いつか好きになるその日まで。

花麓 宵

続きはまたいつか。

 ある秋の週末、午前9時頃、寝室で目を覚ます。


 週末といえば昼過ぎまで寝ているのが常だったのに、この生活を始めてからというものの、毎朝健康的に目が覚めてしまう。欠伸あくびをしながらも起き上がると、隣のベッドで寝ていた恭弥きょうやが「う……」と呻く。


「おはよう」

「……おはよ」


 でも、寝起きは私よりも格段に良い。起き上がるとすぐにカーテンを開けて太陽光を取り入れ「今日、暑そうだな」と呟き、そこでようやく背伸びをする。そのまま「最高気温、何度?」「25度だって」と短いやりとりをして、私もベッドから這い出た。


 着替えを終えた後、ダイニングテーブルで向かい合って食パンを齧る。私はバター、恭弥はジャムを塗り、私はコーヒー、恭弥は牛乳を飲む。


「お昼、どうする?」


 買い物行かないと、冷蔵庫空っぽだったよ、そう言いながら恭弥が冷蔵庫に視線を遣った。


「……たまには外で食べない? その帰りに買い物に行くってことで」

「あー、賛成」


 午後、一緒に玄関を出ると、想定していたよりも日差しが強く、気温も高かった。秋服をとニットを出したのだけれど、どうやら今日には合わなかったらしい。


「……服装ミスったかも」

「着替えるなら待つよ」

「……うーん、いや、いい、面倒くさい」


 そう言ったものの、歩き始めてすぐ、じんわりと首筋が熱を帯び始めた。やっぱり待ってもらえばよかった、内心でそう呟いた。


「なに食べたい気分?」

「んー……なんでもいいんだけど、スパイシーなものとか」

「あ、それなら三国みくにが話してた美味うまいインドカレーの店があった気がする」

英凜えりが美味しいお店知ってるなんて、意外」


 グーグルマップを確認する恭弥の隣で、つい眉を吊り上げてしまう。その友達は食事なんて栄養が取れればなんでもいいとでも言い放ちそうなくらい、食に関心がないイメージだった。恭弥も「ま、アイツ、普段は完全栄養食で済ませるタイプだよな」なんて頷く。


「でも美味い飯はそれはそれで好き。あと知ってる絶対数が少ないんだよな、気に入った店にずっと通うから」

「あー、それはそうなのかも。気に入ってるお店が3、4店舗あって、平日5日間はそれをずっとローテーションしてるってイメージ」

「そうそう、そんな感じ。ああ、あれだ」


 目的のインドカレー屋を発見したらしく、恭弥が一角を指さす。小ぢんまりとしたお店の横に6、7人程度、お行儀よく並んでいる人達が見えた。並びながら、恭弥は時間を確認する。


「そろそろ一巡目が出てくるタイミングかな」

「だったらそんなに待たずに済みそうだね」

「だな。そういえば鈴花すずか、なんか話あるっていってなかったっけ」

「話?」


 なんだっけ、そう首を傾げて「ほら、昨日の夜……」と促されて思い出した。そういえばそんなこともあった。


「話があるってほどじゃないよ。クライアントが我儘でムカつくなあって愚痴」

「ああ、そういう」

「客商売だから仕方ないとは分かってるんだけどね。その点いいな、お役所は変な客がいなくて」

「代わりにお役所には変な上司がいるからな」

「それはそうかも」


 ふと、前方からやってくる人に目を留めてしまった。正確には、その人ではなく、その人が片手に持つミセス・ドーナツの袋だ。


「どうしたの」

「ああ、ううん」


 思い出し苦笑いをしてしまった後で、視線を外す。


「ミセス・ドーナツってモーニングやってるじゃん。11時までだったかな」

「え、そうなんだ。今度行こ」

「うちの近くにないじゃん。大学のときは家の近くにあってさ、たまに元カレ日野くんとモーニングに行ってたんだよね。……たまたま混んでて、お店に入ったのは11時前だったけど、並んでるうちに11時を過ぎたときに、日野くんが店員に聞こえるように『できる店員は客が入った時間で判断するんだよな』ってアピールを……」

