rainy

森山 満穂

rainy

 ちいさく、雨の音がした気がした。反射的にエントランスに目を向けると、ガラス張りの自動ドアの外は薄曇りになっているものの雨粒の気配は見受けられない。ただ、うっすらと制服を正しく着た自分の姿がガラスに映るだけだった。

「これ、あなたが入れてくれないかしら」

 その言葉で、今しがた女性と話していたことを思い出す。向き直ると、その人はあるものを差し出してきた。それは、見覚えのあるヘッドホンだった。ハウジングの部分は、喪服姿の人しかいないこの空間には不相応な、ぱきっとした鮮やかな青色。そこには時空を裂かれたみたいに斜めに亀裂が入っていて、もう使い物にならないものだということは一目瞭然だった。

「あなたと同じものなんだって、あの子自慢してたから、あなたが入れてくれた方が喜ぶと思うのよ」

 そう言われて手渡されたそれは、ほんとうは軽いはずなのに、ずしりと手のひらに沈み込む。小さな傷と大きな割れ目の感触が、やけにちくちくと皮膚に伝わってきた。

 黙っていることを躊躇いと捉えたのか、女性は静かに言葉を付け足した。

「どうするかは、あなたが決めてちょうだい。私はもう……」

 そこで言葉を詰まらせて、「これを持つのは辛いから……」と声を揺らした。次に手に持っていた白いハンカチで口元を押さえる。その姿を見て俺は、しっかり上までボタンを留めた詰め襟に首を絞められているような感覚を覚えた。なんとか咳を堪えて、はい、とだけ答える。

「……ごめんなさいね。収骨の時はお願いね」

 目尻を拭ったその人は、ゆっくりとした足取りで控え室にはけていった。小さくなっていく後ろ姿を見つめながらーーどうして。心の内からぽつりと零れ落ちる。どうして、あの人みたいに泣けないんだろう。心に薄く膜を張るような感覚はある。けれど、まるで現実感がないのだ。今でもどこかからひょっこりと現れて、せんぱい、とあいつが呼び掛けてくれるような、そんな気がする。振り向くと、質素な色彩の花に囲まれた祭壇の真ん中であいつの遺影が笑っている。数年前と思われるあいつは、まるで知らない人みたいだと思った。




   *




 ごおごおと、そこら中で火葬炉が稼働する音が響いている。火葬場の控え室であいつの親族とテーブルを囲んでいる今も、その音は絶えず鳴り続けていた。母親に伯母、その娘であいつの従姉妹に当たる大学生らしき女性が一人。ときおり会話は紡がれるが、ぽつりぽつりと止んでいき、また火葬の音が存在を際立たせる。四畳半ほどの空間で、俺以外の三人は一様にテーブルへと目を伏せていた。ごおごおという音に合わさるかのように、彼女たちの暗い瞳の中で光が揺れる。

 この中で、俺だけがあいつとは血の繋がりがない赤の他人で、けれどあいつと特別親しかったからという理由で、この場にいる。

 血の繋がりがあれば、こんなふうに素直に哀しみを感じることができただろうか。俺はやっぱり、その様子を哀しみの伴わない視点でしか見ることができなかった。

 居心地の悪さを覚えながら、逃れるように視線を窓の外に向ける。空は青く、どこまでも続いているかのように広く見えた。ふと、ガラスに部屋の様子が映る。ガラスを見つめる俺と、俯く女性三人。あいつは、こんな狭い空間に容易に収まるくらいの人間関係の中でしか生きていなかったのか。父も祖父母もいないことを、俺は知らなかった。言えばいいのに。そう思った途端、また首元の窮屈な感覚がじわりと現れ始めた。襟に手を掛けようとした時。ポーンと時報のような音が鳴って、流暢な声のアナウンスが一言一句規律正しい発音であいつの名前を呼んだ。




   *




 灰色の壁に四方を囲まれた収骨室の、奥の小さな鉄扉が開いた。ぎい、と仰々しい音を立てて、職員がレールに沿って部屋の中央まで棺桶を運んでくる。俺たち四人がちょうど囲むようになる位置のところで棺は止まり、

「では、お棺を開かせて頂きます」

 職員は丁寧に一礼してから手際よく錠を外し、棺を観音開きにする。最後に見た時には遺体と花で隙間なく埋められていたその中身は、骨と、灰が底に薄く積もっているだけの物寂しいものになっていた。

「では、今から収骨の作法をご説明致します。お骨を回収するのは基本二人一組で―」

 通りが良いとは違う、聞き取りやすい職員の声の隙間から、啜り泣く声が漏れ聞こえる。その声は、ぽつぽつと俺の肩や腕にかすかに伝わっては、染み込まずに跳ね返ってどこかに消えていく。俺は誰の顔も見ずに、棺桶の中を静かに見つめた。遺骨は全体的に褐色を帯びていて、褪せた紙の色を思わせる。けれど。

