何かのはじまり――

  

 

「明路ーっ。

 何処行くのー?」


 教室に戻るみんなの列から外れた明路を、春香たちが振り返る。


「ごめん。

 ちょっとお手洗いーっ」


 教室手前のトイレ近くで足を止めていた明路は叫び返した。


「えーっ。

 もう時間だよー?」


「急いで行ってくるよー。

 あそこじゃ行く勇気なくてー」

と言うと、確かにっ、と言って三人は笑っていた。


 こんな時間だ。

 トイレの中は、もちろん人気がない。


 明路は、さっきと同じ、奥のドアを開けてみた。


 一瞬、そこに誰かが見えた気がした。


 あのとき、由佳の向こうに、小さな人影が見えたのと同じように――。


 いや、きっとこれは気のせいだ。


 明路は無意識のうちに、手首に手をやっていた。


 今、あれ・・を持っていないのに、見えるはずがないからだ。


 ――お祖父様にいただいたあの腕時計。


 あれをつけているときだけ、私には霊が見える。


 だから、あれがないのに見えるはずがない!


 明路は手首を押さえたまま、鏡を見る。


 そこには、『私』が居て、私を見ていた。


 一度、目を閉じる。


 もう一度、鏡を見、私を見た――。


 

 

 食後に古文の授業。

 究極眠くなるな。


 トイレから戻るとすぐにはじまった五時限目の授業。

 半ばを過ぎると、すでに先程からの緊張感も消えていた。


 明路は教科書を握り締め、欠伸を噛み殺す。


 チラと斜め後ろの由佳を伺うと、由佳は立てた教科書に顔を突っ込み、遠慮なく欠伸をしていた。


 笑ってしまう。


「うひゃっ」

「ひゃっ」


 突然上がった声に、抑揚なく続いていた教師の朗読が止まった。


 軽く禿げた小柄な教師は、誰だとばかりに室内を見回している。


 明路は首筋に手をやり、そっと後ろを振り返る。


 さっき、何かひやっとするものが、うなじの辺りを撫でるように通っていったのだ。


 見れば、由佳も同じように、首に手をやり、廊下の方を見ている。


「先生」

と明路は手を挙げた。


 あまり積極的に手を挙げることなどない自分が挙げたことに、先生は驚いているようだった。


「すみません。

 気分が悪いので、保健室に行って来てもいいですか?」


 ちょっとシャキシャキ言い過ぎたかな、と思ったが、今まで真面目にやってきたことが幸いしたのか、先生は、


「一人で行けるか?」

と疑うどころか心配して送り出してくれた。


 由佳の視線が自分を追うように動いていることを感じながら、外に出る。



 ――待てこらっ。

 何処に行く気だっ!


 教室を出て行く明路を視線で追いながら、由佳は教科書を握り締める。


 どう動くべきか、何パターンも頭の中でぐるぐると回っていた。


 明路は外に出てすぐ、立ち止まったらしい。

 すりガラス越しにその姿が見えた。


 ――いやっ、もう駄目だろうっ。


 明路が心配だから、様子を見に行きます、とでも言えば、続いて出て行っても大丈夫だろう。


 そう算段しながら、由佳は勢い良く立ち上がる。


 だが、焦っていたせいか。


「先生っ、トイレっ!」


 口から出ていたのは、全然違う言葉だった。


「お……おう。

 行ってこい」


 女子校とは言え、授業中に立ち上がって、女子がはっきり言うような台詞ではないからだろう。


 教師は、余程切羽詰まっていると思ったらしく、すんなり教室から出してくれた。


 ただ、春香たちだけは、さっき行ったじゃん、という顔で、苦笑いしていたが――。

 


 

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