「ぶっ」


 日野くんの話を散々聞いたことのある恭弥にとっては意外でもなんでもないエピソードだろうけれど、それでも恭弥は吹き出した。


「恥ずかしかったなあ……って、ミセス・ドーナツ見るとたまに思い出す」

「そんな彼氏と付き合ってる鈴花すずかが悪い」

「やめてください」


 口を尖らせながら、前の人から回されてきたメニューを受け取った。


「……カップルセットいいな」

「カップルじゃないと頼めないんじゃないの、これ」

「俺達もカップルじゃん」

「二人一組でなく恋人って意味のカップルなのは自明なので、私達が頼んだら詐欺ですね」

「お得なんだけどなあ」


 仕方ない、苦笑いしながら、恭弥は「このポロッタってやつ気になる、これにしようかな」とナン代わりの謎の物体とカレーとドリンクがセットになったシンプルなものを選ぶ。


「あとは本日のカレーを聞いてから決めるってことで。鈴花は?」

「レディースセット。ナンが無料でチーズナンになるから」

「狡い」

「半分分けてあげるよ」

「嬉しい」

「私も、カレーは本日のカレー聞いてからかな」


 そのまま、恭弥がさりげなくメニューを引き取って後ろに回す。


「飯食ったら買い物行って、それから?」

「それから――……今日は何見ようか。有名どころはあらかた見た気がするんだよね」

「だよなあ。あ、でも『Everything is nowhere』の続編が配信されてた気がする」

「じゃあそれ見よっか」


 私達の日常――『金曜日の夜になると恭弥が私の家にやってきて、一緒に夕食を食べて、泊まって、土日の一方はダラダラとお喋りをして、一方はサブスクで映画を見て、月曜日の朝、揃って出勤する』。


 英凜ともだちはそれを「週末婚か、半同棲?」と表現した。実際、私達の日常はそれに近い。


 ただ世間のそれと決定的に違う点は、私達の関係が恋人ではないことだ。






 恭弥とは、英凜えりの紹介で出会った。


 就職して3、4ヶ月経った頃、弁護士仲間達と飲み会をしているときに、中原なかはらが「ワカ、最近何か面白いことないん」なんて雑な話の振り方をしてきたことがきっかけだった。


「んー……最近、婚活4回やって惨敗ざんぱいした」

「は?」

「え?」


 婚活? 中原本人どころか、マイペースの代名詞である朽葉くちばさえ頓狂な声を上げたし、いつも無表情の英凜さえ驚いて目を丸くした。


「鈴花、婚活してるの」

「もうやめたんだけどね」

「いつやってたの、それ。黒田と別れたのって……1月だよね?」


 元カレという名の同期の名前を挙げられ「4月からやってた」と答えると、中原に「ちゃんと喪に服したんやな」と茶化された。


「それで、婚活に惨敗とは、具体的にどういう」

「学歴と年収と職業で引かれてノーマッチング」

「ああ、なるほど……」


 あるあるだね、と同じ女性の英凜はオレンジジュースを飲みながら頷く。


「弁護士っていうと、男はいい顔しないことが多いもんね」

「そうなの?」

「そうだよ」


 きょとんと目を丸くする朽葉をキッと睨みつけてしまった。


「三段論法ならぬ三段ドン引きをされるわけだよ。まず学歴、次に職業、最後に年収」

「学歴、なにがあかんのん。浪速大うちって高くもなく低くもない微妙な位置やと思ってんねんけど」


 私と同じ浪速なにわ大学出身の中原はそんなことを言うけれど、残念ながらそうではない。もったいぶりながら首を横に振った。


「大抵の婚活参加者より高いんだよ、これは。残念ながら世間的には高学歴です」

「高学歴じゃだめなの? というか、学歴はどうでもいいから、俺は学のある人がいい」

「それは朽葉自身がドのつくエリートだからさあ……」


 目の前に座っている東大出身男女2人組をつい睨みつける。特に、英凜は田舎の名もなき高校出身である一方で、朽葉は都内随一の男子校出身だ。冗談抜きで、日本国内で最も優秀と評される経歴の持ち主なのだ、そんな朽葉がパートナーの経歴に“高すぎる”とケチをつけることはない。


