それから、それから
第32話
「うーん」
目の前にあるパソコンと睨めっこをしながら浩樹は一人、腕を組んで唸っていた。
考えているのは、小説の次回作についてである。
二年前守瑠のために書き上げたあの作品。
読んだ守瑠からの強い勧めもあって、改訂した物をダメ元で新人賞に投稿してみたのだがなんとそれが佳作をとってしまった。
あの物語は出版され、浩樹は晴れて小説作家としてデビューを果たしたのである。
と、書くとなんだかすごく順風満帆の様に見えるが実際はそんなに甘い物でもない。
作家としての収入だけではとても食っていけないので浩樹は今、再就職した事務の仕事をしながら作家活動を続けている。
正直印税を入れても稼ぎは前の会社より少ない、だがその分時間には融通が利くので作品を執筆する時間を何とか捻出できていた。
幸いデビュー作はそこそこの売り上げを出すことが出来たようで、出版社からこうして次回作を書かせてもらえることにはなったが、この生活もいつまで続くのか分からない。
新人作家なんて、いつ出版社から見切りを付けられ仕事がなくなってもおかしくないのだ。
そんなわけで浩樹としては、次書く作品は是非とも売れて欲しい所なのだがさて一体どんな物語を書いた物か。
そんなことを浩樹はもうかれこれ三日くらい白紙の原稿を前に考え続けていた。
浩樹が眉間に皺を寄せて、うんうん唸っていると玄関の呼び鈴が鳴った。
「鍵は開いてるよ!」
誰が来たかは分かってるので、横着して声だけで対応すると訪ねてきた人物は、勝手知ったる様子で上がり込んできた。
「オジサン、たっだいまー!」
ただいまって君の部屋は隣だろうか。
などと、そんなツッコミは今更野暮なのでしない。
浩樹が睨めっこしていたパソコンを閉じて声のした後ろへ振り返る。
そこには守瑠の姿があった。
前よりも髪は短くなり、少し痩せてしまったが、それでも、あの頃の様に元気な彼女がそこにいる。
「う〜寒かったー。あっ頼まれてやつちゃんと買ってきたかんね」
言いながら守瑠が巻いていたマフラーを外すと、襟元からちらりと小さな傷跡が見えた。
あの後、癌の摘出手術は無事に成功した。
抗がん剤による治療と経過観察を経て退院したのが十ヶ月前。
それ以来、守瑠は以前の様にこうして夕食を食べに来るようになっていた。
「悪かったな、帰りがけにお使い頼んじまって」
「もう、まったくだよ。わたしだって多忙なのにさ」
「よく言うよ、バイトのくせに」
「ふっふーん。実はそうでもないんだなーこれが」
自慢げにそう言いながら、守瑠が聞いて欲しそうな目で浩樹を見る。
やれやれと思いながら浩樹がなにかあるのか訪ねると、守瑠は自身の鞄から何かを取り出して。
「じゃーん! オーディション受けることに決まったんだ」
そう言って守瑠が掲げて見せたのはオーディション様の台本。書かれていたのは浩樹もテレビコマーシャルで何度も見たような、有名ソーシャルゲームのタイトルだった。
「今度ガチャに追加される新キャラのキャストオーディション。声優復帰一発目のオーディション気合い入れていかなくっちゃ」
そう言って拳を二つ作り、むんっと気合いを入れる守瑠。
彼女は二ヶ月前、声優業に復帰した。
術後すぐは痛みでまともに喋ることも出来ない程だったが、懸命なリハビリの末に守瑠は以前と同じように話せる様になった。
本人曰くまだ以前と比べると上手く声が出せない時もあるそうだが、少なくともこうして話している分には違和感を感じられない。
「あのよ、前にも言った気がするけど、そういうのって部外者に言っていいことなのか?」
「うっ……い、いいんだよーだ。わたしだってオジサン以外にはこんなこと話さないもん。だから万が一、情報がもれてもそれは間違いなくオジサンのせい! だから問題なーし」
「また適当なこと事を……。まぁなんにせよチャンスがあるのはいいことだ。早く結果を出して宮原社長にも良い報告をしないとな」
