無明法性
第21話 悪鬼憑き
高原の湖は、空の色を映して青く輝いていた。周囲には色とりどりの花が咲き乱れ、夢のような景色が広がっている。はるか頭上で白い雲がゆったりと伸びて尾を引いていた。
「きれい」
うっとりと呟くリテの髪が、風に流されて揺れている。
そう言うリテの方がきれいだ、と伝えるのはさすがに恥ずかしくて、ミナトはこっそり微笑んだ。
しばらく景色に見入っていたリテが、感動した面持ちでミナトを振り返った。
「本当にきれいな場所。ありがとう、連れてきてくれて」
「喜んでもらえて良かった」
言って、ミナトは苦笑する。
「本当は皆みたいに、結婚するより前に来られたら良かったんだけど。俺のせいで遅くなっちゃったな」
ううん、とリテが首を振る。
「私、こんなふうに愛している人と二人きりでお出かけすることがあるなんて、思ってもみなかった。自分は、こういう事は経験しないで生きていくものだと思っていたから」
「あー、そう」
頬を掻いてそっぽを向いたミナトの顔を、リテがのぞき込む。
「照れた?」
ミナトはとっさに反応できず、口をぱくぱくさせた。リテが笑い声をあげる。
「いいのかなあ、巫子がそんなふうにからかって」
だって、と言いながらも、リテはなかなか笑いがおさまらないらしく、肩を震わせている。
「そんなに笑わなくても」
「ごめんなさい。今のミナトの顔が、結婚を申し込まれた時と同じだったから、思い出しちゃって」
ああ、とミナトは苦い顔をする。
「ミナトってば、小刀を贈るのが結婚の申し込みになるって知らなかったのよね。私が小刀を返そうとした時にも、今みたいな顔をして、いらないって言ってくれたわ」
「頼むからもう忘れてくれ。彫刻が完成するまで本当に誰も教えてくれなかったんだ」
同年代の仲間たちは皆、ミナトが小刀を贈る意味を知らないことを分かっていて、あえて黙っていたらしい。婚約の報告をした時の彼らの喜びようといったらなかった。大の男たちが、床を叩きひっくり返って、大笑いしていた。
ちなみにユテルはミナトが意味を知った上で彫刻していると思い込んでいたらしい。思い返せばユテルがそれらしい事を言っていたのだが、ミナトのほうが、ユテルにリテとの仲を冷やかされることに慣れすぎて気に留めていなかったのだ。
「私たちの結婚式、ホタさんにも見てもらいたかったな」
ミナトはうなずいた。
トヨが出産し、ホタが亡くなってから、もうじき季節がひと巡りしようとしていた。
男も女も村の皆から教えられ、今ではミナトも、村の男たちに混じって年相応に働けるようになってきている。
「もうホタさんには会えないけどさ。でも、ずっと一緒にいるよ。いつも一緒に生きてるって感じがする」
「そうね。ホタさんは、今もミナトの中にいるわね」
あら、とリテが声を出した。その視線の先を追うと、森の陰に何か黒いものがいた。
「熊か」
とミナトは呟く。
「蟻を食べに出て来たのかな」
「お邪魔しちゃってごめんなさい!」
リテは遠くにいる熊に呼びかけながら手を振った。
熊は普段、人を避けて生活しているから、この熊も二人を見つけて森へ戻っていくはずだった。しかし熊はそこから動かないで、ミナトたちをじっと観察している。もしかしたら好奇心旺盛な若い熊なのかもしれない。
「仕方ない。一度ここから離れよう」
二人は交互に熊に注意を向けながら、そっと反対の森に向かって歩き始めた。
「ミナト!」
リテの鋭い声に背後を振り返って、ミナトはぎょっとした。熊がこちらに向かって走ってきている。
まだ経験の浅いミナトだが、威嚇のための突進ではないらしいと直感で悟った。あれはおそらく、二人を獲物として見ている。
「あいつ、
ミナトは荷物を捨て、弓矢だけを背負ってリテと共に森に向かって駆け出した。
