言葉は、世界を変えるのか?

水沢 縁 (みずさわ えにし)

言葉は、世界を変えるのか?

「あ、やばい。逃げちゃった……」


 思い付いた言葉をメモに取ろうとして、私はため息をつく。メモ帳を取り出して、さあ書くぞと思った瞬間に、それは煙のように霧散した。さっきまで高出力のコンピュータだったはずの脳は、今や綿菓子のようにふわふわだ。


 最近、仕事が上手くいかない。入社してから三年が経ち、仕事にも慣れてきた頃。


 私が所属しているのは、とある広告代理店のクリエイティブ部だ。広告のコピーライティングはもちろん、雑誌やWebの記事作成、台本の執筆依頼など、文字を書くことに関係していれば大体何でも行っている。一般的な広告代理店と比べ、ライターと呼ばれる人たちが倍近くも居るのが特徴だ。


 ここまでライターに特化しているのは、どうも社長の趣味との噂である。スタートアップから会社を一代で急成長させ、今やグループとして広告業界以外にも進出している敏腕。文章を書くのが好きらしく、最近では仕事の傍らに書いた小説が、とある出版社の新人賞を受賞してしまったらしい。


 世の中にはすごい才能の持ち主が沢山いるものだ。この三年間で私はそれを実感していた。工学部出身でありながら、ウチの部署で一番数字を出している先輩。去年入ってきた某有名大学出身の後輩も、あっという間に私を追い越していった。


 一方、私は地方の大学の文学部を出て、この会社に入社した。特にやりたいことがあったわけでは無い。ただレールを外れないように世の中の流れに乗ってきただけだ。現状を見るに、就活の時期が部署の再編に伴う増員のタイミングで無かったら、きっとこの会社には入社できなかっただろう。


 ……昔は、私も文章を書くのが好きだった。なぜ好きだったのかは思い出せない。好きだったという感情だけが、校庭に取り残されたランニングシューズのように、なぜだかぽつんと心の奥に残っている。


 その影響なのか、卒論を書いていた時も、就活をしていた時も、文章を書くのは苦ではなかった。仕事というのは結局何か作業をするということだから、自分が苦にならない作業ということでこの仕事を選んだ。


 それでも、最初はこの仕事が楽しかった。今まで勉強してきた文学とは違って、利益の出る文章を書く作業。自分の書いた言葉が世の中に広まって、今日も誰かを動かしている。


 自分が社会の歯車として、そこにカチッとはまる感覚がした。それが嬉しかった。私は仕事に夢中になり、少しずつではあるが成果も出てきていた。


 ……それなのに、最近急に書けなくなった。


 書きたいという想いはあるし、自分の中に書きたいものの形もある。でも、それが出てこない。


 書くのが苦しい……。初めての感覚だった。


 書こうと思えば思うほど焦りは募り、時間だけが過ぎていく。空回りしている感覚。カッチリとはまった筈の歯車はいつの間にか外れてしまい、何も無くなった軸だけが延々と回り続けているようだった。


 特別なものは何も持っていない私。そんな私の言葉でも、何かを変えられる。誰かの力になれると思ったのに……。


 再びため息がこぼれる。


「おーい、夢川、ちょっと」


 そうしていると、上司の山岡さんに手招きで呼ばれる。私は席を立ち、すぐに彼女のもとへ向かった。



 課長席に座っている、いかにも仕事のできそうな女性が上司の山岡さんである。工学部出身の異端だが、ウチの部署で一番の売り上げを出している実力者だ。工学の論文を書いている途中で、そもそも文章を書くのが好きだということに気が付きウチの会社に入社したらしい。役職についているが、私と五歳しか離れていないのだから驚きだ。


「さっき提出してもらった記事だけど、もう少し内容を考え直してほしい」

「……構成がおかしかったでしょうか?」


「いや、基本的なフォーマットを守っているから破綻はしていない。でも、夢川の意思が見えない」

「意思……、ですか」


「うん。仕事というのは上司からの指示をこなすものだけど、クリエイティブな領域においては作った人間の創意工夫も必要でしょう?それが今は見えない。ここまでは分かる?」

