第5話

 夜、仕事を終えて冷たい風が頬を撫でる帰路を歩くなか、浩樹は例の石階段の前でふと足を止めた。


 見上げれば境内の明かりがぼんやりと見え、耳を澄ませば微かにだが、守瑠の声が聞こえた。


 あの時の様に、また一人で台詞の練習でもしているのだろうか。


 そんなことを考えているとまた目元にうっすら隈を浮かべた守瑠の姿が頭に浮かび、同時に昼休み、竜之介から聞いた話を思い出す。


「うーん……」


 浩樹は少しの間その場で立ち止まったかと思うと、徐に元来た道を引き返していった。

 



 浩樹が石段を上っていくと、案の定境内には守瑠の姿があった。


 身なりは初めてあった時と同じダッフルコートとボロボロのマフラーだったが、今日はジャージではなくジーンズを履いている。


 守瑠はその場で軽く息を吸い込むと。


「拙者親方と申すは、お立ち会いの内にご存じのお方もござりましょうが、お江戸を立って二十里上方、相州小田原、一色町をお過なされて、青物町を登りへお出でなさるれば、欄干橋虎屋籐右衛門、只今は剃髪致して、円斎と名乗りまする。元朝より大晦まで、お手に入れまする此の薬は、昔、ちんの国の唐人、外郎という人、わが朝へ来たり、帝へ参内の折から、此の薬を深く籠め置き、用ゆる時は一流ずつ、冠の隙間より取り出す。依って其の名を帝より、透頂香と賜る。即ち文字には、頂き、透く、香と書きて、とうちんこうともうす。――」


 白い息を煙らせながら歌舞伎か落語のような独特の言い回しの長台詞を噛むこともなく、すらすらとそらんじるその様は素人の浩樹からするとただただ圧倒されるものだった。


 守瑠はまだ浩樹の存在に気が付いていない様子だったが、邪魔をするのも悪いかと思い台詞が一段落つくまで大人しく聞き入ることにする。


「――羽目を外して今日御出の何も様に、上げねば成らぬ、売らねば成らぬと、息せい引っぱり、当方世界の薬の元締、薬師如来も上覧あれと、ホホ敬って、外郎はいっらしゃりませぬか。――ふぅ」

「すごいな。良く噛んだりしないもんだ」

「あれ? オジサン」


 台詞が一区切り突いたところを見計らって声を掛けると、守瑠が少し驚いた様な顔をした。


「オジサン言うな。俺はまだ二十七だ」

「オジサンじゃん」


 このヤロウ。まぁ三十手前の複雑な男心など小娘には理解できるわけもない、大人の対応だ大人の対応。


 そう自分に言い聞かせて浩樹は手に持ったコンビニのビニール袋を守瑠に掲げてみせる。


「差し入れだ。好きな方選べ、飲まない方は俺が飲む」


 そう言ってやると、守瑠は豆鉄砲を食らった鳩みたいなキョトンとした顔をした。


「えーと、どうしたの急に?」

「なんとなくだよ。それにほれ、こっちは引っ越しの挨拶もらったけどお返しとかしてなかったなと思って」

「えーだとしたら安くない? あのクッキーそれなりに高かったんだよー。お返しって言うのならもっとこうさぁ」

「文句を言うなら飲まんでよろしい」

「わぁー! 冗談、冗談。飲みます飲みます」


 守瑠は慌てて袋の中を覗き込むと、緑茶とほうじ茶の二つから緑茶の方を手に取った。


「あったかーい。でも次差し入れするときはココアがいいなぁ」

「礼も言わずに、文句の多い奴だな」

「差し入れありがとうございました。次はココアを頂けますと幸いでございます」

「丁寧に言い直せばいいてわけじゃない。それよりさっきのも台詞の練習か?」

「んーん、違うよ」


 守瑠がペットボトルの蓋を開けて社の縁に腰を下ろすと、カイロの変わりか緑茶を両手で包むように持って口に運んだ。


「さっきのは外郎売りって言う歌舞伎の台詞。発声練習の為に一日一度は暗唱するようにしてるんだ」

「ほー、練習熱心な事で」


 浩樹も余ったほうじ茶のキャップを開け一口、外気で冷えてきていた体に暖かなお茶が染みる。


「にしても、前も言ったがこんな夜遅くに練習しなくてもいいんじゃ無いのか? この辺は昼間だって人が多いわけじゃないし、何よりこの時期の夜は冷えるだろ」

「そうだけど、日中はバイトでレッスンする暇なんてないし」

「バイトってお前。昨日の深夜にも入ってたんじゃなかったか? 流石にシフト詰め込みすぎだろ」

「昨日のは緊急のヘルプ。入る予定だった子が風邪引いて出られなくって、都合つくのがわたししかいなかったんだって」

「断れば良かっただろ」


 話を聞く限りよっぽど急な話だったようだし、翌日のシフトにも入っているなら別に断ったところで仕方がない事のように思える。


「それはムリ。いつ声の仕事やオーディションが入って休みもらわなきゃいけなくなるか分かんないもん。こういうときくらい協力しないとバイトクビになっちゃう」

「クビって、んな大袈裟な」

「大袈裟じゃないよ。同期の中でもクビになったって子結構いるし。実際わたしも一回クビになって今のバイトで二つ目だもんね」


 さらっと言われた事実に驚く。

 バイトをクビになったという話もそうだが、それ以上に守瑠がその事を当たり前のように話していることに浩樹は驚いていた。


「前日急に事務所から連絡が来てバイト休まなきゃってことよくあるし。酷いときは連絡が来たその日の内にオーディションに直行なんてことも割と」

「予定の開いてる日に変えてもらうとか」

「ムリムリムリ。わたしみたいな新人が断ったりしたら、じゃあ別の人にお願いするからもういいよで終わりだし、そんなことしてたら、そのうち仕事回してもらえなくなっちゃうよ」


 守瑠は変わらず当たり前の様にそう言って「わたしが死んでも変わりはいるもの」と某ロボットアニメのヒロインの声真似(かなり似ている)なんかをしながらあっけらかんとしている。


 寧ろそれを聞いていた浩樹の方がよっぽどショックを受けていた。


 新人声優の暮らしが肩書だけの実質フリーターのようなものという話は昼間、竜之介から聞いていたがそのフリーターとしての生活までままならないような、そんなシビアなものとまでは思っていなかった。


 来るのかも分からない声の仕事を厳しい生活の中で待ち続けて。

 ようやく声の仕事は来てもそれはこちらの事情を一切考慮されず、断ればもういいとあっさり切り捨てられる。


 プロの世界は厳しいと言ってしまえばそれまでの話だが、それにしても少し理不尽なんじゃないのか。


 そう思ってしまう、自分はおかしいのだろうか?


「……やめたいとか思わないのか?」


 気が付くとそんな質問が口をついて出ていた。

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