そう言ってやると守瑠は、面白くなさそうに唇を尖らせた。
守瑠が声優業に復帰することをもちろん
それでも守瑠は諦めず説得した。
病院で闘病生活を送りながらずっとずっと長い時間、話をして。
そうしてようやく、好きにしなさい、と一は折れた。
とはいっても根本的に反対であることは変わらないようで、流石に無条件という訳にはいかない。
出された条件は二つ。
一つは月に一度の定期連絡。
そしてもう一つは盆と正月には必ず顔を見せること。
声優なんてとんでもないと言っていた頃から考えれば、信じられないほどの緩い条件なのだが守瑠は気に入らないらしく。
「なんだよ定期連絡って、こっちはもう子供じゃないってのにさ」
腕を組んで分かりやすくプリプリしてみせる守瑠。
ただその様子は浩樹から言わせればちょっと嬉しそうに見えた。
もっとも、指摘した所で認めないだろうし、臍を曲げることは分かりきっているから、あえて触れたりはしないが。
「……それはそうと、気になってたんだけどさ」
「ん?」
「宮原社長って変じゃない? もうオジサンはお母さんの会社の人じゃないのに」
「あ~そういえばそうだな」
特に意識はしていなかったのだが、つい今までの慣れで、自然とそう呼んでしまっていた。
「それに呼び方で言えばさ、オジサンわたしを呼ぶときも基本的に君だよね。考えてもみればそれってすご~く失礼じゃない?」
「そう言われてもな……じゃあ、宮原さんとでも呼べば良いのか?」
「それじゃあお母さんと一緒じゃん。わたしには守瑠って名前があるんですけど」
「そうか、それじゃあ、ま……」
守瑠、と言おうとして浩樹の言葉が詰まった。
「……別に呼び方なんてなんでもいいだろう」
「えー! なにさそれぇ!」
別に、下の名前で呼ぶことぐらいなんでも無いことの筈だ。
ただなんとなく、それをしてしまったらいよいよ自分の中で、何かの一線を超えてしまう様なそんな気がした。
それが何を区切る線なのか浩樹本人にもよく分からなかったが、ただそれ超えてしまうのが気恥ずかしいような、もったいないような、なんとなくそう思えた。
ただ守瑠は納得いかないのか、子供みたいなぶーたれた表情で文句を言ってくる。
「ぶーぶー言うな。大体呼び方を改めるならまずそっちが先だろう、俺はオジサン呼び許した覚えは無いぞ」
「わたしはいいの! オジサンはオジサンなんだから」
またも謎の理屈を展開する守瑠に「身勝手なこと言ってんじゃなねぇ」とツッコミを入れてやる。
そんな他愛もない会話をしばらくして。
「と、そろそろ夕飯の準備でも始めるとするか」
言いながら浩樹が立ち上がろうとすると、守瑠から制止の声が掛かった。
「いいよいいよ、今日はわたしが作ってあげるから」
「いいのか?」
「まっかせなさい! お使いのついでに材料だって買ってきたんだから」
「そうか。なら頼むわ」
オウよ! と勇ましい返事をしながら、守瑠は自身の袖をまくりながらキッチンへと向かっていった。
どういう心境の変化かはわからないが、最近は時々こうして守瑠が夕飯を作ってくれることが増えた。
味はそのときどきでムラがあり、上手いときは結構上手いがアレな時は結構アレだ。
アレな時の原因は大抵思い付きで変なアレンジを加えてしまうからなのだが果たして今日はどうなのか。
なんにせよ、せっかくやる気になってるのに水を差すのもそれはそれで申し訳ない。
ここは素直にお言葉に甘えることにして、浩樹は浮かしかけていた腰を下ろし、閉じていたパソコンを開き直す。
そこにはまだ何も書かれていない、白紙の原稿が映っている。
そこにどんな言葉が書かれ、どんな物語が綴られていくのか、それは書き手である浩樹にもまだわからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます