第三章 迷い込んだ霊

廊下のおじいさん

 

「こんにちは」


 明路の前に立っていたそのおじいさんは軽く腰を屈めたまま、ゆったりとした口調で、そう言った。


「こ、こんにちは……」

と返しながら、明路は惑っていた。


 えーと。

 この人は……?


 おじいさんは、にこにことお地蔵様のような顔で微笑んでいる。


 これが道端なら特に違和感はなかっただろうが、此処は学校の廊下だ。

 しかも、授業中。


「明路っ!」


 強く抑えた声が自分を呼んだ。

 凄い勢いで教室から出て来た由佳が明路の腕を掴む。


 そのまま、おじいさんから離れた階段近くまで、引きずっていかれた。


 由佳はこちらの両腕を掴んだまま、子どもに言い聞かすように言う。


「明路。

 知らない人に付いてっちゃいけないって習わなかったのか?」


「いや、付いてってないし。

 おじいさんは最初からそこに居たのよ」


 そう言いながら、如何にも無害そうな老人を振り返る。


 おじいさんは腰を屈めたまま、辺りを見回していた。


 何かを探すようなその仕草が気になり、つい、凝視していると、背後から由佳に頭をしばかれた。


「痛いな。

 ねえ、あの人、何か探してるみたいだよ」


「あのな……」


「迷ってるみたいだし、話、訊いてあげたら?」


 由佳の透けるような茶色い瞳を見つめ、そう言ってみた。

 

 


 ……どういうつもりで言ってんだろうな、こいつは、と思いながら、由佳は明路を見下ろす。


 こんなところに、突然、生きた老人が現れるものか。


 いや、そもそも、さっきの首筋を撫でていったナニカを追って来たんだろうに。


 あの年寄りが霊だとわかっているのか、いないのか。


 老人を見つめる明路の目には恐れも驚きもない。


 なんだか厭な予感がして、さっきとは違う意味で、首の後ろがチリチリしてきた。


『迷ってるみたいだし、話、訊いてあげたら?』


 明路の言葉に、ああ、確かに、と思う。


 お前が思っているのとは違う意味で、あの老人は『迷って』いる。


「わかった。


 ……私が話を訊いてあげる。


 だから、明路は教室に戻って」


「教室には戻れないよ。

 具合が悪いって言って、出て来ちゃったから」


 最もな反論をされ、由佳は顔をしかめた。


 ――まあ、確かに自分も気になってはいる。


 あの老人は確かに、此処で何かを探しているようだ。


 それに、彼は、どうやって、此処に入り込んだのか。


 悪い予感しかしない。


 特別等のトイレの中。

 顔に似合わぬ脅しをかけてきた、あの子どもを思い出す。


 ――まさか、あのガキ、何かしやがったのか?


 ともかく、教室の側はまずいと、老人のところまで戻る。


 こちらを見上げた老人に、

「じいさん」

と話しかけると、


「ほーう。

 あんた、さっきの嬢ちゃんとよく似とるのう」

と彼は言った。


 ぎくりとする。


 自分と明路を見て、似ているなどと。

 生きた人間なら言わない――。


「ぼ……」


「じいさん」


 愛想のいい老人が何を言おうとしたか察し、由佳はその言葉を塞ぐように言った。


「いいから、ちょっと来い。

 おぶってやるから」


 由佳がそこにしゃがむと、老人は笑って言う。


「霊なんじゃから、膝も腰も悪くないわい。

 屈んでるのは生前の癖でなあ。


 あんたも、死んでも、その癖が出……」


「いいから、来てくれっ」


 しまいには、懇願するように言っていた。


 明路が何をやっているんだというようにこちらを見ている。


 こんな癖が死んでまで出てたまるか。

 っていうか、癖じゃないしっ、と思いながら、由佳はなんとかじいさんを背中に背負い、明路のところまで戻った。


「あ、背負えるんだ?」

と言った明路に、こいつ、やっぱり霊だとわかってるな、と思った。


「明路。

 今日、あの時計持ってる?」

と訊くと、彼女は首を振る。


 内心、舌打ちしていた。

 もっと常に身に付けるものにすべきだった、と思う。


「まあ、そういう日もあるわよ」


 そう言った明路の言葉に、何故か慰められている気がして、ひやりとする。


 明路の言う『そういう日』とは、時計がなくても見える日、という意味だろう。


「じ……いちゃん」


 危ういところで呼び変えた。


「なんでこの校舎に入り込んだ?」


「それがのう」

と老人はキョロキョロと辺りを見回す。


「この辺りにあったと思ったんじゃが……」


 そのあとは、口の中で、モゴモゴと言っている。


 なにがだ、ジジイ、と言いたい気持ちを抑え、由佳は訊いた。


「この辺りに何かあったのか?」


「うん。

 お堂がの」


「お堂?」

と訊き返したのは、明路だった。


「お地蔵さんの入ったお堂があったんじゃ」

と言う爺さんに、あんたがお地蔵さんじゃないのかと言いたくなる。


 そんな穏やかな風貌だった。


「わしゃ、そこへ行く途中に死にでもしたんじゃろうか。


 どうもあれが気になっての。


 この辺りをぐるぐると廻っておったんじゃが、どうしてもお堂のあった位置に行けんのじゃ。


 今日まで、この建物の塀の向こうに入れんでのう」


「いや、待て」

と手を挙げた。


「入れなかったのはいつから?」


「さあ。

 いつからかのう」


 返事は遅く、会話も鈍い。


 このまま放課後を迎えてしまいそうな気がした。


 いや、ともかく、授業が終わってしまうのはまずい。


 みんなが廊下に出て来てしまう。


「明路。

 とりあえず、このお爺さんを保健室に連れていって。


 あそこ、どうせまた人、居ないから」


 保健の先生は大抵、ふらふらしていて保健室には居ない。


 まあ、それ以外にも理由はあるのだが。


「由佳は何処に行くの」


「トイレ」

「えっ?」


「だって、そう言って出て来ちゃったから。

 アリバイ作りに、一応、ほんとに行っとくよ。


 いや、保健室におじいさん連れてくとこまでは、ちゃんと付いてくからさ」


 そう由佳は明路に言った。







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