蜂蜜の皿
十戸
蜂蜜の皿
崩れかけた足元の土。
草は濡れ、地面はぬかるんでいた。
(雨が降っている)
その日、少年は空を見上げながら一心に駆けていた。目のなかに雨粒が入りこもうと、瞬きすらせずに。
頭上の空は灰色に煙っている。雲間に鈍く光る太陽を背に、ときおり覗く光の切れ端を、彼は懸命に追いかけていた。
水を吸った草と土の甘い匂いが、鼻先を掠めては過ぎる。
彼はすっかり息の切れた胸をいじめながら、夢中で走っていった。何度も何度も、頼りない子供の足が泥にすくわれては傾ぐ。
踏みしだかれた草たちは音にはならない抗議の声を上げ、彼のすり減った不恰好な靴底をよけいに滑らせるのだった。
それでも彼は両脚を動かし続ける、止めることなど思いもよらずに。
(虹を追いかけていた)
急がなくては、あのこが他所へ行ってしまう。
物心のついたころから一緒に遊んでいたこだった。そのこが、夕暮れにはもう遠い町へ行くのだという。
行けば、もう戻ってはこない。
彼は歯を食いしばりながら駆ける。
早くしなければ。
じき日が暮れてしまう。
少年は、走った。
虹をめがけて、虹を生む黄金の一皿を探して。
《知っている?
虹の根元には一枚の、金色のお皿があってね、虹というのは、そこから生えるものなのよ。
そのお皿は王さまの冠よりも価値があって、どんな宝物よりきれいで、花より甘い匂いがするんですって。
だけど、見つけようとして探しちゃいけないの》
(それは忘れたとき、思いもかけないとき、行きずりの道端にこそ現れる。
濡れた地面のかたわらに、風にゆれる草原の中央に)
探していては見つからない。
決して、決して。
それを求めてはいけない。
黄金の皿は神の皿。
(それを手にしたものは神のように幸福になれる)
水を吸った草と土の、甘い匂い。
彼はふと、自分の背後に沈む赤い太陽を振り返った。
あれからどれだけ経っただろう。
それはいつだったかも思い出せないほど昔のこと。
眼下には灰色に煙る工場街。ほの暗い煙突の先から、重たい雲がひっきりなしに吐き出されては空を汚す。
彼はすっかり大人になって、もう虹を追いかけることもない。
背が伸び、視点が変わるにつれ、彼の周りの風景は少しずつ変化していった。
緑一面の田舎から、錆びついた煙突たちの群れへと。
かつて身近にあった美しいものは知らぬ間に姿を消し、偽者のつくりものたちが、我が物顔でそこかしこを歩き回るようになった。
どれもこれも莫迦々々しい紛い物ばかりが。
もはや懐かしいものは何一つ。
(いや)
変わらないものもあった。残っているものも。
そこに空がある。
足元には地面。
そしてこの自分。
《探していては見つからない》
耳の奥底にいまでも響く、顔も思い出せない少女の声を聴きながら。
あの日の自分はいまでもそこに。
探している、追いかけ続けていた、雲の切れ間に垣間見える七色の柱の、その根元に。
黄金の一皿を。
目を閉じる。
鼻先を掠めて過ぎる、水を吸った草の甘い匂い。
濡れている足元の土。ぬかるんだ泥土に靴は半ば沈んで。
頭上には、灰色の風景を背負って美しく輝く虹。
見送りにすら行けなかった。
日が沈み、夜が訪れ、真っ暗な道を泣きながら帰った。
すり傷だらけの脚を引きずって。
湿って重たくなった思い出の断片。
《どんな形をしているんだろう……ねえ、いつか、二人のうちどちらかが見つけたら》
あたりの光が、少しずつ乏しくなっていく。
日が暮れようとしていた。
彼女は見つけられただろうか? あの
蜂蜜の皿 十戸 @dixporte
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