「はい。理屈としては……。でも、思うように筆が動かなくて……」


「そうか……。解決策は思いつく?」

「今は……、いいえ。でも、必ず仕上げます。締め切りまではまだ時間がありますよね?一度しっかり考えさせてください。その代わり、何か溜まっている雑務はありませんか?何でもやります」


 山岡さんもため息をつく。


「そう。いいわ。あなたの目、まだ死んでないものね。具体的に指示を出すこともできるけど、もう少し待ちましょう」

「ありがとうございます」


 私は頭を下げる。


「雑務ではないけれど、手が空くなら鈴木君のフォローをお願い。近々行く取材のヘルプを探していたわ」

「鈴木さん……。はい、分かりました」


 私は再度頭を下げてから、彼の席へ向かった。


「鈴木さん」

「はい、鈴木さんです」

「ふふっ、なんですかそれ」


 適当な返事に思わず笑ってしまう。鈴木さんは昨年入ってきた後輩なのだが、留年して大学院を出ているから、歳は上だ。某有名大学の文学部出身で、一年ちょっとで私の成績を追い越していった。今ではチームリーダーのポジションに就いている。


「今の面白かった?」

「いえ、あんまり。でも反射的に笑ってしまって」

「こうやって返事をすると、なぜかみんな笑ってくれるんだよね。理屈を超える、これも言葉の力だね」


 ウチの会社の人たちは、”言葉の力”という言い回しをよく使う。


「いや、理屈はあるでしょう。例えば、自分に敬称を付けているから面白く感じる、とか」

「そうだね。でも、さっき僕の言葉を聴いて笑った瞬間にその理屈を理解できた?わー、この人自分に敬称付けてておもしろ~い、って考えた?」


「いえ、それは違いますけど……」

「でしょ。思考を介在させない。時に思考速度を遥かに越えて、何かを伝えることができる。これって言葉の力じゃない?」


 そうなのだろうか。何となく騙されている気もするが。


「うーん、そうなんですかね」

「いやいや、君もこっち側の人間のはずでしょ」


 今度は鈴木さんが笑う。


「これは一旦置いておきましょう。それより、取材のヘルプを探されているとか」


 伝家の宝刀、”後回し”を振りかざして本題に入る。


「お、手伝ってくれるの?だったらお願いできるかな。取材に同席して、夢川さん的にビビッと来た言葉をメモに残して欲しいんだ。もちろんレコーダーは回すし、自分でもメモは取るんだけど……。自分とは違う視点も取り入れてみたくて」


「分かりました」

「ありがとう。じゃあ、この飴ちゃんをあげよう」

「いりません」

 

 餌付けをきっぱり断ると、わざとらしくしょんぼりされた。ひょうきんなキャラクターに見えるが、鈴木さんは課長に次いでウチの部署で二番目の成績を上げている。それでも驕ることなく、謙虚に努力を続けているのだ。……自分が簡単に追い越されたのも、私は内心納得してしまっていた。



 ――二日後、私は鈴木さんと取材に出かけた。と言っても、歩いてひと駅程度の所にあるウチのグループ会社だが。


 ウチはグループで社会人の野球チームを持っており、そこから初めてのプロ野球選手が生まれたというのだ。こういったことも会社の実績になるらしい。今後の人材確保のネタにもなるという事で、私たちのチームにお鉢が回ってきたそうだ。


 ひと駅程度の距離だが、歩いていると秋の気配が深まっているのを感じる。吹く風も段々と冷たくなってきた。そろそろ十月も終わりだな、なんてことを考えていると、あっという間に先方の会社に到着してしまう。


「本日はお忙しい所、ありがとうございます。取材担当の鈴木です。よろしくお願いします」

「夢川です。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」


 元気な挨拶に思わず笑顔になりながら、レコーダーを回す許可をもらう。はにかみながら取材に応じてくれたのは、営業部に所属する二十一歳の若者だ。


「まず率直に、今のお気持ちはいかがですか?」

「嬉しいです!自分、本当は高三の時にプロ入りしたかったんですけど、駄目で……。次の機会には絶対プロに入るんだという強い気持ちでやってきました。それがやっと叶ったので!」


