何のために?

第3話

 その日、浩樹が出勤のついでにマンションのゴミ捨て場にゴミを捨てて開けていたネットをもとに戻していたら。


「すみませんねぇ、ネット開けてもらてもいいですか?」


 と後ろからおっとりとしたおばあちゃんの声が聞こえてきた。


 せっかく掛けなおしたのにと思わないでもなかったが、ご老人の頼みを断るのも寝覚めが悪い。浩樹は戻しかけていたネットを開きなおしてどうぞと笑顔でおばあちゃんに振り返る。


 が――。


「へっへーん、ダッマされたー♪」

 

 そこにはおばあちゃんの姿などどこにもなく、小生意気な笑顔をにんまりと浮かべる守瑠が立っていた。


「おはよう、オジサン。これから仕事?」


 言いながらしれっとゴミ捨て場にゴミ袋を投げ入れる守瑠。

 なんだか釈然としないものを感じながらも、浩樹はネットをしっかりと掛けなおしてやった。


「まぁな、こっちは暇じゃないんでね」

「うっわ嫌味な言い方。それ遠回しにわたしのこと暇人だって言ってる?」

「違うのか?」

「ちがうよーだ。私だってさっき深夜バイトから帰ってきたところなんだから」

「バイトォ? 声優やってるって言ってなかったか」

「うっ、また痛いところを。しょうがないじゃん、声の仕事だけじゃまだ食べていけないんだから」


 当人はあっけらかんとしていたが、本職で食っていけないってそれは大丈夫なのか? と浩樹としては思わないでもない。


 よく見れば目元にうっすらと隈が浮かんでいるし、ちゃんと寝ているのだろうか? まぁ自分には関係のないことだが。


「でも今に見ててよ、すぐに大役もらてグイっ人気声優への道を駆け上がってやるんだから」

「はいはい、そうかい頑張れよ」

「リアクション適当すぎ。もっと心を込めてよ。やり直し」


 まったくと浩樹は小さくため息をついた。

 いったいなにがどうしてこんなことになっているのか。


 思い出すのは一ヶ月前の朝。

 宮原守瑠と名乗ったこの娘が自分のお隣さんであると発覚したあの時のこと。


 お互いまさかつい先日あった相手がマンションの隣室同士だとは思っても見なかったのか、その日はお互い特に何かあるわけでもなく当たり障りのない挨拶だけで解散となったのだが。


 どういうわけなのかそれ以来、彼女はこうして浩樹にちょっかいを掛けてくる事が増えた。

 浩樹を見つけては向こうから声を掛けてきてはこうやって絡んでくる。


 あんまりにも軽いノリで来るものだから最近は浩樹の方も口調が砕けて殆どタメ口になっている。

 正直、鬱陶しいとは思わないでもない。


「大した用もないなら俺はもう行くぞ。電車に乗り遅れる」

「あっそうなんだ、じゃあ行ってらっしゃい」

「はいはい、行ってきますよ」


 適当に流す為の言葉だったのだが、言った後になんだかこそばゆい気分になる。

 一人暮らしを始めてから終ぞ行ってきますなんて言った覚えがない。


 浩樹が窺うように後ろを振り向くと、彼女はすでに自分の部屋へと向かってるところだった。


 離れて行く背中を何とも無しに眺める。


 頭の後ろで纏められた髪が揺れる様がなんとなく猫の尻尾みたいだと思った。

 自由気ままに絡んできては興味がそれたらさっさと去って行く、そんな様子はまさに猫のそれだ。


 とすれば自分は気ままに弄ばれるネズミと言ったところか。

 そんな想像に、自嘲気味な笑みが自然と零れた。




 その日の昼休み浩樹が竜之介と昼食のために社食にやってきたときの事である。


「聞いてくださいよ先輩。今朝マキノちゃん役の声優さんがが活動休止するってネットニュース見たんっすけど。もう俺ショックでー」


 それぞれ注文したメニューを手に席に着いたとき、竜之介がそんな話を振ってきた。


 マキノちゃんというのは確か竜之介が今ハマっているアニメヒロインの名前だったはずだ。


「過労からくる適用障害って噂っすけど。心配っすよねぇ、役も増えてきてこれからって時に」


 正直マキノちゃんにもその声を当てている声優にもそれほど思い入れがないので、竜之介の話にあまり共感はしてやれなかったが、過労からくる適応障害という言葉がなんだか耳に引っかかった。


「なあ、声優の仕事ってそんなにハードなのか?」


 そう浩樹が尋ねると、竜之介がキョトンとした顔をした。


「珍しいっすね、先輩からその手の話題に興味もつなんて」

「いや、まぁちょっとな」


 らしくない質問を指摘されて少し気恥ずかしくなる。

 確かに今まではアニメの話などはそれなりにしたことがあったが、声優についてなんて興味を示すことはなかったように思う。


 正直自分でもどうしてこんな質問をしたのかよくわからない。ただふと、目元にうっすらと隈を浮べていたお隣さんの顔が頭をよぎったのだ。


「で? 実際のところどうなんだ。楽じゃないだろうことはなんとなく想像できるが」


 声優の業界に詳しいわけではないが、芸事で食っていくというのが並大抵の事ではないであろう事くらいは素人でも想像に難くない。

 ただ具体的にどうものなのかと言われると正直想像もつかない。


「まぁ、実際声優の仕事って結構ハードらしいっすね」


 僕もネットや漫画で聞きかじっただけの俄っすけどね。と前置きをしたうえで竜之介は知っていることを話してくれた。

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