獣はたいてい、自分より背丈が大きい人間を怖がって、自分から近寄ってくることはしない。戦うのは狩りで追いつめられた時だけだ。
しかしまれに人を襲うことを覚えてしまった獣がいて、そういう獣を悪鬼憑きと呼んでいた。ユテルや狩猟仲間から話は聞いていたが、実際に会うのは初めてだった。
「先に登って!」
木の上にリテを押し上げ、自分も幹の間に乗り上げると、ミナトは矢筒を振って音を立てながら叫んだ。
「こちらへ来るな!今はお前の体を受け取るつもりはない!」
それでも止まらない熊に舌打ちして、弓に矢をつがえる。放った矢は、びょうっと音をたてて飛んで、熊の肩をかすめた。
しかし熊は痛みを感じていないかのように何の反応も見せず、二人がいる木の下まで突進してくる。
「ミナト、そこじゃ危ない!もっと上まで来て!」
リテが叫ぶが、きっと今からでは熊が木に登ってくるほうが早い。ミナトはぎりぎりまで弓を引き絞って、熊の眉間に狙いを定めた。
―――後にはより良き所に生まれんことをお祈り申し上げる!
心で唱えて、矢を放ったその時。
ミナトの矢よりも一瞬早く、真横から飛んできた別の矢が、深々と熊の首に突き刺さった。
首と目、両方に矢を受けた熊は、もんどりうって苦しみながら、湖のほうへ駆けてゆく。その足取りは見る間におぼつかなくなり、やがて熊はどうっと倒れて動かなくなった。
フルナにもらった痺れ薬のせいだと考えるには、効果が出るのが早すぎる。もう一本の矢に即効性の毒が塗ってあったのだろう。
ミナトは木から飛び降りた。
リテが降りるのを助けて、矢が飛んできた方向を探すと、木々の間に一人の男が弓を手にして立っていた。その男の周囲にも、草木に隠れるようにして少なくはない数の人影が見えている。
「シャラの服」
リテが呟くのを聞いて、ミナトは驚き、改めて男の服装を見た。
頭の上で団子に結った髪を布の帽子で覆い、革の帯から反りのない長い刀を吊っている。羽織には脇腹から膝下までの長い切れ込みが入っており、襟はまるく首を囲っていた。
エナの家で見せられた、ミナトが着ていたという服によく似ている。おそらく同じものだ。
しばし無言で男と見合った後、ミナトは両手を合わせ、リテと共に男に向かって頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございました」
男は木の根を乗り越えて、ミナトたちの方へ近づいてきた。
「助けは不要だったか」
「いいえ。自分たちだけでは無傷では済みませんでした。ありがとうございます」
無理にでも微笑むと、男は驚いたように立ちどまった。ミナトの頭からつま先まで全身を眺めて、もう一度ミナトの顔を見る。
「シャクラ?」
信じられない、という様子で男が言った。ミナトは眉をひそめる。知らない言葉だったが、それが人の名前だということは分かった。
「何も覚えていないのか」
「何もって」
ミナトははっとした。
「俺のことを何か知っているんですか。シャクラというのは俺の名前ですか」
男はそれには答えず、ちらとミナトの斜め後ろに立つリテを見た。
「その女は」
「俺の、妻です」
戸惑いながらも答えると、男は「妻か」と面白がるように言って、もう一度ミナトの姿を眺めた。
「どうやら山奥で生活してるうちに随分と変わったらしい。まさかこうして再び会うとは思っていなかったが。無事で何よりだ、シャクラ」
そう言って、男は初めて柔らかく微笑んだ。
「あなたは」
男の変化に驚きつつ、ミナトは尋ねる。
「私はナムジ。お前の兄だ」
パドマの森のまれびと 藍 @indigoblue222
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