 青年の目は輝いている。それからは、青年がどんな努力をしてきたかという部分を鈴木さんが深掘りしていく。これを私たちはサクセスストーリーとして組み立てる訳だ。


 青年の無邪気な表情とは裏腹に、過酷な練習の日々が語られる。自信に満ちた表情は、その努力に裏打ちされたものなのだろう。


 そしてそれが、私の中の何かに触れた。こんなこと前にもなかったっけ……。目の前の光景と似た景色を、私はどこかで見たことがある。


 似ている……。うっすらと記憶の蓋が開いていく。



 そうだ……。あれは中学生の時だった。当時仲の良かった友達。彼女が陸上部の全国大会に出る時に、校内新聞に載せる紹介文を書いてくれと頼まれたことがあった。 


 私はその友達のことが好きだったし、いつも努力しているのを知っていたから、何とか力になれたらと引き受けた。


 その当時も、私は似たようなインタビューをしたんだっけ。普段は聞けない友達の本音。一つのことに取り組む姿勢。いつもと違う雰囲気の彼女から語られる言葉は、当時の私にはとても新鮮で、大きな刺激になった。


 この子の想いを伝えなきゃ――。ただその一心で、私は言葉を紡いだ。


 言葉が紡がれるたびに思考は加速し、世界を置き去りにする。加速する思考と世界の摩擦で、私の身体は熱を帯び、その熱が言葉に命を吹き込んでいく。


 ただ一つの伝えたいこと。その感情を、瞬間を、絶対にこの言葉に留めるんだという想い。


 それだけが、私の筆を動かした。


 完成した原稿を彼女に読んでもらった時、彼女はとても喜んでくれた。こんな風に書いてもらえて本当に嬉しい。そう言って笑う彼女の笑顔に、私は心の底から満たされた。校長先生にも、友達想いのいい文章だねと褒めてもらえた。


 あの時、私は確かに理屈を飛び越えた。拙い文章だった。文体なんて無茶苦茶で、後から見たら誤字だってあった。……それでも、伝えたいことは、伝えたい人へと届いたのだ。


 私が言葉を、文章を書くことを好きになった原点。その力を信じることができた始まり。


 それを今、思い出した――。これこそが、今の私に足りなかったもの。……この熱は、もう二度と忘れちゃ駄目なんだ!


 ……しかし、その熱と同時に冷たく悲しい感情が大きな波となって押し寄せてくる。


 あぁ……、そうか。あの紹介文を書いたほんの数か月後に、彼女とは喧嘩別れをしてしまったんだっけ。


 当時彼女が好きだった男の子が、私のことを好きになってしまった。それがきっかけだった。私がその子に興味が無いと知っていたから、彼女も最初は気にしていないように振舞っていた。


「全国大会で優勝したら、告白しようかな」


 そう言ってはにかむ彼女の笑顔が、今でもうっすらと脳裏に残っている。


……しかし、現実は甘くなかった。彼女は、全国大会では早々に敗退してしまった。あれだけ頑張っていたのに……。落ち込むなという方が無理な話だ。


 そしてそんな時に、私は彼女の意中の彼から告白されてしまったのだ。


 もちろん私は断った。しかし、私たちの距離感が狂い、ギクシャクするまでに時間はかからなかった。


 お互いに話し合う努力はしたものの、最後はもはや理由も思い出せないような小さな喧嘩から、お互いの気持ちが爆発した。


 ――彼女とは、それきりだ。


 思い出したくなくて、ずっと考えないようにしていた悲しい思い出。当時は、それが一生続く罪のように思えた。この悲しい思い出を忘れるために、文章を書く喜びも、一緒に忘れ去られていたのだろう。


 あの時はとても辛かった。今でもその辛さの一端が、私の心にチクリと刺さる。


 ……でも、過去は変えられない。前に進むしかない。


 大人になった私は、それを知っている。だから、この気持ちも一緒に連れて行こう。喜びも悲しみも、その全てが私の経験となる。そしてその経験が、私の言葉を彩ってくれるのだから。



