第25話

 休日明けの月曜日、仕事へ向かうためスーツに着替えて外に出ると、ちょうど玄関の鍵を閉めようとしていた守瑠と鉢合わせた。


「あっ、オジサンおっはよう! これから仕事?」

「ああ、まぁな」


 朝から元気な守瑠に対して、浩樹のテンションはどうにもパッとしない。


「そう言うそっちはこれからバイトか?」

「ふっふーん、ざーんねん。今回はちゃーんと声のお仕事です! と言っても名前も無いエキストラなんだけどね」


 仕事について嬉しそうに話す守瑠、しかし浩樹の返事は「そうか」と素っ気ない。


 そんな浩樹の態度に守瑠は不服そうな顔をするが、何か文句を言うわけでも無く。


「それじゃわたしもう行くから。オジサンも仕事頑張ってねー」


 そう言って、走り去って行く彼女の後ろ姿を浩樹は小さく手を振って見送った。


 彼女の姿が見えなくなると、浩樹の口から小さなため息が漏れた。


 心の中の靄は未だ晴れてはいなかった。




「なぁ矢部、一つ聞きたいんだが」

「えっ」


 昼休み、会社の社食で一緒に昼食を食べていた竜之介が驚いたような声を上げた。


「なんだよ、えって」

「ああいやすいません。ただ、先輩が僕に対して相談まがいことして来るだなんて珍しいなーと」

「別に相談って訳でも無いんだが」


 そう言いつつ、浩樹は竜之介に対して聞こうと思っていたことを口にする。


「家族でも友達でもない異性のお隣さんと、飯食ったり出掛けたりするのってどう思う?」

「……ラノベか何かの話しっすか?」


 竜之介のその反応を浩樹は一瞬何を言っているのかと怪訝に思うが、言われてみれば確かにそんな感じかもしれないと、自嘲の気味に苦笑する。


「そうだよな、現実味のない話しだよな」


 一人で納得している浩樹に竜之介は困惑仕切りの様子だったが。


「なに、普通そんなことありえねぇよなって。ただそんだけの話しだよ」


 そう、普通じゃないのだ守瑠との関係は。


 どうして自分は、ここまで彼女に肩入れしているのか?


 一体自分は、彼女に何を求めている?


 またそんな答えの出ない自問自答を始めそうになったその時、弘樹達の目の前を見覚えのある人物が横切った。


 その人物は浩樹達とは離れた席に座り、いつもの様に背筋をシャンと伸ばした姿勢で手を合わせ、持ってきた焼き魚定食を静かに食べ始めた。


 浩樹はその人物のことを何か思案するように眺めると、スッと席を立って。


「矢部、悪いが少し席を外すぞ」


 言うなり浩樹はその人物の元へと向かっていった。


 自分と守瑠の関係は真っ当ではない。


 本来であればこの場所に立っているべきなのは、もっと彼女に近しい人物ではないのか?


