第42話 傑作

 昼までには、街には兵たちが溢れかえっていた。

 シヴァの言う通りだろう。どの兵も泥に汚れ、血を浴びたまま、疲れ切った表情で、敗残兵そのままの顔だ。


 だが、市民には噂話しか流れてこない。


 どうやら王軍は、ランドンの砦を落としたつもりが、そこから動けなくなり、包囲戦を仕掛けられて大敗したという。

 カレンドリアに帰ってきたのは、一部の隊で、大部分はまだ戦っているらしい。

 つまりは、劣勢ということだ。どの兵も疲労困憊の表情でカレンドリアの門をくぐり、すぐに治療を受けていた。

 中には既に死体になっている兵も担がれて帰ってきていた。

 足を失った者、視力を失った者も珍しくない。


 戦地にどれくらいの兵が残っていて、どれくらいの兵が死んだのかもわからない。


 リーヴがランドン側にいるのが気がかりだ。

 アリフィエント王国の人間だと分かれば、ただじゃ済まないだろう。敗残の兵士のことよりも、身内のことが心配になった。


「書けたよ」


 そんな時に、二階から降りてきたキノが書き直した原稿を持って降りてきた。

 顔が土気色から、少し青黒くなっている……。今まで生きてきて見たことのない人間の顔色だ。

 屋外の敗残兵を見ていてうっかりしていたが、不眠の呪いを解き忘れていた。


「ちょっと大丈夫なの?」

「大丈夫どころか、改心の出来だ。いますぐ少尉のところに行こう」

「そっちの心配じゃないわよ。それに少尉もいま、それどころじゃないわよ。今日はもう寝たら」

「リリカ。だめだ。最高傑作ができたんだよ。アーデル少尉もこれなら笑い出すと思う」


 止めるのも聞かずに、ふらふらと書店を出ていく。

 慌ててその背中を追いかけた。

 街の中は、逃げ帰ってきた兵達が道に座り込み、そこら中から漂う汗と血の臭いでおかしくなりそうだ。

 そんな光景を目の当たりにしても、なお、キノの足は少尉の元に向かった。


「戦争で負けたって、みんな言ってるのよ? どんなに面白くったって、少尉も、それを読んで笑っている場合じゃないわよ?」

「それは、少尉の問題であって、私の問題じゃない。それに、リリカ。私は知っている。こういう時だからこそ、人々に物語が、希望が、そして笑顔が必要なんだ」


 案の定、少尉たちのいる士官が借り上げた建物は、出入り口から伝令がひっきりなしに出入りして、それどころじゃなかった。


「ホークテイル神官ではないか。何をしている?」


 廊下でかけられたその声は、いつぞやのギブソン少佐だった。その後ろにはアーデル少尉がいた。大佐は姿がない。

 そんなことに構うことなく、私を押しのけ、ギブソン少佐を無視して、キノがアーデル少尉の前に進み出た。


「原稿の確認をいただきに参りました。アーデル少尉、ご確認を」

「おいおい。こいつ、何を言っているんだ。今はそれどころではないだろ? 見てわからんのか? 敵がこの街にも迫っているのだぞ? ここだっていつ戦場になるか」

「わかりません。私の戦場はここですから」


 その凄みに押されたようにギブソン少佐が下がった。

 上司を庇うように、アーデル少尉がキノの前に立ちはだかり、いつもと同じ無表情のままその原稿を受け取った。


「拝見いたしましょう」

「おい、少尉。そんなことをしている時間はないぞ」

「少佐。ご安心ください。ここは私が引き受けます」


 口を開けたままのギブソン少佐を尻目に、アーデル少尉はいつもの部屋に入っていった。


「どうぞ、おかけください」

「よろしかったのですか?」

「何がです?」

「いま、少佐が、『そんなことをしている時間はない』と」

「大丈夫です。職務を全うするのが王国の軍人ですから。少佐は別の職務があるのでしょう。ペンドラゴン氏が職務を全うしているのに、私が放り投げるわけにはいきますまい」


 そう言うと少尉は原稿に目を通し始め、いつも通りに赤ペンを持った。職人気質の軍人なのだろう。与えられた任務を優先するタイプだ。

 無表情なままのアーデル少尉だが、真面目に文章を追っているのは、その目を見ればわかる。無理難題を押し付けてくる少尉だが、読書に関しては真摯なのだ。

 何十分もその顔を眺める時間が続いた。

 黙々とアーデル少尉がページをめくる乾いた音だけが部屋に人がいることを教えている。

 少尉は、いつも、いつも、無表情のまま……ん?


 キノと目を合わせた。

 いま、一瞬だけ、口元が……笑ってなかったか?