 ――インタビューを聴きながら少し目を腫らし、ぼうっとしたような表情の私を、鈴木さんが気にしている。


 『大丈夫です。ちょっと思い出し泣き』とノートの隅に書いて、こっそり見せる。鈴木さんは安心したように目だけで笑って見せ、意識をインタビューに戻していった。ノート一行にも満たない文字の羅列が人を動かす。これも言葉の力だ。



 ――後日、私は山岡さんに記事を再提出した。


「うん、良くなってる。ちゃんと書き手として、読み手に何を伝えたいかが伝わってくる。気持ちが入っているね」

「はい。実力ではみんなに及ばないから、せめて文章の型だけは正しくあろうと思っていたんです。でも、私自身の言葉がそこには無かった」


「そう。言葉っていうのは、突き詰めればただの記号で、道具なの。ただ言葉があるだけでは、何も変えられない。いつも何かを変えるのは、強い感情なのよ。私たちが言葉よりも先に持っていたもの」

「はい……。忘れていました」


「でも、感情だけでも意思を正確に伝えることはできない。だから私たちは言葉を使うの。感情だけでも、言葉だけでも駄目」

「……頭でっかちになっていたんですね、私。正しい言葉や売れるための文章にこだわりすぎて」


「それ自体は悪いことじゃないわ。基礎がしっかりしていないと、伝えたいことも伝わらない。人を感動させる言葉だって、ロジックで生み出すことができるくらいだもの。……でもね、それだけが全てでも無いはずよ。いつだって人を動かすのは、理屈を超えた先にあるものだもの。私たちはそれに少しでも近づくために、言葉に感情を乗せるんだから」


 そう言って山岡さんは、少女のように笑って見せた。……この人は本当に凄い。いや、山岡さんだけではない。鈴木さんも他のみんなも、私より遥か先を進んでいる。きっと、こういう人たちが世界を変えていくのだろう。不思議なことに、今の私にはそれがたまらなく嬉しい。


 それからの私は、無我夢中で働いた。帰ってきた情熱と共に、毎日言葉を紡いで文章を書く。仕事に夢中になれる日々は、とても充実していた。


 もちろん、それだけですべてが上手くいっているわけではない。相変わらず売り上げのトップは山岡さんだし、鈴木さんも山岡さんに負けじと頑張っている。私はまだまだ及ばない。毎日書く喜びと、絶望の繰り返しだ。


 でも、それでいい。これはサクセスストーリーでは無いのだから。私は自分に才能がないことを受け入れよう。それでも書いていたい、誰かに何かを伝えたいと思って言葉を愛する私を誇ろう。


――季節は巡る。乾燥した空気の中に、わずかに湿度を含んだ土のにおい。陽射しは新たな芽吹きを促すように。穏やかな秋は駆け足で過ぎ去り、長く厳しい冬も、いつの間にか終わりを迎えようとしていた。



 そんなある日、私は山岡さんに呼び出された。


「この仕事を任せようと思うんだけど、どうかな?」

「ええっと、ウチの部署の募集広告……ですか?」


「そう。先月二班の山田君が辞めちゃったでしょ?だから中途で人を取りたいんだって。……今の夢川なら、いいものが書けるんじゃない?」


 一瞬だけ仕事モードを解除した山岡さんが、優しく微笑む。突発的な仕事を、クオリティを信じて任せてくれたことが嬉しかった。


 私はすぐに答えた。


「やります!やらせて下さい」


 私はお礼を言ってから、自分の席に着く。心が震えているのが分かる。見出しは何がいいだろう。


 目の前で佇むキーボードが静かにその時を待っている。打ち過ぎて掠れてしまった文字、今はそれすらも頼もしい。


 深呼吸してゆっくり息を吐きだすと、吐息が震えている。


 もう、ため息なんて出ない。これは武者震いだ。


 ――私は思う。


 きっと、私が書いた言葉は世界を変えられない。それでも――。


 私は書き始めた。


『 世界を変える言葉、作りませんか? 』


 自分は持たざる者だと受け入れながら。道に迷う人へ、何かを変えたい人へ、言葉を愛する未来の同志へ、祈りを込めながら私は書き続ける。


 なぜ?


 信じているからだ。その力を。


 私も変わりたい。いや、変えるんだ。言葉の力で、自分を、世界を――。

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