 たとえばそう、血を分けた家族のような。


「お食事中の所、申し訳ありません。少しだけお話よろしいでしょうか?」


 浩樹が声を掛けると魚定食を食べていたその人物――宮原一が生真面目そうな視線を浩樹へと向けた。




 仕事が上がりに、浩樹は守瑠が練習場にしているいつもの神社へと向かっていたが、今日はいつものように一人ではない。


「申し訳ありません、終業後にこんな所までご足労いただいて」

「私の家の問題なのだ、君が気に病む必要はない」


 神社へと続く石段を浩樹と一の二人で上る。


 今日の昼休み、浩樹は守瑠の現状を全て一に話した。


 一は最初驚いていた様子だったが、浩樹の話しを全て聞き終えると守瑠に合わせて欲しいと頼まれたのでここへ連れてきた。


 守瑠が声優業に否定的な一と上手くいっていないことは知っている。


 だから今まで、一が守瑠の母親であると知った後でも浩樹はその事を秘密にしてきた。


 だが今、守瑠は人気作のメインキャストという、声優としてはそれなりの成果を出している。


 だから話し合いの余地くらいはあるんじゃないか、そう思ったのだ。


 実の家族がいがみ合うのは真っ当じゃない。


 話しを聞いていれば一が親として守瑠のことを心配しているのは分かる。


 守瑠も親という物に過剰に反応する節があるがそれはそれだけ意識をしていると言うことだ。


 きっと関係修復の余地はある、あと必用なのはその切っ掛けだけだ。


 もちろん一回あっただけで、全てが丸く収まるなんて都合の良いことは考えてない。


 ただこれを機に、二人の関係が少しずつ良い方向に向かってくれればと思った。そうなるように弘樹自身も可能な限りのフォローはするつもりだった。


 石段を登り切るとそこには思ったとおり、守瑠の姿があった。


 守瑠は浩樹の存在に気が付くなり、いつものように駆け寄ってこようとするが、後ろにいる一の顔を見た途端まるでその場で凍り付いてしまったように脚を止めた。


 一を連れてきたら守瑠が怒るだろうことは分かりきっていた。


 さてまずなんて説明するべきかと考えている浩樹の横を、ツカツカと鋭い脚足取りで一が横切ったかと思うと。


 パンッ!


 閑静な境内に渇いた音が響いた。


 あまりに突然の出来事に一が守瑠の頬を叩いたのだということを、浩樹は直ぐに認識することが出来なかった。


「こんな所で何をしている?」


 低く抑揚のない声。


「……それはこっちの台詞なんだけど」


 それに対して、挑みかかるような目を守瑠は一に向ける。


「どうしてお母さんがここにいるの?」

「そんなこと、今は関係がない」

「関係あるよっ! どうしてお母さんがオジサンと一緒に」

「彼は私の部下だ」


 その時、守瑠が浩樹のことをみる。


「オジサン……どういうこと?」


 守瑠のその問いに、浩樹は答えなかった。


「今まで色々手伝ってくれたのも……優しくしてくれたのも、全部お母さんに言われたからなの?」


 守瑠が首に巻いたマフラーをギュッと強く握る。赤地に緑のチェックが入った、浩樹から守瑠へ送ったクリスマスプレゼント。


「ねぇオジサン、答えてよ」


 守瑠の問いかけに浩樹は答えない。いや、答えられなかった。


 彼女の顔が、あまりにも悲しそうで。

 彼女の声が、今にも泣き出しそうで。


 まるで大切な物に裏切られて、見捨てられたようなそんな。


「とにかく、家に帰るぞ」

「イヤ!」


 手を取ろうと、一が伸ばした手を守瑠が拒否して払いのける。


 とたん一はキッと眉根を寄せる。


「いい加減にしないかっ! 彼から聞いたがお前まだ声優になるだなんだと、絵空事を言っているそうだな!」

「そうだよ! それが悪いことなの?」

「良い悪いの話しじゃない! お前をあの男のようさせるつもりはないと何度も」


 パンッ! と再び境内に渇いた音が響く。


 今度は守瑠が先程、一にそうされたように彼女の頬を叩いたのだ。


「……お父さんのことを悪く言わないで!」


 守瑠は石段へと向かって掛けだした。


 その時、浩樹の直ぐ横を守瑠が横切っていったが彼女は、ただの一瞥もくれることはなく。


 浩樹もまた、彼女に一言も掛けることは出来なかった。


「待ちなさい! 守瑠!」


 一は走り出した守瑠を追いかけようとするが、その間に浩樹が割って入った。


「退きなさい!」

「出来ません……今は」


 そっとしておいてあげて欲しい。目で一にそう訴える。


 興奮して肩を怒らせていた一は、すでに守瑠の姿が見えなくなった石段を一瞥した後、大きく息を吐いた。


 それからどれくらい、そうしていただろうか?


 随分と長い間、浩樹と一の二人はその場に立ち尽くし、そうしてようやく浩樹がゆっくりとその口を開いた。


「旦那様と……彼女のお父さんと何があったんですか?」


 守瑠が一と上手くいっていないことは分かっていた、だが二人の剣幕は娘の進路で行き違っただけの物とは思えなかった。


「……君には関係のない話しだ」

「はい、関係のない話しです。ですが教えてくれませんか。知りたいんです、俺」


 人の家庭事情なんて、他人が首を突っ込むべき物じゃないことは分かってる。


 ただそれでも知らなくちゃいけない気がした。


 一はまた大きく息をついて、社の縁に腰を降ろした。


「……退屈な話しだぞ」


 その言葉に浩樹は答えず、無言で頷き自身の意思を示す。


 すると彼女はゆっくりと話し始めた。


 母と娘、そして父。


 三人にあった出来事の全てを。

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