他人の立ち位置

第21話

 浩樹が手持ち無沙汰に腕時計を見て時間を確認する。


 場所は普段から利用している自宅からの最寄り駅、ただ今日着ているのはいつものスーツでは無く、私服のTシャツとジーンズ、そもそも今日は日曜日で会社は定休日だ。


 だから今日、浩樹がここにいるのは仕事とは関係のないことだった。


 待ち合わせの時間から十分が経過していたが、待ち人は未だに姿を現さない。

 そもそもどうして、待ち合わせなんてする必要が。


 そんなことを心の中でブツブツ言っていたとき、不意にシャツの裾を何かに引っ張られた。


「ねぇ、ねぇ、お兄ちゃん一緒に遊んでよ」


 後ろから小さな女の子に声を掛けられる。


 ここの所オジサン、オジサンと呼ばれ続けていたせいか、舌足らずなお兄ちゃん呼びがなんだか妙に心に染みる。


 しかし今、自分は人を待っている身だ。女の子の無邪気なお願いを聞いてあげることは出来ない。


 なんて断ったものかと、浩樹が心を痛めながら振り返ると。


「やーい、引っかかってやんの」


 そこには、してやったりと言わんばかりの小生意気な笑顔をした守瑠の顔があった。


「……なにやってんだ君は」


 イタズラが成功して嬉しそうに笑う守瑠とは対照的に、浩樹は苦虫を噛みつぶした様な顔をする。


 完全に騙された。高く舌足らずなその声から小学生くらいの女の子であると完全に思い込んでいた。


 しかも声の位置でバレないために、浩樹の腰よりも低い位置に屈み込むという偽装工作までする徹底ぶりだ。


 さすがはプロの声優と感心するが。それはそれとしてまた騙されたことが、悔しいような、恥ずかしいような。


 浩樹の表情は、自然とむっつりとした物になった。


「もう、ごめんって。すねない、すねない」


 よっと、と守瑠が屈んだ体制から立ち上がる。


「ところで、オジサン。待った?」

「ん? ああ、十二分待ったな」


 厳密には待ち合わせ時刻の十分前からこの場にいたので待った時間は二十二分だが、それくらいは多めに見てやることにする。


 しかし守瑠はその反応が気に入らないらしく、眉の角度を上げてわざとらしく不機嫌な顔をする。


「そこはさぁ『ううん、今来たところ』って言うのがお約束」

「そんな約束を誰かと、した憶えは微塵もない」


 それが待ち合わせの時のテンプレートだと言うことは浩樹だって知っていたが、初っぱなからしてだまし討ちをかましてくるような相手にそんなものを守ってやる道理はない。


 相変わらず守瑠は不服げだったが、さっさと切り替えたのか「あっそ」と言ってクルリと踵を返す。


「さってとそれじゃオジサン、行こっか」


 そう言って、守瑠が駅へと向かって歩き出す。

 やれやれと、小さくため息をついてから浩樹もその後に続いて歩き出した。


 こんな所で一体何をしているのか?

 その切っ掛けは今より少し前にあった何気ない会話だった。

 



 守瑠のキャスティングが決まってから一週間ほどが過ぎ、桜の蕾が開花の瞬間を今か今と待ちわびる、そんな季節のある日の夜。


「たまには少し休んだらどうだ?」


 いつものように浩樹の部屋へと尋ねてきていた守瑠にそう提案する。


 アニメのキャスティングが決まって以来、守瑠は、今まで以上にレッスンに熱を入れていた。


 偶に神社へ練習を覗きに行くと気合いが入っていることが素人目にも分かる。


 夜、浩樹の部屋を尋ねてきたときも、暇さえあれば制作から渡された台本を読み込み、台詞を反芻しているのか小声でブツブツ何か言っている。


 食事中まで台本を手放さないので、流石に行儀が悪いと注意したのだが、聞いてるのか聞いてないのか空返事ばかりだ。


 まだ全てのキャストが決定しているわけではなく本格的なアフレコは来月頃になるという話しだが、それまでの間に少しでも準備しておきたいらしい。


 ようやく手にすることのできた大役。人によっては不安やプレッシャーに押しつぶされそうになっても不思議では無い。


 ただ守瑠からそう言った重圧のような物は一切感じられなかった。


 目を輝かせるというのはこういうことを言うのだろう、台本を見つめる守瑠の瞳はとても楽しそうで、嬉しそうで、そして何より希望に満ちていた。


 こうやって目の前にある物をただ楽しむことが出来るのが、彼女がもつ何よりの才能なのかもしれない。


 しかし、そうとは言えである。

 ここ最近の彼女は少々入れ込み過ぎのように浩樹は思った。


 体調や喉の管理も声優の仕事である以上、日々のケアを怠っている訳では無いだろうが、只でさえ声優の仕事やレッスンそれ以外の時間はバイトと、忙しない日々を送っているのだ。


 小さな積み重ねが大きな不調に、繋がらないとも限らない。事実、守瑠は過去に風邪を拗らせて浩樹に助けを求めてきた前科だってあるのだ、たまには休息をとることだって必用なはずだ。


 そんな老婆心から来る浩樹の提案に、釈然としない様子で渋る守瑠だったが。


 ふと、何かを考える様に黙り込むと。


「……分かった。でも一つ条件があります」


 条件? 突然何を言い出すのかと浩樹は身構えるが。


「ねね、ところでオジサン今度の週末って予定あるの?」


 また急に話しの話題が変わった。


 唐突な話題の切り換えを訝しむ浩樹だったが隠し立てしたところでしょうがない。取りあえず守瑠の質問に「別に何も無い」と正直に答える。


「そっか、実はわたしも今度の日曜は、バイトも仕事もオフなんだよね。だからさ」


 そこで守瑠は、可愛らしくウインクを決めたかと思うと、浩樹が思ってもいなかった事を口にした。


「ちょっと一緒にお出かけしない?」

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