第5話 仮刷

「まじか?」


 ぴしゃりと私は額を叩いた。

 ここまでくると、幼馴染として頼られているのか、共犯者にしようとしているのか、区別がつかなくなってくる。どうも、キノはナチュラルに私を巻き込む気、満々のご様子だ。


「私が、教会から聖巻十二神話の書写を命じられているからって、そう気安く貸すと思う?」

「利益の折半でどう?」

「乗るわ」


 全部売れたら千五百ギル。その半分で七百五十ギル。

 死体五十人分。

 私の頭の中で死体が狂喜乱舞している。


「でも、待って? この街で商売をするということは、商人ギルドに入らないといけないでしょ? そのお金は? 割と高いのよ?」

「そこは心配していない。リリカも高札を見ただろ? あれだ」

「……市民バザールのこと? ああ、なるほど」


 市民バザール。

 先日、今年新しく教会本部から赴任してきた正司祭さまが、市民交流を目的に三カ月に一度、大聖堂の前の広場を解放し、自由に売買をしても良いという高札が出たばかりだ。


 商人ギルドにお金を払うことなく、教会前をカレンドリア市民が自由に一日だけ商売に使ってよいというのだ。もちろん、盗品売買や売春は禁止されている。

 商人ギルドもこのバザールを後押ししてくれている。庶民たちの中で、商売に目覚める者がいれば、商人ギルドに入りたがるという目論見があるらしい。それに四年に一度、商人ギルド主催の「大バザール」は大聖堂前の広場を借りている。教会の申し入れを無碍には断れないだろう。

 

 その初めての市民バザールは二か月後だ。

 

「やれるの? こんな短期間で?」

「リリカ。やれるかやれないかは、後で考えよう」

「え、先に考えようよ?」

「いいか、リリカ。やれるやれないより、重要なことがある」


 キノはすぅっと息を吸って呼吸を整えた。


「リリカ。やりたいか、やりたくないか。どっちだ?」


 決まった。

 千載一遇のチャンスが目の前に転がっているんだ。やりたくないわけがない。


「で、どうすんの? どうやって、この薄紙を作ればいいの?」

「それなんだが、恐らく、これは、この紙なんだと思う」


 それは透き通った茶色の紙だった。油が塗られている。


「この円筒に貼り付けられていた紙は、この油紙だと思うんだ」


 元々貼られていた薄紙は、インクによって真っ黒だが、インクが塗られていない紙の縁は、確かに油紙の色に似ている。


「これにどうやって文字を?」

「それは、この道具なんだと思う」


 キノは机の上に出した石板を指さした。


「わからないんだけど」

「多分だけど、石板に紙を敷いて、この錐でなんか書いてみて?」


 ざらざらの石板の上に、キノは油紙を置き、私に小さな錐を出した。

 すっと線を引くと、そこが白くなる。


「あ、白くなった」

「白くなったところは、油紙に傷がついた状態になった。これを円筒に貼り付けると、円筒に塗られたインクが滲んで、外側に出てくるから、紙に文字が写るんだ。試してみる?」


 早速キノが線を一本だけ引いた紙を円筒に貼り付けようとするのを止めた。


「まてまて。もったいない。練習用なんだから、もっと、何か描こう」


 私は紙を取り返して、絵を描いた。

 ふんぞり返って偉そうにしているベラスケス副司祭の顔だ。むすっとしている顔だ。


「ははは。副司祭だろ? 上手だな」

「でしょ? 学校でみんな陰で悪口言ってたよね」


 ベラスケス副司祭は細かいことで有名だ。

 何かというと、すぐに文句を言ってくる。


「怒鳴る直前のむすっとした顔か。うまいもんだ」

「ところで、聖巻十二神話のどれを書くつもり?」


 聖巻十二神話は、十二冊の本で一セットだ。

 それぞれの本には一人の神の話が書かれてある。どれも短い話をまとめたものだ。それぞれの話に、別の神も登場することがあるが、あくまでも主人公は、一人の神である。短編も中編もごちゃまぜだが、それぞれの神の特徴がよく出ている話だ。

