第24話

 浩樹に背を向けたままなんだか躊躇いがちに聞いてきた守瑠の声はどこかソワソワと落ち着かず、端から見るとまるで酷く緊張している様に見える。


 一体今更なにを緊張するようなことがあるのかと、疑問に思う浩樹だったがそこでピンときた。


 ははーん、これはまたこっちのことを動揺させて、からかってやろうという守瑠のイタズラに違いない。


 演技に関しては流石の一言に尽きるが、こう何度も同じネタを擦られたらこっちだっていい加減学習する。


 ここは年長者として、大人の余裕を見せつけてやろう。


「ああ楽しかったよ。横浜観光なんて学生の時以来だったけど、こうして改めて回ってみるのも悪くないもんだよな」


 一切の動揺も無い。落ち着いていてスマートなそつのない解答。


 どうだ毎度毎度、言いように転がされる俺では無いのだ。


 ふふん、と余裕の笑みを浮かべながら、内心さぞ悔しい思いをしているであろう守瑠の様子を窺っていると。


「そっか……そっか……うん、それなら良かった」


 あれっ? と浩樹が内心で首を傾げる。


 背を向けている守瑠の表情を窺うことは出来ないが、良かったと呟く守瑠の声は本当に嬉しそうで。


 てっきりイタズラに失敗して臍を曲げているものだとばかり思っていたので、そのリアクションは完全に予想外だった。

 ひょっとしてまだこっちを引っかけようとしているのか?


 そんな風に、浩樹が疑心暗鬼になっていると。


「オジサン、ちょっとあっち向いててよ」

「あっち? ……あっちってどっちだ?」


 あんまりにも大雑把な指示に、思わずバカみたいな返事をしてしまう浩樹だったが。

「あっちはあっちだってば」と、変わらず訳の分からんことを言っている守瑠も大概バカみたいである。


「もうっ! とにかくどこでも良いからあっち向いててってば」

「語彙力どこ行っちまったんだよ、まったく」


 相変わらず訳が分からないが、とにかくあっちというからには、守瑠が見ている方とは違う方向だろうと浩樹はクルリと体を反転させる。


「ほら後ろ向いたぞ。これで何をするんだ?」


 後ろにいるはずの守瑠に声を掛けるが返事が返ってこない。

 さっきから訳が分からず、困惑しきりでいると。


「……いいよ、こっち向いて」


 ようやく振り返る許可を得て、なんだかちょっとホッとしながら振り向くと、いきなり何かを鼻面に押しつけられた。


 すわ薬でも嗅がされるのかと警戒する浩樹だったが、よく見ればそれは怪しげな薬品を染み込ませたハンカチなどでは無く只の紙袋だった。


 照明が暗くどこの紙袋なのかまでは分からなかったが、見る限りそれなりにしっかりとした物のように見える。


「あげる!」


 紙袋の向こうから守瑠の声が聞こえる。


 眼前に紙袋を掲げられているせいでその姿を見ることは出来ないが、あげるというからには目の前にあるこれのことを言っているのだろう。


 訝しがりながらも浩樹は目の前にある紙袋を手に取る。


 紙袋を受け取り、ようやく守瑠の姿を見ることが出来たと思ったが、彼女は首に巻いたマフラーに顔を半分以上埋めていて、またもやその表情をうかがい知ることは出来なかった。