あいつの面影は、微塵も感じられない。ただ、頭部や腰のあたりにところどころ陥没した部分が見受けられ、これはあいつなのだろうな、となんとなく理解はできた。

「では、少しお骨を細かく分けさせて頂きます」

 職員が危なげない手付きで的確に骨を分割していく。こつ、こつ、とつついただけでそれはいとも簡単に綻んでいって、微細な欠片がほろりと灰に混ざる。一通りの区分けが終わると、職員は骨壺台を運びやすい位置に引き出してから、母親に骨壺を置くように誘導していた。

「では、喪主様、あちらのつま足の骨からお願いします」

 職員が手で足元を指し示し、彼女は棺桶を挟んで反対側にいる伯母と一緒に竹箸で足の骨を拾い上げ、骨壺に収めていく。職員がどこの骨かを逐一説明して、それに従って細かくなった骨をいくつか回収して、次に俺と従姉妹の番が回ってくる。腰の骨の左側から従姉妹が右側からは俺が、それぞれに摘まみ、持ち上げる。ひとつ、ふたつ、みっつと収め終えて、四つ目を拾い上げた時、俺が持ち上げていた部分がふいに崩れた。箸から離れ、ゆるやかに落下していく様は、色も相まって、桜の花びらみたいだと思った。けれど脳裏に浮かんだのは、木の枝に満開に咲くそれではなく、散って地面で踏みしだかれた無惨な姿。脳裏に映った記憶のどこかの残像が、一瞬思考を停止させる。

「大丈夫ですよ」

 その声で我に返ると、職員が従姉妹が持ち続けている骨の空いた片側を示していた。

「もう一度こちらを持ってもらって。慌てずゆっくりやれば大丈夫ですから」

 気遣うような声色で言われて、内心戸惑う。そんなに、沈んだ様子に見えたのだろうか。いまだにまったく哀しみというものを実感できていないのに。骨の左側をそっと摘まみ直す。今度は何の問題もなく運ぶことができて、骨壺の空間が満たされていく。無心で箸を運ぶごとに、壺の底は赤褐色に埋められていく。それとは対照的に、胸のあたりから意識が剥がされて、自分の動きが機械的になっていくのがわかる。あいつの身体に間接的ではあるが、最後に触れる。俺にそんな資格があるんだろうか。踏みにじられた桜の花びらが、また脳裏を過った。




   *




 精進落としを遠慮して、俺は一人帰路に着いていた。自宅の最寄り駅の改札を出て、ゆっくりと歩を進める。コンクリートの地面から視線を上げると、象牙色の建物、街路樹の緑、車屋のからし色の看板、コンビニのコーラルピンクの幟。次第にあちこちに色彩が現れ、見慣れた風景に少しばかり張っていた緊張の糸が緩んでいく。詰襟のホックを片手で外し、次いでシャツのボタンを二つ目まで開ける。解放された喉元が短く動き、息を吸う。長く息を吐いて仰ぎ見た空は、まだ青かった。あいつが亡くなった日も、こんな空だった。雨の気配なんてひとつもない、一般的に言えばピクニックにでも出かけたくなるような、気持ちのいい快晴の日。

 その日は期末考査の最終日で、午前中には試験は終わり、俺たちは昇降口で落ち合って一緒に駅までの道のりを歩いていた。他愛のない話をして、あいつは徒歩通学内であるため、駅の手前の信号で「じゃあまた明日」と別れた数分後だった。改札を通ろうとした時、危機迫った甲高いブレーキ音、のあとに、鈍いような、でも激しい音が耳をつんざいた。振り向くと数メートル先で、人らしき影が宙に舞っていた。いや、舞っていたというより吹っ飛ばされていたという方が正しかったのかもしれない。そのまま大通りの方向にものすごいスピードで飛んでいって、視界からすぐに消えてしまう。それから少しずつ場が騒然としていき、わらわらとそれが飛んでいった方向に野次馬が集っていく。俺はのんきに、交通安全教室とかで実際に事故の様子を人形で再現することがあるけれど、本当にあんなふうに飛ぶんだな、と思いながら、その場に突っ立って見ていた。事故現場に近づくのは野暮だなと思い、その日はそのまま改札を抜けて、電車に乗って帰った。その時はあの人影があいつだと、露にも思わなかった。だから家に帰り着いてからあいつに普通にメッセージを送ったし、既読が付かないことにちょっとだけやきもきしたりもした。文句のひとつでも言ってやろうと登校した次の日の朝、校内放送であいつの死を知った。

 瞬きをしても空はちっとも色を変えず、移動を続ける雲によってむしろその青をより曝け出している。ぼんやりと歩を進めながら、あの青い中を飛んでいく人影を想起する。あいつと、あの空を飛んだ人が、未だにどうしても俺の中で結びついていなかった。お通夜、告別式と粛々と儀式がなされ、周りがあいつの死を確定していく中で、俺だけがずっと現実を感じられずに生きている。