 キノはこの作品を改心の出来だと言っていた。最高傑作とも。

 私もまだ中身を見ていない。

 だがアーデル少尉が笑うくらいだ。余程の面白さではないのか? 読んでみたい気持ちにかられる。


「ふっ」


 無表情なアーデル少尉から、小さな笑い声がした。顔は全く笑っていないが、鼻からふっと息が漏れた。


「……面白いですか?」

「これだけのボリュームを一晩で修正するとは。感服しました」

「いえ量ではなく……中身は?」

「……拝見中です。お待ちください」


 いま、笑っていた。

 少尉はこちらを見ることもなく、一心不乱に原稿を読んでいる。自分が笑っていることにも気付かない集中力なのだろう。


 その後は何度も何度も口元がほころんでいた。

 逆に不気味だ。

 もしかしたら、また何か難題を押し付けるのではないだろうか?


「ようやく、私にも、この面白さが分かってきました。こう何回も『くっ、殺せ』と言われると、なんだか妙におかしいですな」

「はい。同じことを繰り返しているうちに、人は、展開に慣れて、突然現れる予想外の展開に、自然と笑えるようになるのです」

「それと、会話のズレの面白さは絶妙ですな。汚職事件とお食事券を間違えたまま、話が進んでいく」

「はい。エレナは汚職事件への関わりを危惧する一方で、主人公たちは、目の前の食事に大喜びのシーンですね」


 それに答えることもなく、少尉はまたページをめくり始めた。


「こんな面白い話を、こんな敗戦時に読まなくてはならないとは……」

「……戦況はひどいのですか?」

「二万の兵のうち、三割も戻ってこれないかもしれません」


 アーデル少尉が原稿から目を離さずに、あっさりと白状した。


「死んだと思っていた鳥人のクインも再び戻ってくるのですね」

「はい。戦う者の死に場所はここではありません」

「無駄な戦いを避けるか……。心強いが、戻ってきた瞬間に敵と間違えられるとか不運ですな。異形ゆえの宿命的な面白さというべきか」


 ……様子がおかしい。

 アーデル少尉は感想を述べているが、修正やいちゃもんをつけてこない。


「こんな面白い物語を出版してもいいと思っているのですか?」


 おっとっと。気を許しかけた矢先に、切り返してきた。

 やはり……ダメなのか。

 心が折れそうになったその瞬間、キノが口を開いた。


「思っています。正確には、私やリリカが決めることではない。あなたが、この国の人の笑顔を見たいかどうか。それだけです」


 キノの返した一撃は、アーデル少尉の心を少なからず打ったようだ

 少尉はじっとキノの目を見つめた。

 そしてその言葉に込められた魂魄に気圧されたように、アーデル少尉は頷いた。


「この原稿はお預かりしましょう」

「……それは、どういう意味ですか?」

「出版に足るものと判断しました。私が上層部に責任をもって掛け合います」


 私もキノも、言葉が耳に入ったけど、意味を理解するのに時間がかかった。


「合格という意味ですよ」


 そういうと、少尉は呆けている私たちを残して、原稿を片手に部屋を出ていった。

 残された私たちはお互いの顔を見つめ合い、そしてキノが差し出した手を私は握った。


  ◇


 書店で出迎えてくれたのはシヴァだった。

「よう。どうだった?」

「わからないけど、出版に掛け合ってくれるって」

「マジかよ? なんで、こんな時に、喜劇を通す気になったんだ?」

「わかんないよ。いまは、キノを休ませてあげて」


 キノの顔色は青黒さを通り越して、この世のものとは思えない顔色で立っているのもやっとだ。途中で呪いを解いたら書店にたどり着く前に眠り出した。


「お、おう。二階のソファーで寝ろ? 俺が運ぶ。あと、リリカに客だ」

「客?」


 振り返ると、本棚の影にいたのは、小さな幼女とその母親だった。


「どちら様?」

「私たちは国境近くのオストーという村から逃げてきたものです」

「……それはそれは……あ、教会のほうで村を追われた方などに食事がでますので、そちらのほうへ」

「ありがとうございます。ですが、あなたに言付けを、この子が承ったそうで」

「言付け?」

「はい。『カレンドリアへの襲撃は三十日』と」


 そういうと、幼女は母親に促され、一冊の本と幼女には大きすぎる剣を差し出した。本は『ガーリア大陸の歩き方』だった。そして剣は……。


「ペンドラゴン家の剣……」


 三十日って、あれ? 

 壁に貼られたカレンダーを見た。三十日……今日だ。

 その時、外で爆音が鳴り響いた。

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