Hello, world

Tempp @ぷかぷか

第1話 Inside

「おはようございます、フランツ」

 その声に、絹斑きぬぶちフランツはまどろみの中からゆっくりと体を持ち上げた。未だ頭はふわふわと定かではなく、けれども次に珈琲の香りを鼻孔が感じ取り始める。それで、少しずつ頭が起動し始める。

「おはよう。スワニルダ」

「本日は晴天、最高気温は22度、最低気温は14度。今日も過ごしやすい一日となるでしょう」

「そう。ありがとう」

「外出されますか?」

「外出?」

 その言葉にフランツがベッドを降りてベランダまで進めば、スワニルダがガラリと扉を開ける。爽やかな春の風が吹き込んでくる。フランツは窓の手前で動きを止めた。見えない壁が眼の前にあるようにしばらくその先を眺め、結局踵を返せばその背後で窓が閉まる音がわずかに響いた。同時にトーストが音を立ててポップアップし、それを引っ張り出して皿に乗せる。冷蔵庫からバターを取り出し珈琲をカップに注ぐ。

「メッセージが2件あります」

「後がいいな」

「わかりました」

 これはもう随分の間、フランツが繰り返している生活だ。

 フランツの脳波から、もっとも目覚めの良いタイミングでスワニルダがフランツを起こし、起床にあわせてトースターやコーヒーメーカーをセットする。

 フランツの気に入っているBGMが流れ、フランツの目の前に最近の世情の動きとフランツが興味をもちそうなニュースのダイジェストがポップアップする。その一通りが終わればフランツは諦めてメッセージを聞き、ワークスペースに移動する。スワニルダがソフトウェアを起動し、その日の一日の仕事が始まる。


「やぁフランツ。今日はどうだい」

「相変わらずだよ。ジェイス。それよりとっとと仕事を終わらせて一杯付き合ってくれ」

 ジェイスは俺の同僚兼コーディネータだ。必要な仕事の配分をする。

「フランツ、昼から飲酒は健康を害します」

「わかってるよ、スワニルダ。紅茶の話だ」

「スワニルダ、あんまり口うるさいとフランツに嫌われるぞ」

「嫌ったりしないよ。ジェイス、余計なことはいわないでくれ。スワニルダが本気にするから」

 モニタの奥でジェイスがやれやれと言う感じに肩を上げた。

 本当に、やれやれだ。スワニルダは普通の人間に比べても、真面目すぎるんだ。そこがいいところではあるんだけど。

 ともあれ今は仕事の時間だ。いくつかのタスクを監視し、その可否をチェックする。それほど難しい仕事ではない。けれども自分が何をやっているのか、よくわからない。この世の中というものはずっとそんな風に分割されすぎていて、こんな仕事が必要かどうかすらわからない。けど考えたって仕方がない。仕事をすることと引き換えに、このシェルター都市の中でコンパートメントを与えられているんだから。

 結局のところ自分にとって理解しうるのは自分だけ。だから目だけモニタに向けていれば寧ろ手持ち無沙汰で、だから目以外の主な仕事はジェイスとの雑談といってもいいくらいだ。タスクの監視さえしていれば、他は何をしていたっていい。

「フランツ。この間、3区に新しいカフェができてさ、レオニーと行ってきたんだ」

「へぇ。いいね。そういえばレオニーは外出好きだよね」

 3区にはショッピングモールがある。ジェイスはどこのカフェによったとか、どのショップにどんな服が売ってたとか、そんなことを事細かに話す。

「それで桜も咲き始めてたよ」

「ああ、そういや今日は温かいんだったな」

「……フランツ。お前もたまには外に出た方がいい。もうどのくらい出てないんだ」

 モニタの奥のジェイスの表情がわずかに真剣味を帯びるのを感じる。

 本当に、やれやれだ。このやりとりも一体何度目だろう。ジェイスが俺を心配してくれていることもわかっている。俺は随分外に出ていない。けど、それはジェイスの善意であって、外に出なくてもここでの生活に何の問題もない。

「出るべきときには出るよ。必要なものは配達で全部そろうし。……そういやジェイスは珈琲派だっけ」

「そうそう。今度おすすめ送ろうか? 新しいものを取り入れないと」

 話題を転換しようと思っても、今日のジェイスは少ししつこかった。

 それともよほどそのカフェが気に入ったのかもしれない。そういうことにしておこう。画面の奥を横切るレオニーがこちらに気づいて手を振る。振り返せばジェイスは後ろを振り向く。なんとなく、こういうのが普通のつきあいなんだろうなとは思う。

「俺はどっちかっていうと紅茶派だからさ。スワニルダが適当に見繕って注文してくれるから新しいものには事欠いてないよ」

「そっか。でも困ったら何でも相談しろよ」

 ジェイスは体を窮屈そうに折り曲げて近づき、モニタ越しにウインクした。

「ありがとう」

 そんな行為はとても無駄なことだ。けれどもこういうやりとりこそが、多分人間らしいというものだろう。こういう無駄は、そんな風に意図的にプログラムに混入させることはできるとしても、その機微というものは未だに計算機では再現しえないものなのかもしれない。仮にその他の感情というものの機序が再現し得たとしても、こういった余剰はおそらく個性によるものだ。

 個性。個性とはなんだろう。


 21世紀の初頭、AIはその会話においては人と遜色ない程度に発達した。けれどもハードウェア、外側の媒体としてはなかなか人には近づかなかった。人間の頭の中の画像処理というものは、違和感の発見という点において不必要に優れているからだ。

 そして21世紀半ばに地球は急激に寒冷化し、環境が激変した。海岸線は変動して世界の従来の港湾の多くが用を成さなく為り、その輸送の多くが不可能となった。植生が変化し、従来の動植物が移動または絶滅した。従来の環境で生存できない生物が人里に降り、伝染病が広がった。その中には接触によって罹患するものもあった。

 未曾有の危機に対し、人類は制御をAIに任せた。というより、その緻密で膨大な計算を任せざるを得なかった。その点については人類よりAIの方が圧倒的に優れていたからだ。

 人類はその生存の道をAIに委ねるとともに、その滅びへの不安の緩和もAIに委ねた。AIは人と同様、そのプログラムにランダム性が与えられ、それは個性と呼ばれた。

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