、このままでもいいんじゃないかな。そのうち一緒に外にでられたらいいね」


Fin

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