忘れていたかった夢

第7話

 浩樹が出勤の為の支度を終えて部屋を出ると、ちょうど帰ってきたのか。玄関の鍵を開けている所だった守瑠と鉢合わせた。


「あ、オジサンおはよー」

「おはよう。バイトの帰りか?」

「む、決めつけは良くないなあ。わたしはこれでも声優なんだよ、せ·い·ゆ·う」

「じゃあ、声の仕事が入ったのか?」

「いや、まぁ……バイトなんですけど」


 小声でグチグチいじけていた守瑠だったが、その時、不意に「ケホッ」と小さく咳き込んだ。


「どうした、風邪か?」

「うーん実はここの所、喉の調子が悪くって。ちくしょー、喉のケアだけは欠かしてないつもりだったのに」


 守瑠はしょんぼりと落ち込んだ様子で「不覚」と呟きながら、付けていたマスクをずらして口の中へのど飴を放り込んだ。


「そうか、まぁ気をつけろよ。じゃな」


 言うなり浩樹はさっさと守瑠に背を向けて歩き出した。

 後ろで何か言っていた気がしたが、それはあえて聞こえないふりをした。


 今後はあの子と関わるのは控えよう、と浩樹はそう考えていた。


 こうして顔を合わせたときに挨拶くらいはするが、この前みたいに練習場所に顔を出したり差し入れしたり、そういった深入りするような真似はもうしない。


 守瑠の方は今後も絡んでくるかもしれないが、こっちから距離をとっていれば向こうもその内離れていくだろう。


 そもそも守瑠とはただのお隣さんでしかないのだ、今後はお隣さんとして適切な距離感で関わっていく。


『オジサンは今、何のために生きてるの?』


 あの日の夜、守瑠に投げかけられた問いが頭の中で不意に響いた。


 ……何の為にか。


「ねぇよ、今更そんなもん」


 誰にでも無く浩樹はそう独りごちた。




 あの日、浩樹は部屋に戻るなり電気を付けることもせず、上着だけ脱いでそのままベッドの上で仰向けになった。


 ついさっき守瑠に投げかけられた問いがまだ頭の中でぐるぐると回っている。

 あの時、その問いに答える事が出来なかった。何か適当な事を言って誤魔化した様な気がするが、自分がなんて言ったのかもう憶えていない。


「……意味がなきゃ、生きてちゃいけないってのかよ」


 ふて腐れたように呟いても、どうにもモヤモヤして気分が晴れない。

 どうしてあんな一言でこうも心を乱しているのか。


 いや。

 本当の事を言えば、理由は分かっている。ただその事を認めたくないだけで。


 浩樹はベッドから立ち上がりクローゼット兼物置部屋となっている収納スペースに向かうと、その奥から段ボールを一つ引っぱり出した。


 この部屋へ引っ越してきて以来、一度も開いていなかったからか上にはうっすらと埃が積もっていた。


 箱の口を止めているテープを剥がそうと手を伸ばしたとき、一瞬その手が止まった。


 何を躊躇する事がある!


 自分を叱責し部屋に埃が舞うことも気にせず、浩樹はテープを一気に引っぺがした。


 封が解かれ開いた箱から覗いたのは、一台のノートパソコンと本が十数冊にクリアファイルに納められた原稿。


 浩樹はその中から一冊の本を手に取り、読むでもなくペラペラと捲っていく。


 しっかりとしたハードカバーのその本は年期の入ったもので、何度も読み返したせいかボロボロになった表紙は所々テープで補強され、開き癖のついたページが幾つもある。


 この中にあるのは夢の残骸だ。

 地に足着けて安定した生活こそ真っ当な生き方である、と言うのが浩樹の人生哲学だ。


 ただそんな浩樹にも、かつては今の守瑠のように自身の夢を追いかけていた時があった。


 例え真っ当な生き方でなくてもこの道を進みたいと強く願い、後先考えず突っ走った、そんな時代があったのだ。


 この夢が自分の生きる意味だと。

 そう言えてしまうほど、一つの夢に浮かされていたそんな頃。


 その全ての切っ掛けは、今浩樹が手に持っている一冊の小説だった。

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