第8話 原稿
「例の試作品を早めにお見せしようと」
油紙の件だ。早いな。
いい商人は、素早く商品を提供する。こういうところは真面目だ。
「ウチで扱う薄紙の中で質の良いものに、ひまし油を染み込ませたもの、ラードを塗ったもの、蝋をこすりつけたものをご用意しました」
そう言って、三枚の紙をテーブルに広げる。
「油が染み込んでいると伺いましたが、私のみたところ、いただいた紙は、油を塗っているようにも感じられました」
うーん。なら、塗った奴を用意してくれたらよいものを、テーブルは既に油でギトギトだよ。
「これをどのようにお使いに?」
「ああ、これを見てくれ」
勉強机を指さした。そこには石板と書きかけの油紙があった。
「こうやって、油紙に文字を書いて油を削っていくんだ」
「その紙をどうされるのです?」
「あの機械の円筒に貼り付ける。円筒には油混じりのインクが塗ってある」
アランが、頷いた。これだけで理解できたようだ。
「なるほど。紙の油部分はインクを通さず、削られた部分にインクが染み込むと?」
理解が早い。その通りだ。
「でしたら、ひまし油は問題外ですね。いただいたサンプルも濡れているわけでは無さそうですし。ラードも除外でしょう。そうなると、やはり、蝋をこすりつけたものが最も近いかと」
試しに蝋紙を使って、錐のペンで引っ掻いてみた。
「んー。確かに近いが、これだと、分厚いな。周りの蝋まで全部引っ剥がしてしまうね」
「なるほど。もう少し蝋に粘りと軽さが必要かもしれません。薄くしたいですね」
「これは何の蝋?」
「ハチの巣を使いました」
なるほど。いい香りがするのは、そのせいか。
ハチミツの香りが少しする。
ハチミツとラードとインクの臭いで、部屋の臭いがカオスだが、紙だらけの部屋でおいそれ窓も開けられない。
「ではヴァクスの木から出る蝋を使いましょう。植物性の蝋です。薄く延ばせますし、乾きも良いものです。また出来上がり次第、お持ちいたします」
「すまないね」
「いえいえ」
言ってから気付いた。すっかりアランと契約する形で話が進んでやがる。
警戒していてもこうやって、知らない間に懐に入ってくるのが商人だ。アランはきっと大成するタイプだろうな。
紙のこととなると目の色を変える。職人でありながら商人でもある。
「アランさん。本を作るのを、一緒に手伝ってくれないか?」
キノ? どうした急に。
「いいんですかっ!?」
アランも願ってもない様子で乗り気。え、なにこれ?
「まてまてまて。おい、キノ? どうした、急に?」
「いや、ここから製本に入るけど、私たち二人でいいのかなって」
「なんで? 私じゃ嫌なの? 私じゃ信用できないってこと?」
「違うよ。リリカ。そうじゃないから、困っているんだよ。もしも、この先、誤字を見つけて、書き直しとかになった時、リリカは私に文句を言えるか?」
「言える」
「……私には言えないかもしれないんだ」
くそ。そうだった。
ペンドラゴン家はみんなそうだ。
変なところで優しすぎる。
「作業でミスが起きたとき、リリカと二人でやっていたら、……多分だけど……甘くなる。リリカを失いたくないし、仲が悪くなるのは……やっぱり、嫌なんだよ……。もちろん、リリカが私に甘くするわけがないとは思うけど……私は……そんな気がするんだよ。でも、この本は、ちゃんと出してあげたい。いや、出すべき本だと思っている」
キノが、少し困った顔になっている。
知らなかった……。キノがそんなに気を使っているなんて……。
天才肌ゆえに、人との付き合い方が分からないと思っていたが、存外そうでもないらしい。
「だから、アランさんに入ってもらいたい。アランさんの前で無責任なことはお互いにできないと思う。だって、この商売の応援をしてくれているんだから」
そう言われてアランは細い目を文字通り目一杯広げて頷いた。
「もちろんですとも。リリカさん、いかがでしょう。私を仲間に加えていただけませんか?」
な、なんだよ。まるで私一人が意固地になっているみたいな状況じゃないか。
「……わかったわよ。アランも製本を手伝って? キノも私に遠慮しちゃダメよ? 私もキノには遠慮しないから。あとアランも二人に容赦なく言うべきことは言う。それでいい?」
「もちろんですとも。この商売が成功した暁には、我々の紙をお使いください」
「では、私も遠慮はよそう。早速だが、リリカ。三十八ページの『雌牛』は綴りが違う。あと四十五ページ目の『新樹』は『神樹』にしてほしい。それと」
……なんだ。私のミス、多いな。
「ところでお二方。市民バザールまで、あと10日しかありませんが、大丈夫ですか?」
「大丈夫。刷り始めたら一瞬で出来上がる」
「刷り上がるのはそうでしょうが、綴じるのは?」
「とじ……る」
キノを見た。
が、全く考えていなかったようだ。
「リリカ、教会では本はどう綴じているんだ?」
「え? 知らないわよ。私、書いたのを製本部に渡して……」
「教会は縫い綴じを行いますね。太い針を使って一枚一枚縫っていきます。安いもので八か所。お値段が張るものは十六か所くらいで綴じます。リリカさまの机にある聖巻十二神話は、八か所を綴じておりますね」
アランのほうが詳しい。さすがに、教会に出入りしている業者だけはあるな。
「そんな時間はないし、今から作る本は高級なものではないからなぁ」
「では、どうでしょう? 乱暴ですが釘で二か所に穴を開け、そこに紐を通して、後は布をノリで貼り付けて隠すというのは?」
「それなら簡単そうだわ」
「では、綴じ布を別で用意いたしましょう。お代は」
「売上に応じてで。本当に私たちはお金がないんだ」
「わかりました。出世払いといたしましょう。世界で初めての本を売るのです。やってみないと分からないこともあるでしょうね」
アランは笑っている。
◇
その後は地獄だった。書写地獄と翻訳地獄だ。
腕が折れんばかりに書き続けた。
キノの指摘は急に細かくなってきたが、満足いくまで付き合うしかない。中途半端な本を出版することを許さないだろう。
その思いは私も一緒だ。
だんだん、キノを救いたいという思いから、この本を世に出してみたいという思いに私も変わってきている。
みんなにこの本を読まれることを考えると、少し恥ずかしさと誇らしさがある。間違いを笑われるような本になってはいけない気がする。
修正はギリギリまで続いた。書写士の仕事のほうがまだ楽かもしれない。
製本については、アランが部下を寄越して、何も書いてない紙を使って何回か実験を行い、満足できるものができた。
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