第3話 海紅商事の秘書室

 美しいビルが立ち並ぶオフィス街の一角に、ひときわオシャレで目を引く洗練されたオフィスビルがある。


 ビジネスマンが一度はここで働いてみたいと思うこのビルは、3年前に建て替えられたばかりの海紅商事の本社ビルの建物だ。


 人気デザイナーの設計で建てられたこのビルの一番高い部分は15階建てになっており、屋上には2台分のヘリポートがある。

 建物の周りには、十分なスペースが取られており、玄関前には公園のように木が植えられ、ベンチも設置されていた。


 世界中に支社を持ち、世界経済にも影響を与えるような商談をいくつも取り扱う海紅商事の本社ビルの玄関前には、外国人も含めた沢山の人々が行き交っていた。

 

 海紅商事は創始者である吉良総一郎が明治時代に造った会社で、元々は小さな油屋だったが、明治になって総一郎が商才を発揮し、あっという間に世界中と交易をするような商事会社に成長させた……と、会社説明には書かれている。

 しかし、それは実態と少々異なる。

 実は、この海紅、世界で暗躍する吉良3Sスリーエス(SSS:スペシャルシークレットサービスの略)の隠れ蓑として設立された会社なのだ。

 

 もちろん、一般社員はその事実を知らず、普通の商事会社としてもちゃんと機能している。


 ~~*~~


 海紅商事本社ビルの12階部分に秘書課の部屋がある。


 秘書課に配属された新入社員の吉良きら直美なおみは、時折、長く艶のある美しいストレートの髪に触れながら、退屈そうにパソコンの画面を見つめていた。


 直美は、小さな可愛い顔を時々左右に動かし、大きくぱっちりした瞳で同じ部屋に居る先輩社員たちの様子を伺う。

 新人の直美には特に割り当てられている仕事もなく、時間をもてあましている様子だ。


 直美の配属されたのは役員及び海外事業部専任の秘書室で、他の秘書室と比べて業務が多いと言われており、他の先輩秘書たちは黙々と忙しそうにパソコンで作業をしている。


 直美の教育係である坂本さかもと紀子のりこは自分の作業をしながら、退屈そうにしている直美の様子が気になって、何度か横目で様子を伺っていた。


「退屈?」

 紀子が声を掛けた。

 直美が少しビクンとし、紀子の方を見る。

 紀子は手元の資料から目を離し、直美を見て少し微笑む。


「あ……い、いえ」

 直美は少し恥ずかしそうに返事をした。

 そんな直美に紀子は優しく言う。

「今日は社長も結局こっちに来ないで自宅に帰っちゃったし、重役の方々もお留守だから暇よね」

「はい……」

 直美は少しはにかみながら、紀子に同意する返事をした。


 直美は、この海紅商事の現在の社長である吉良隆男の娘だった。

 つまり直美はそのコネでこの会社に入社したのだが、一般社員にその事は伏せられており、秘書課でもその事実を知るのは一部の者達だけだ。


 直美の教育係である坂本紀子は、その事を知らされているメンバーの一人であり、普段から何かと問題が無いように直美を気遣ってくれている。


「特に緊急なこともないし、……お茶にしましょうか? 直美ちゃん、みんなにお茶をいれてくれる?」

 優しい声で紀子がそう言うと、直美はぱあっと顔を明るくし喜んで「はい!」と元気に返事し席を立った。

 秘書課の先輩達は皆、そのいさぎよい返事の返し方に微笑んだ。



「どうぞ」

 直美は秘書らしく、ひとりひとりに丁寧に珈琲カップを届け、それからお客さんが土産として、持って来てくれたお菓子を配る。


「社長たち……何かあったのかな?」

 秘書室に少し和んだ空気が流れ、男性の一人が言葉を発した。


「そうよね。急に予定を変更して自宅に帰られるなんて、どうしたのかしらね?」

 女性の一人が言った。


 直美はお盆を片付けながら聞き耳を立てている。


「なにかトラブルでもあったのかしら……」

「いや、トラブルじゃないよ」

 秘書課の室長である大麦おおむぎまことが、にこやかな顔で声を上げた。


「突然、自宅の方に客が来ることになって戻られただけなんだ」

 大麦がそう言うと、皆、納得したように首を縦に動かす。


 直美と大麦の視線が、何かを確認し合う様にほんの少し交差したが、その事には誰も気がつかなかった。



 お茶の後、直美は紀子から資料整理の仕事を貰うことが出来たので、直美はしばらくその仕事に没頭していた。


 秘書課の全員が自分の仕事に没頭していて、静かなその場所に男性社員がひとりやって来た。

「すみません、お邪魔します」

 その男性はそう言い、秘書室の中に入って来る。


「原田課長! どうかされましたか?」

 女性秘書達は男性社員の顔を見ると口々にそう言い、腰を上げた。


 彼女達の美しい顔は、その男が現れた事で、更に美しく輝いたように見える。


 原田と呼ばれた男は女性達ににこやかに会釈し、室長の席の前まで足を進めた。

 原田が自分のところに来ると、室長の大麦は立ち上がり上着のボタンを留める。

 原田は大麦の目を見て話し始めた。

「忙しいところ大変申し訳ないのですが、ちょっと吉良さんをお借りして良いですか?」


 秘書室の女性達は皆、えっ? という顔をし、そして直美の方を見た。


「これから社長と合流してお客様との交渉に入るのですが、多言語に対応できる吉良さんを同行させるようにと、社長から指示がありまして」


「ああ……そうですか……」

 室長の大麦は頷き、そして直美の方を見た。

「吉良さん、すぐに出る仕度したくしなさい」

「あ、はい!」

 直美は少し戸惑いながらも慌てて返事をして立ち上がる。


「じゃあ準備が終わったら、1階に降りて来てくれるかな?」

 原田が直美に優しい微笑みを見せて言う。

 直美はもう一度、「はい」と答える。

「下でまっていますね」

 原田はそう言い、美人秘書達に見送られて秘書室を出た。


「さ、早く準備して」

 少し戸惑っている様子の直美に、先輩らしく坂本紀子が言った。


 その声に促され、直美は手早くついたての後ろにあるロッカーに鞄を取りに行く。秘書課の先輩達は、直美を羨ましそうにじっと睨んでいた。

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