「……まあ、できすぎる女はよくないって男は一定数いるよね。昔、先輩も言ってた」

「だよねえ」

「それやったら、自分よりできる男と付き合えば解決やん。三国か朽葉に紹介してもらってさ」

「えー、してくれるならしてほしい。だって英凜か朽葉の知り合いなら絶対エリートじゃん」

「誰かいる?」


 思い当たる男がいない、そう言いたげな英凜に対し、朽葉が「そういえば、神崎こうざきが誰か紹介してほしいって言ってるんじゃなかったっけ」とまるでちょうどいいかのように英凜を指さした。


「ああ、そういえば、先月会ったときも言ってた」

「誰、神崎って」

「大学の同期。財務省にいるから、鈴花の経歴に文句をつけないって意味では婚活市場の男よりは価値が高い男だと思う」

「それはそれは、大変ご優秀なことで……」


 なんならそんな男は世間的に見ても価値が高い男だ。それだというのにこの物言い、周りの男がハイスペばかりの英凜も、もし万が一婚活をすることになれば苦労するに違いない。


「鈴花、メンクイだよね。神崎はイケメンらしいからいいんじゃない」

「らしいってなに、英凜の知り合いでもあるんじゃないの」

「私は平均的な顔としか思わないから」

「三国、元カレがイケメン過ぎてセンサーぶっ壊れてるんだよな」


 さらっと禁句タブーを口にした朽葉の前で、私と中原は黙ってグラスを口に運ぶしかなかった。美人な英凜にはなぜか彼氏がいない、その原因はどうやら元カレが見た目も中身もイケメン過ぎたかららしい(実際、うっかり見てしまった写真の元カレは私が知る男の中で誰よりもイケメンだった)、というのが私達同期の共通認識だ。そして英凜がいまだにその元カレを引きずっているらしい、ということも。だから軽々しくその話題を口に出すことはできない。


 元カレ、か――。私もつい、大学生のときの元カレを思い出す。日野ひのくんも、いまは東京で働いている。でも、大手町を歩いているときにばったり――なんてドラマは残念・・なが・・転がっておらず、別れて以来、私は日野くんと会ったことはない。


「……本当に神崎なんかでいいなら紹介するけど」

「なんかって、めちゃくちゃ好条件だと思うけど」

「しかもイケメンて、高収入、高身長、高学歴の三高やろ。あ、身長は?」

「俺と同じくらいかな」

「三高やん」

「でもしょせん国家公務員だし、私達より年収低いよ」

「そういうことじゃない、英凜、別に高収入じゃなくていい! 私の年収に文句をつけないでいてくれれば!」

「じゃ、いいよ、連絡してみる。どっかの土日の、昼が気軽でいいよね」


 男を紹介するという場面なのに、英凜はまるで仕事のようにてきぱきと、そして淡々と、早速件くだんの神崎くんに連絡を取り始め……、あれよあれよという間に、「神崎恭弥に若竹鈴花を紹介する会」が開催された。


 神崎恭弥は、端的にハイスペのイケメンだった。英凜と朽葉の同期なので当然のことながら東大卒、財務省勤務、その内実も留学させるならお前だと上司からも目をかけられている有能っぷり。超高身長とは言わないけれど、大抵の女性の隣を歩いてもさまになる178センチで体も太すぎず細すぎず。顔もイケメンで、それでもって笑うと少年っぽくて可愛い。「平均的な顔としか思わない」という英凜のイケメンセンサーがぶっ壊れていて修理の施しようもないことが分かった。


 なによりその神崎恭弥について大事なのは、気が合うということだ。仕事の話から漫画の話まで、お互いに話が通じやすいし、趣味も合う。結果、紹介された日の次の日以後、朝起きた後、昼休み、仕事を終えてから寝るまで、気遣うことなく延々とLINEで雑談をして盛り上がっている。会わずともその有様だから、3回目に会ったときなんて、一緒に映画を見て食事をして、映画の感想を話しているうちにラストオーダーの時間が来てしまった、そんな有様だった。


