第29話
「……終わったな」
浩樹は自身のデスクの片づけを終えてその場で大きくノビをした。
ふと思い立ってすっかりと片付いた自分のデスクをなんとなく撫でてみる。
今日でこの席ともお別れだと思うと少し感慨深いものが胸の内から湧いてくるような気がした。
「ほんとに辞めちゃうんっすね先輩」
「なんだ矢部、お前まだ帰ってなかったのか?」
時計を見れば定時の時間はすでに三十分ほど過ぎている、後片付けの為に残っていたら気づいたらこんな時間になっていた。
竜之介が赤い缶珈琲を徐に差し出す。
「選別っす。と言ってもそこの自販機で買った間に合わせっすけどそこはカンベンして下さい、なんせあんまりに急な話だったんで」
「おっなんだ嫌味か? 言うようになったじゃないかお前も。まぁでもそんくらいのことは言われて当然か」
浩樹が今日会社を退社することが決まったのはつい昨日のことだ。
あり得ないほどのスピード退社、同じ部署の人間には相当な迷惑だったに違いない。
「悪いな面倒掛けて」
「別に僕は面倒だなんて思ってないっすよ、ただ驚いただけで。でも、身内の不幸ってんだからしょうがないっすよね」
「んっ、まぁ、そうだな……」
竜之介の素朴な労りに良心が疼く。
突然の病で倒れた父の面倒を見るため、急遽実家に帰ることになったと言うのが浩樹の退社理由だった。
しかしそれはあくまで表向きでのこと。
本当のところ父親は今でもぴんぴんしているし、母だって誰かの助けが必要な程弱っちゃいない。
実際の退社理由があんまりにも身勝手な物であるだけに、騙すことになってしまったのは申し訳なく思う。
しかしもう決めたことだ、今更引き返すようなことはしない。
浩樹がいつもより多い荷物を持って会社を出ようとすると、竜之介も着いて来ると言うので一緒に会社の外へでる。
「それじゃあな、珈琲ありがとう」
そう言って浩樹が踵を返そうとすると「あのっ」と竜之介に呼び止められた。
「もし迷惑じゃなければっすけど。仕事で分からないこととか困ったことがあれば、また話聞いてもらっていいすっか?」
竜之介の頼みに、別に俺なんかいなくてもお前ならやっていけるよ。そう答えようとした。
だがそこで以前に竜之介から、頼りにしている人に突き放されたら傷付くと叱られたことを思い出した。
……ああ、分かったよ。
「仕事以外でもなんかあれば連絡してこい、友人として話しくらい聞いてやるよ」
そう言ってやると竜之介は竜之介は嬉しそうな表情を浮かべて。
「今までお世話になりました! これからもよろしくお願いします!」
と、社会人らしい綺麗なお辞儀で浩樹のことを見送ってくれた。
一体自分の何所にそこまで感謝をされるほどの物があったというのか。
竜之介からの真っ直ぐな敬意にむず痒くなりながらも、浩樹は五年間勤め続けた会社を一人後にするのだった。
会社から自宅に戻った所で浩樹の携帯が鳴った、確認してみれば一からの着信だった。
僅かな緊張感を感じながら、浩樹は携帯の応答ボタンを押した。
「はい、有村です」
「手術の日程が決まった」
開口一番、一からの端的な報告が浩樹の耳を打った。
「今日から数えてちょうど一週間後の午後になるとのことだ一応君にも伝えておく」
「助かります」
「……」
受話器越しに沈黙が降りるが、浩樹は一が何かを逡巡しているような気配を感じ、電話を切らず黙って次の言葉待ち続けた。
「……今日、会社を退社したそうだな」
「はい、その節はご配慮頂きありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「残念ではあるが、自身の進退を決めるのは君の自由だ、最早上司でもない私にその事について今更何か意見する権利はない……ただね」
そこで一の声色が変わる。勤める会社の社長としてではなく、宮原一個人としての声。
「前にも言ったが、あの子の問題はわたし達家族の問題だ。君が何かをしなければならない義務もその権利もない、その事を分かっているのか?」
「はい、分かっています」
あの時と同じ正しく真っ当な一の言葉。そこに反論の余地なんて物はない。
でも、浩樹の言葉には迷いはない。
「ですから今自分がしようとしていることは、只の我が儘です」
自分が彼女に関わることを正当化する理屈なんてない、だったらもう開き直るしかない。
義務だとか権利だとかそんなものは知らない。有村浩樹はただ自分の意思で彼女と関わる、そう決めた。
「……ことこの期に及んで、私はあの子に何をしてあげればいいのか分からなかった。母親失格だな」
「そんなことはないと思います」
自嘲するように零した一の言葉に浩樹はそう答える。
「彼女は……守瑠さんはただ拗ねていただけですよ。あなたに認めてもらえなくて」
守瑠が一の事に触れるとき彼女はいつもいじけた子供の様な顔をしていた、親とも思っていない様な相手にきっとあんな顔はしないはずだ。
「そうか、そうだといいな……」
電話越しに聞こえたその声がどことなく安堵しているような、そんな風に聞こえたのは気のせいだろうか。
「夜分遅くにすまなかった、これで失礼するよ」
「いえ、こちらこそわざわざご連絡ありがとうございました。では、これで失礼します」
そうして浩樹は一からの電話を切った。
何か一つの区切りがついたようなそんな気分だった。いよいよ引き返せない所まで来てしまったぞというそんな予感。
浩樹は今まで仕事に使っていたノートパソコンをテーブルに開き、部屋の片隅にそのままにしていた段ボールの中から一冊の本を取り出す。
その本は守瑠と浩樹二人の夢の原点。
本と守瑠からもらった名刺入れを手に浩樹はノートパソコンを立ち上げ文章作成ソフトを起動し作業に取りかかった。
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