「なぁ、さっきから変だぞ。一体どうしたって言うんだ?」


 堪えきれず思わず尋ねる浩樹だったが、守瑠は顔をマフラーに埋めたまま中々返事をしようとしない。


 なんとなく無視をしようとしている訳では無さそうだったので、しばらく待ってみるが一分近く経っても何も無い。


 いい加減諦めようかと思ったその時。


「……オジサンとはさ」 


 守瑠がゆっくりと話し出した。


「知り合ったばっかりで、半年くらいの付き合いしか無いけど」


 ぎゅっと、守瑠が自身の首に巻いたマフラーを握る。


「ご飯食べさせてもらったり、演技見てもらったり、他にも色々お世話になったからさ、だから」


 埋めていた顔を僅かに持ち上げて、守瑠が浩樹のことを見る。


 二人の視線が交差して、瞳の中に互いの姿が鑑の様に映り込む。


「御礼ッ! ……みたいな」


 言うや否や、守瑠はまた浩樹から視線を逸らしてさっきよりも深く顔をマフラーに埋めてしまった。


 ただ相手の顔をまともに見ることが出来なかったのは浩樹も同じだった。


 照明が暗くて助かった。多分、今、自分の顔は赤くなっている。


「……開けてみて良いか?」

「……いいよ」


 許しを得て、浩樹は渡された紙袋の中を覗き込むと、そこにはプレゼント用に梱包された掌サイズ程の箱が一つ。


 包装紙を止めているテープを丁寧に外して、中から出てきた高級感ある箱の蓋を開ける。


 そこに入っていたのは、黒とシルバーのシックなデザインをした名刺入れだった。


「これ、結構高かったんじゃないか?」


 ブランドには詳しくないが、触ってみた感じ作りはそれなりに良い作りをしているように思えた。


 少なくとも浩樹が今使っている、その辺で買ったアルミ製の名刺入れよりはずっと高級感がある。


「別にそんなに高くないよ。ネットでこれでいっかーって、テキトーに選んだやつだし、ほんと全然大した物なんかじゃ」

「そんなに悪く言ったもんでもないだろう。ありがとう、気に入ったよ」


 自分でもちょっと不思議なくらい、その感謝の言葉は自然と口にすることが出来た。


 寧ろ言われた守瑠の方が照れくさいのか、マフラーに顔を埋めたまま、浩樹にくるりと背を向けてしまった。


 普段、振り回されることの方が多いだけにそうやって守瑠が動揺している様子は少しだけ痛快だった。


 今日一日、何処か様子がおかしいと思っていたがずっとこれを渡すタイミングを見計らっていたのだろう。


 なんだよ、ちょっとは可愛いところあるじゃ無いか。


 そう思うと自然と口元がほころんで、なんだか暖かい気持ちになる。


「はいっ! と言うわけで! 『緋の弾少女スカーレット·バレット·ガール』聖地巡礼ロケハンツアーこれにて全行程終了になります。皆さん落ち着いて夜道には気をつけて帰りましょう、お家に帰るまでが遠足ですよー!」

「照れ隠しは分かるが、もう少し音量を下げて喋れ、周りの人に迷惑だろが」

「照れてないしっ!」


 などと言っているが守瑠のテンションは明らかにおかしく、勢いで色々誤魔化そうとしているのが見え見えだ。


 とは言えそこを突っ込んでこれ以上、変な方向へ行かれても困る。


 余計なことはせず大人しく守瑠に誘導されるまま展望台を後にしようとした、その時だった。


 けほっ。


 不意に、守瑠が小さく咳き込んだ。


「なんだ、まだ咳引いてないのか?」


 以前、風邪を引いて倒れて以来、時折こうして守瑠が咳き込むことがあった。


 風邪の咳が長引いているだけだろうと思っていたが完治してからすでに数ヶ月、流石に長引き過ぎのように思える。


「いい加減、一度病院でちゃんと見てもらった方が良いんじゃ無いのか?」


 老婆心からそう提案するが、当の本人は特に気にした様子も無く。


「大丈夫、大丈夫。確かにちょっと咳は出るけど、偶にしかないし。それにそれ以外は特に違和感はないんだよ、声出すのにも問題ないしさ」

「いや、違和感が出てからじゃ遅いだろうが、仮にも君の商売道具だろう」


 そう指摘してやると、守瑠は痛いところを突かれた顔をする。


 なんのかんの言ってプロ意識は高い守瑠からすれば、仕事のことを引き合いに出されるのは流石に堪えるらしい。


「でも、偶に咳が出るってだけで病院で見てもらうのは恥ずかしいし。診察だってタダじゃないしさ」


 診察したところで料金は二束三文もしないだろうと思うが、それくらい彼女の経済状況が切迫していると言うことなのだろう。


 今はバイトをしながら、偶に端役として声の仕事もしていると言う話しだがそれだけでは大した稼ぎなってはいないのだろう。


 普通の会社員である自分でさえ一人暮らしを始めたばかりの頃は、金銭面では色々と苦慮していたことを思い出す。


 偶の咳程度で病院に行くことをためらう気持ちも分からないでもない。


 いっそのこと、診察代ぐらいなら自分が払ってやろうか。


 一瞬そんなことも考えたが、流石に自分がそこまでするのは違うように思えてその意見を却下した。


 ロープウエーの代金や、夕飯を奢ってやるのとは意味合いが違う。


 基本的に自分と彼女の関係は只のお隣さんどうしでしか無い。


 そんな自分が彼女に金銭的援助までしてしまうと言うのは、何か流石に出過ぎている様な気がする。


 ……このままで良いんだろうか?


 ふと浩樹の胸の内に靄が立ちこめる。


 一緒に夕飯を食べたり、演技の練習に付き合ったり、彼女の体調を気に掛けたり、果たしてこれは自分の領分なのだろうか?


 別にそれが嫌な訳じゃ無い。


 ただ、今自分が立っている場所に本来いるべきなのはもっと近しい間柄の人間であるべきじゃないのか? 


 どうして今更になってこんなことをと自分でも思う、ただなんだか酷く落ちつかない気分だった。


 守瑠は浩樹の身内では無い、友人でも無ければ当然、恋人でも無い。


 たまたま隣の部屋に引っ越してきたお隣さん。

 それ以外に彼女との関係を適切に表す言葉が浩樹には分からない。


 浩樹にとって守瑠はどういう存在なのか。

 守瑠にとって浩樹はどういう存在なのか。


 何も分からない、説明が出来ない。


 そんな自分が、これ以上彼女に踏み込んでしまうことが、果たして正しく真っ当なことなのだろうか?


「どうしたの? オジサン」


 声を掛けられてハッとすると、守瑠が少し心配そうな顔でこっちを見ていた。


「なんだかすごく難しい顔してたけど。考え事?」


 指摘されて初めて、自分が思考に嵌ってしまっていたことに気づかされる。


「あーいや……なんでもない、ただちょっと仕事のことでな」

「ふーん、会社勤めは大変だね」


 その場で思いついた、適当な言い訳だったが守瑠はそれで納得してくれたようだった。


 浩樹は自分の中に突如立ちこめた靄の存在に、なるべく気が付かない振りをしながら帰路へと着いた。

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