 顔が良い、スペックが高い、趣味も合うし気も合う――あまりにも完璧すぎる。神崎くんと3度目の顔合わせを済ませた次の週、英凜にそう感謝した。


「本当に、あまりにも完璧な男を紹介してもらった。ありがとう」

「私は紹介しただけだから。でも、じゃあ付き合うの?」


 他意も何もない、まるで事務手続のような口調だったけれど「う……」と詰まってしまった。


「……すごく気が合ってるのは認める」

「だよね、私、神崎とそんなに長々とLINEなんかしないし。相当気が合うんだろうね」

「……でも、好きになるかどうかは、別だよね……」

「それはそうね」

「……とはいえ神崎くんが私でいいって思うなら拒絶する理由はひとつもないんだけど」

「好きじゃない、っていうのも理由のひとつじゃない」


 英凜は合理主義者で、あまり感情を理由に行動を決めないイメージがあった。そんな英凜から、そんなことを言われるとは思いもしなかった。


「……でも、私達、もういい大人だし。これから先、“好き”になるほど相手のことを知ってから付き合う機会ってないんじゃないかなって」

「この年で恋人がほしいなら“好き”じゃなくても付き合うしかないし、付き合ってるうちに“好き”になれれば御の字くらいのスタンスでいるべきってこと?」

「簡単にいうとそう」

「でも、好きじゃない相手と付き合っても上手くいかないよね」


 ……英凜がそうなのかもしれない。ケーキスタンドのスコーンに手を伸ばす英凜の綺麗な横顔をじっと見つめる。それこそ、英凜は「特段嫌いな面はないけど、好きじゃない」という理由で同期をフッた。元カレを引きずっている英凜にとっては、元カレより好きになれなければ、どんな男も付き合うに値しないのだろう。


 私の頭にも、日野くんが浮かんだ。神崎くんは、あらゆる面で日野くんよりハイスペックだ。……それでも、例えば、もし、仮に、日野くんと神崎くんとどちらかと付き合えるかと言われたら……。


「でも、一般論ってわけじゃないし、一般論だとして鈴花に当てはまるかは別だし。付き合ってみてもいいんじゃないの、失敗すれば別れればいいから」

「そんな適当な」

「神崎だって、紹介なんだからそこまで重く考えてないって」


 ……でもきっと、英凜が私の立場なら、神崎くんと付き合う選択肢はないんでしょ?


 そう訊きたくても、英凜にその話題は禁句だし、そもそも「だったらなんで男を紹介してほしいなんて頼んだのか」なんて話になってしまうので、それ以上神崎くんの話はしなかった。




 


 ただ、その神崎くんに対してはひとつだけ疑問があった――ここまで全てが揃っていて、なぜ彼女がいないのか。


「神崎くんって、なんで彼女いないの?」


 借りていた本を返す、そんな口実で開催された4回目の食事のとき、かなり打ち解けていたこともあって、ついそう訊ねてしまった。神崎くんは「なんでって言われても」と少年っぽい笑みを零した。


「なんでだろ、俺も不思議。いや、欲しいから、できない原因を見つけたいって話なんだけど」

「英凜達からも悪いところなんて聞かないし」

「でも、それでいったら若竹さんもそうじゃん?」

「私は……」


 顔が悪いとは思わないけれど、美人だとは思わないし、そもそも女にとっての男と違って、男にとって需要のある女というのは難しい。学歴を積めばいいわけでもなければ、とにかく稼げばいいわけでもない。それでもって、気が利いて、いつもにこにこ明るくて、料理が上手で、なんていうのが理想の女子だというのなら、少なくとも私はその対極に位置している。


「……まあ、昔からモテないので」

「モテても気付いてないだけなんじゃない、それは」

「あえて謙虚に出ずにいたとしても、分からないとしか言いようがないかな、それは。大学生のときの彼氏が最初で最後だよ」

「そうなの? 意外」

「神崎くんは? 最後に彼女いたのいつ?」

「1年前」

「なんで別れたの?」

「んー……同僚に告られて付き合ってたんだけど、こう言っちゃなんだけど、好きじゃなかったから、どうにも鬱陶しいなとしか思えなくなって」


 つい先日、英凜と話したことが頭に浮かんで、パスタを食べる手を止めてしまった。でも神崎くんは「俺のこと好きになってくれたんだから、俺も好きになれると思ったんだけどなあ」なんてどこか頓珍漢とんちんかんなことをぼやいている。


「ああ、だから彼女ができない原因は――他意はない、って前置きさせてほしいんだけど、やっぱり好きじゃない人と付き合うのは難しいなと思って、誰か好きになるのを待ってて気づいたら1年経ってる、って感じかな」


 どんなにハイスペックでも、好きになれるかどうかは別、そして好きじゃないなら、付き合っても上手くいかない……。


「……社会人って、どうやって相手を好きになるんだろう」


 英凜との会話を思い出しながら、つい呟いてしまった。「というと?」と神崎くんは笑顔で続きを促す。


「……社会人同士って、わきまえた大人同士でしょ。学生のときみたいに朝から晩まで一緒に過ごすことなんてないし、ちょっと授業で一緒とか、お昼を一緒に食べるとか、そういう時間もない。好きになるほど相手のことを知る機会チャンスも時間もなんてないんじゃないかって」

「ああ、それは本当によく思う」


 深く頷いて「仕事柄ずっと一緒にいる相手はいるけど、仕事ぶりから見える以上の性格は見えないしね」そう続けられたから、今度は私が深々と頷いてしまった。


「本当に、そのとおり……」

「だから、社会人になったら条件で付き合うしかないのかなとも思うよ」

「世間的にはそうなんだと思う。私、何回か婚活したことがあるんだけど、分かるものなんて職業、年齢、年収、学歴くらい。あとリアルなのが、長男か次男かとか、両親は遠くに住んでるかどうか、とか」

「将来の介護の心配か。なるほどね、それも立派な条件だ」


 ははっ、と神崎くんは明るく笑った。どうやら婚活の経験はないらしい。


「ってことは、若竹さんは婚活に向いてなくて、原因は好きになった相手とじゃないと付き合えないから、か」

「……そういうことです」


 そして、お互いにその原因を抱いている以上、この会の終わりはひとつしかない。


「だから、何回食事したって、私達が付き合うこともないんだろうなあ」


 つい、そう呟いてしまったけれど、神崎くんは気を悪くした素振りなどまったくなく、それどころか「だろうね」と笑って返してくれた。


「でも残念――っていうのもなんだか傲慢なのかもしれないけど、趣味も話も合うのに、好きになるほど深い付き合いはできませんねで終わるのは残念だな」

「それでいったら私も、婚活で会ったどの男よりもハイスペな神崎くんとそんな理由で終わるのはもったいないかな」

「なにか上手い方法ないかなあ、食事とか映画とか、いわゆるデートを繰り返す以外の方法で、それ以上に相手を知ることができる方法」

「そんな方法、あればみんな実践してるんじゃない? 誰だってできれば好きな人と付き合いたいものだろうし。普通に好きになって付き合ったところで、四六時中一緒にいないと見えないところがあるからって結婚前に同棲するわけだし……」


 気を取り直してパスタを口に運んでいたけれど、また手を止めてしまった。でも、今度は自分の発言に対してだ。


 神崎くんは「そうだなあ」なんて頷いてグラスを口に運んでいるだけで、私が“気が付いた”ことには気が付いていない、けれど――……。


「……同棲してみればいいんじゃない」

「え?」


 酔っていたわけではない。いや、飲んではいたけれど、思考できなくなるほど酔っていたわけではなかった。


「同棲っていうと恋人っぽく聞こえるけど、そうじゃなくて、単に共同生活を送ってみればいいんじゃないかなって。そうすれば相手のことをよく知れるし、もし相手を好きになれそうにないって結論が出たらやめればいい」


 ただ、それが良い方法だと思ってしまった。好きになって付き合った恋人同士さえ同棲の結果別れることがある、つまり同居生活というのは相手と一生付き合っていくかいかないかを見極める一番いい方法だ、それを私達も実践してしまえばいい――と。


 そして、神崎くんは「……なるほど」笑い飛ばしもせず、至極真面目な顔で頷いた。


「……いいけど、それってどこに住む? 2人用のシェアハウスを借りなおすのも妙な話だし」

「そこで幸いなのが、私が叔父のマンションに、ついこの間まで弟と一緒に住んでいたということです」

「マジ」


 介護で田舎に帰った叔父が、下手に家を空けるより住んでおいてくれと言ってくれたお陰で、今の私の住まいは2LDK。しかも、弟は就職して会社の寮に入ってしまった。お陰で、大人2人が住むのに十分なスペースと家具が、いまの私の家にはある。