 そして最後の話は、みな同じテーマで話されている。それぞれの神の視点で、同じ話を描くという、面白い内容になっていた。神と人間の関わりに関する物語が、共通するとある事件を通して語られ、それまで人間とともに暮らしていた神が、天界に旅立つ理由がわかる仕掛けだ。


「最初は『大神アスケディラス』で」

「アスケディラスか……。まあ最初だから仕方がないか」


 私は余白に「アスケディラス」と書いた。

 本音で言えば、アスケディラスより、青春神オラステリアや冒険神ペラルキラスのほうが、面白い気もする。


「もう少し、はっきりと書いたほうがいいんじゃないかな?」

「そう?」


 もう一度、今度は深く刻み込むように「大神アスケディラス」と書いてみた。


「相変わらず、字がうまいな。リリカは」

「そうかな?」


 まあ、我ながら自信はある。神官試験でも、字で落第をしたことはない。

 きれいな字が書けるようになるまで神官見習いたちは、何度も何度も練習させられる。キノもかなり矯正させられたほうだ。


「よし、これで刷ってみよう」


 キノが紙を円筒に巻き付ける。

 何回か回して慣らした後、白い紙を入れた。


「ほら。……あれ?」

「あ、裏表反対か」


 油紙を貼る方向を間違えたらしい。

 よく考えて貼らないと、文字が逆さまになって出てくる。


「だけど、不思議なことにベラスケス副司祭の顔は、よりそれっぽくなったな」

「ほんとだ。不思議だね」


 神の中央にうんざりした中年の男の顔がはっきりと出ていた。

 さっきまで不思議な機械だったが、原理が分かれば、ただの機械だな。不思議な部分がほとんどない。


「それと、ここ、字が潰れている」

「どれどれ?」


 文字の一部が潰れてしまっていた。それも何ヶ所もだ。どれも同じ字だった。

 そこは、ちょうど字が繋がる場所だ。


「強すぎると、白丸黒丸になっちゃうな。そうか。繋がって紙が抜けちゃうのか」

「弱めに書くと、こっちみたいに、インクが出てこないから難しいね」


 最初に書いた箇所はうっすらと文字が読める程度だ。


「なるべく線が繋がらないように文字を書こう。こんな風に」


 この国の文字は全部で五十七字。

 完全につながる文字は、十九字。

 そのひとつひとつを、キノは線が繋がらないように離して書いた。


「これなら、繋がってしまう危険はない。できるだろ?」


 まあ、面倒だができなくもない方法だ。


「よし、練習は終わりだ。聖巻十二神話、大神アスケディラスの物語を書き写そう」


 そう言って、机の真ん中に本を置いた。

 何故か、この部屋でやる前提になっている。


「私の部屋でやるつもり?」

「だめか? だがそこの廊下でやるのは、君の両親が嫌がると思う」

「いや、うちの廊下は論外として、キノの部屋じゃダメなの?」

「あそこは小さくて狭い」

「寝るところがあれば十分でしょ?」

「寝るところしかないんだ。これを広げたら、入ることもできなくなる」


 ……仕方がない。この部屋を提供することにしよう。


「じゃあ、私が左のページで、キノが右のページを書く?」

「それだと、本にした時におかしくなる。最終的に、本を作るには、一枚の紙を真ん中で折る形にしたい」

「なんで? めんどうじゃん?」

「次のページを作れるし、このインク、どうやら時間が経つと紙に滲んでくるから、裏表に刷ることは難しい」


 裏返すと、紙が油で汚れている。


「じゃあ、どうするの?」

「一枚の紙に、一人が1ページ目と2ページ目を書く。そして折って使う」

「じゃあ、もう一人が3ページ目と4ページ目?」

「その方法でやってみよう。翻訳しながらだから、どうしても現代文字にすると、長くなったり短くなったりするから、余白を十分にとって書こう」

「ああ、そうだった。神代文字を現代文字に書き換えないといけないわね」


 これはどうも神経を使う作業になりそうだ。

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