【君へ送る】
第28話
建物中に入ると薬品の匂いがした。
潔癖なまでに除菌されて漂白されている空気が辺りに漂っている様なそんな気がする。
受付で手続きを済ませ、目的の場所への道順を聞いて浩樹は歩き出した。
そこはこのあたりでは特に大きな病院だった。
あまりの広さに道順を聞いても道に迷いそうになったので案内図を見つけてはこまめに現在地を確認した。
無理を言って有休をもらいここへ来たが、別に何か病気になった訳じゃない。
手には籠に入ったフルーツの盛り合わせ、あんまりにもベタだが、花よりはこっちの方が喜んでもらえる様な気がした。
もっとも浩樹から渡された物を喜んでもらえるかどうかは分からないが。
目指していた病室に辿り着いて中へと入る。目的の人物がいるのは右奥、窓際のベッドだ。
病室の中を横切り、パーテーションで区切られたベッドの前に立つ。
浩樹は静かに深呼吸して手汗の滲んだ掌を握った。
「入るぞ」
声を掛けてみるが返事はない。
その事に僅かに怖じ気づきそうになりながらも、浩樹はそっとパーテーションを押しのけてその中へと入る。
「……調子はどうだ?」
何をバカなことを聞いているんだと、自分に毒づく。調子が良ければこんな所にいるはずもない。
守瑠は病院着を身に纏いベッドから体を起こして窓の外を見ていた。
浩樹はベッドの脇にあった見舞い者用の椅子に腰を下ろした。
ベッド横の床頭台に浩樹が持ってきた物とは別の果物籠を見つける。
一かはたまた浩樹の知らない守瑠の知り合いか、持ってきたのが誰かは分からないが、籠に入った果物は殆ど手を付けられていないようだった。
「見舞いの品、もっと別の物にすれば良かったな」
自嘲気味にそう言ってみるが守瑠は反応を示してはくれなかった。
まるで凪いだ水面の様に波も風もなくただ静かに、彼女は窓の外を眺めていて今どんな顔をしているのかは浩樹には分からない。
なんて言って良いのかが分からず、しばらくそうして沈黙の中に居続けた浩樹だったが、これ以上ここにいても何も出来はしないと悟り、椅子から立ち上がろうとしたその時だった。
「……香里奈ちゃん役ね」
窓の外を見たまま、ぽつりと守瑠の声がして、浩樹は立ち上がり掛けていた体を元に戻した。
「ダメになっちゃった。でもしょうがないよね、こんなになっちゃったらさ」
そっと守瑠は自身の胸の辺りに触れた。
「ねぇ、オジサン」
彼女が振り返る。
その顔は笑っていた。
「わたしね声優、辞めようと思うんだ」
それはいつもと変わらない守瑠だった。
「役が決まったと思った瞬間直ぐにこれでしょう? もうこれは神様が辞めとけって言ってるとしか思えないじゃん。だからちょっと残念だけど声優の夢はここで終わりにしようかなって」
明るくて快活でちょっと小生意気なあの頃の彼女そのものだった。
でも、何度も騙されたから知っている。
「なにしよっかなー。あっそうだ! お母さんに頼んでオジサンの後輩として、会社で働かせてもらおうかな。どう、楽しそうじゃない?」
――ああよく知っている。
彼女の夢は声優で、演技が上手くて。
そんな彼女の声に自分は何度も騙されて、舌を巻いた。
それなのに――。
どうして今日に限ってそんなに下手糞なんだよ。
なぜだか浩樹はそれ以上、守瑠の顔をまともに見ることが出来なかった。
お見舞いを終えて、浩樹は病院を後にする。結局たいして話すことも出来なかった。
電車に乗って最寄り駅まで戻り、仕事帰りにもいつも通る帰路を歩いていく。
その道中浩樹はいつも守瑠が練習場所にしていた神社へ続く石段の前で脚を止めた。
僅かに逡巡した後、浩樹はゆっくりと石段を上る。
守瑠がいつも声のレッスンをしている神社、思えばこんなに明るい時間に来るのは初めてだ。
誰もいない境内は酷く静かで、浩樹は社に腰を降ろすと疲れてもいないはずなのに大きなため息が出た。
守瑠に癌が見つかった。
あの時、そう電話で伝えてきたのは彼女の母親である一だった。
見つかったのは肺癌で、ここ数週間続いていた咳や違和感はそれが原因だったらしい。
幸い症状は初期段階で現状転移も見られず、早急に手術をすれば助かる可能性は高いという話しだった。
ただ幾ら命に別状がないと言っても治療そのものにはそれなりに時間が掛かるし、手術後には後遺症で声の掠れなどの症状が出ることもあり演技に支障が出ることは避けられないらしい。
この場所でテープ審査に通ったとはしゃいでいた守瑠の姿を思い出す。
ようやくまともな役をすることが出来るかもしれないと、目を輝かせながら期待していた。
来る日も来る日もこの場所で練習を続けてそしてようやく、念願叶ってアニメのメインキャストという大役掴んだと思った矢先にそれは無情にも崩れ去り彼女を奈落の底へと突き落とした。
その時、浩樹はなぜだか泣きたくなった。
守瑠がキャストから外されてしまうのは当然の流れだ。
幾らやむを得ない理由とは言え、新人の声優一人のために制作のスケジュールを送らせる訳にはいかない、制作の判断はごく当然で浩樹にも理解出来る。
でも、それにしたってこれはあんまりだろう。
自分のことでもないくせに、それでも悔しくて、悲しくて、年甲斐もなく目尻から涙が零れそうになった。
一時間か二時間かどれくらいの間そうしていたのだろう? だんだんと浩樹の胸の内である決意が固まりつつあった。
それははっきり言って非常識で多くの人に迷惑を掛けてしまうような事で、決して真っ当なんかではない。
ただそれでも、迷いはなかった。
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