 神崎くんは「渡りに船ってのも変だけど、妙な偶然だな」と笑った。


「いいね、せっかくだし一緒に住んでみようか」

「あ、本当に? やってみる?」

「面白そうだし、俺にデメリットはないし。どっちかいうと、心配事は女性にあるもんじゃない?」


 言ってしまえば、会って間もない男を自宅に住まわせるわけだし? その冗談めいた口調のとおり、神崎くんに関してはその手の警戒心は全く生じない。


「……英凜の友達がそんな不真面目な人だとは思わないから、大丈夫かな」

「三国の信頼、すごいな。いや、絶対そんなことしないんだけど。そんなことしたら楽しくないし」


 それでもって、手を出すことを“楽しくない”と迷わず言い切るのだからなおさらだ。神崎くんは、グラスのカクテルを飲み干した後、セリフのとおり楽しそうに笑った。


「じゃあ、そういうことで、よろしく」




――……




「ん、このポロッタって美味しい」


 円盤状の謎の物体を千切って口に入れた恭弥は、驚きと嬉しさが混ざったように目を見開いた。


「なんだろう……クロワッサンみたいな」

「え、いいな、半分ちょうだい」

「はいはい、千切るから待ってください」


 私のプレートに載ったチーズナンを半分渡した後、その空いたスペースにポロッタが載せられた。カレーをつけずにそれだけを食べると、確かにクロワッサンみたいな味がする。


「……謎だけど美味しい。他のインドカレーじゃ見ないよね」

「見ない見ない。これ気に入った、霞ヶ関にもポロッタ出してるインドカレーないかな」

「今まで見たことないってことは相当ニッチなのは想像がつくけどな。ラムカレー、ちょうだい」

「ん」


 自分のチーズナンを千切り、恭弥が差し出してくれたラムカレーに浸して食べる。恭弥も、そこにポロッタを浸して口に含む。


「……なんで俺達付き合ってないんだろう」


 そして、あまりにも今更なことを呟く。


「どうしたの、急に」

「土曜日に同じ家から出かけて、ランチして、そんでもってシェアしてるとか、普通に恋人だよなあ……と思って」


 心底不思議そうな顔をされるけれど、こんなことは私達の間では珍しくもなんともない。その顔に向かって笑ってしまった。


「それでも、私達はお互い好きじゃないんだから、仕方ないよ」


 私達の同居生活は、始まって半年が過ぎようとしている。金曜日の夜は恭弥がうちにやってきて、土日は泊まって、月曜日の朝にそれぞれ出勤していく。私が霞ヶ関に行くときは一緒にランチをすることもあるし、金曜日の夜は外食ついでに一緒に帰ることもある。土日は、こうして外食することもあるけれど、どちらかといえば恭弥が何かを作ってくれて、それを食べることが多い。その代わりに私が掃除と洗濯をする。たまに一緒にでかけて、映画を見たりケーキを食べたりなんてデートみたいなことをして、一緒に家に帰ってくる。同じ家で暮らすのによそよそしい、とお互いに名前を呼び捨てている。


 まるで恋人だ。でも私達に体の関係はないし、恋愛感情もない。


 それでもって、この半年間の生活で分かったことは、私は元カレを好きなままだし、どうやら恭弥も元カノを好きなままらしいということだ。


 お互いに自覚はなかった。でも、例えば私がことあるごとに元カレ日野くんのことを想起し、それを口にしてしまうように、恭弥もそうだった。どうやら、お互い、それぞれの昔の恋人のことを、今までの二十数年の人生で“一生分の恋をした”と言えるほどに好きでいる。適当な異性と付き合うには、私達は、そんなふうに昔の恋人を好き過ぎる。


 その恋人のことを忘れない限り、私達はお互いを好きになることはない。


「そうなんだよなあ、こんなに気合うのに、好きじゃないんだよなあ」


 だから、私達の関係は、ほとんど恋人のようなもので、それでも恋人ではない。


 小説みたいなことしてるね、そう英凜に笑われたこの週末同棲物語の結末は、まだ見えていない。

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