 大通りの交差点に差し掛かり、信号待ちの群れに紛れて足を止める。視界を横切る車の走行音が近付いては離れ、それを追ってまた新しい音が通り過ぎていくのを聞き流していると、横に他校生らしき制服姿の二人組が並んできた。片方が先輩、と相手を呼ぶ。せんぱい、記憶の中の快活そうな声が幻聴として蘇る。続いて青空に飛び上がる姿。あいつならあんなに高く飛びそうだなと思う自分に、はっとする。結びつけられないのではなくて、むしろ意図的に切り離そうとしているだけなのかもしれない。そうすれば俺は──。

 ふいに、ゴッと固いものに脇腹を小突かれるような感覚があった。鞄の中を手だけでまさぐって、その正体を探す。すると、指先にチクリとした感覚が現れた。慎重にそのひび割れの筋を辿って全体をなぞり、ハウジングの部分をわし掴んで鞄から引き抜いた。パキッとしたブルーのヘッドホンが青空の下に曝される。取り出したあいつの遺品であるそれは、灰になることなく俺の手の中にあった。棺桶にはけっきょく、入れなかった。どうしてかと訊かれても答えることはたぶんできなくて、かといって手元に置いておいてどうするんだという感じでもあるんだが。ひび割れの他にアームの部分もカパカパしているし、ヘッドバンドは無理に動かしたら千切れてしまいそうだ。完全に壊れている。けれど。じっとその有り様を見つめてから、できるだけ優しい手つきでそれを被ってみる。外界の音が薄れ、包まれた静寂が押し寄せるように耳元に訪れた。瞼を閉じると、ささやかな音がわずかに鼓膜を揺らす。体内を巡るくごもった血流、息遣い、コードが服に擦れる音。俺がここに存在しうる音だけが自分に跳ね返ってくる。ラバーの部分はあいつの耳の形に沿って変形していてもいいはずなのに、あいつの痕跡は一切感じない。ぐっとハウジングを握って押し当てても、俺の音が静寂をくすぐるほどに掻き乱すだけ。それがやけに、自分がひとりなのだと言うことを突きつけてくるみたいだった。音楽の流れないヘッドホンの内側は、こんなにも寂しい。瞬間、骨だけになってしまったあいつの姿を思い出した。焼かれて、形も崩された体、ぬくもりも何も感じれない、ただの脱け殻。ヘッドバンドが、軋む。箸が骨を崩す。その時、胸の辺りにひやりとプラグの先端が触れた。刺すような冷たさに目を開ける。寸前、雨の音がした。聴こえるか、聴こえないかのほんとうに小さな音。それが次第に激しさを纏って、ひび割れていく。見開いた先、目の前に見える青空が裂けて信号を、横断歩道を断絶していく。その隙間から、あの日の光景がノイズに混じって流れる。甲高いブレーキ音、車があいつにぶつかって鈍い音が轟き、人形のように無惨に舞うあいつの姿。鼓膜を破くような激しく鋭い音が、身体中を駆け巡り、胸に響く。まともに息もできないほどの衝撃にまっすぐ立っていられなくなる。これはまるで、雷。途端、ヒビの中の映像が膨らむように歪んで滲んだ。ぽたぽたと、雫が落ちてくる。青空を背景に、雨が降っていた。透明な雨粒が次々と降り落ち、その一つひとつに思い出を映し込んでいく。あいつと歩いた帰り道、一緒に勉強した図書館、あいつと行った色んな場所、出来事が鮮やかな色で映し出される。けれど肩に触れて滲み込んだ雫は、ぞっとするほど冷たかった。それは温かい記憶のはずなのに、もう血の通っていない温度で頬を撫でていく。身体に触れもせず落ちた雫は、地面に砕け散ってぐしゃりと形を失くす。待って、消えるなよ。屈み込んで必死になって掻き集めようとしても、もう戻ってこない。浸された指先がどんどん冷たくなって、感覚をうしなっていく。ああ、ああ。絶望する気持ちで俯くと、水溜まりになった水面に涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔が映っていた。雨粒が身体中を差す。胸に締め付けられるほどの痛みが広がっていく。涙が、青空を内包して光り、水溜まりに落ちていく。そのたびに、耐え難い痛みが胸の内で脈動する。もう、あいつはいない。もう、会えない。

「いお、り」

 無意識に呼んだ名前に、返事がかえってくるはずもなかった。あの時あの場に引き返して、そばにいてあげればよかった! 素っ気なくしないで、もっと優しくしてやればよかった! 後悔が溢れ出して、嗚咽とともに濡れた身体が重くなっていく。もっと、もっと──……。想いは切れ切れになって、もう言葉にならない。苦しい。あいつがいない世界では、もう永遠に叶わないことばかりで。なぶり続ける雨は雨脚を強めていく。行き場のない感情が、喉から迫り出る。叫びが一瞬雨粒を眩く光らせ、青空に轟いた。

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