第2話

「あっ! ち、違うんです」


 狐に抓まれた様な気持ちで浩樹が立ち尽くしていると、同じようにぼんやりとしていた女性が突然何か慌てた様子で話し始めた。


「あの、わたしは怪しい物ではなくって、いやこんな時間にこんな所にいる時点で充分怪しいだろって思うかもしれないけど、ほんとにちがくって。けっして賽銭泥棒とかそんなんじゃ」


 突然、聞いてもいないのにあれこれ早口で言い訳される。

 状況を把握しきれていなかった浩樹だったが、慌てる彼女の様子を見て取り合えず自分が想像していたような事件は端から起こっていなかったと言うことようやく理解する。


 理解したら力が抜けた。


 何事もなかった事への安心感やら、勇んでいた自分への恥ずかしさやら、色々な感情がない交ぜになって浩樹がその場で項垂れていると「あのぅ」と窺うような声。


 顔を上げると浩樹の事をのぞき込むように見るさっきの女性の顔がある。


 ……思っていたよりもずいぶん若いな。


 最初に声を聴いて浩樹が想像していたの三十台前半くらいの大人びた女性だった。


 しかし目の前にいるのはわずかにあどけなさが残る二十代前半、下手をすればまだ十代のなのではないかと思えるような。

 女性というよりは女の子といったほうがしっくりくる娘だった。


 鈴の音ような高く可愛らしい印象的な声だが、石階段の下で聞いたときはもっと大人びた声だったような気がする。一体どういうことなのか?


「えーと、わたしのこと注意しにきたんじゃ?」

「あーいや、俺はただの通りすがっただけで」

「あ、そうなんだ? なーんだ、ビックリしたー。突然オジサンが怒鳴り込んでくるもんだから、てっきり賽銭泥棒にでも間違われたんじゃないかって」


 突然のオジサン呼びに若干ムッとするが、彼女はそんなこと気にすることもなく「でもさ」と話を続ける。


「じゃあ、オジサンはここに何しにきたの?」


 その質問に浩樹の言葉が詰まった。


 一体なんて答えたものか、逡巡している内に女の子があっと何かに気づいたような顔をする。


「……ひょっとして、私が本当に襲われてると思って助けに来てくれた、とか?」


 図星を突れ、ばつの悪さから思わず視線が逃げる。


「え、ホントにそうなの?」


 反応で察せられたのかとちょっと驚いた様に言われて、もう浩樹は恥ずかしさでたまらなくなった。


「へー、そうなんだー。えへへ」


 言いながら目の前の彼女がニヤニヤと嬉しそうに笑う。

 なんだか馬鹿にされたような気がして浩樹は益々ムッとした。


「……なにがそんなに嬉しいんだ」


 ムッとしたままそう聞くと、彼女は「だって」と嬉しそうな笑みを浮かべたまま。


「それだけ私の演技が真に迫ってたって事でしょう?」


 演技だって?

 言われて見れば彼女の手には何やら台本らしき紙束が握られている。


 そこでようやく合点がいく、つまり彼女はここで劇かなにかの練習をしていて、あろう事か自分はそれを本気にしてしまったというわけだ。なんて間抜けな話しだ。


 浩樹は自分の軽率さを呪うが目の前の彼女はえへへと嬉しそうに笑うばかり。


 俺を欺したことがそんなに嬉しいか? とそんな事を思ったがそれを口に出したところで恥の上塗りにしかならない事はわかっているので黙るしかない。


「……そう言う君は一体こんな所で何をしているんだ? 演劇の練習か?」


 こんな所で、紛らわしい事してんんじゃねぇ!。

 という大人げない台詞を、限りなくオブラート包んだその質問に彼女は首を横に振る。


「わたし、演劇なんてやってないよ」


 でも、演技をしていたって自分で言っていたじゃ無いか、そう思いながら浩樹が怪訝な顔をすると。


「わたしがしてたのは演劇の演技じゃなくて、声の演技」


 女の子は持っていた台本を顔の前に掲げ。


「わたし、こう見えて声優なんだ」


 と、なぜだかえっへんと胸を張ってそう言った。


「声優?」

「あ、声優っていうのはアニメのキャラとかに声を吹き込んだり、映画の吹き替えとかをする人で」

「いやいい、説明されなくても声優くらいわかる、ただちょっと意外だっただけだ」


 昔は裏方のイメージが強かった声優も、最近では華やかな職業として志す若者も増えたとは良く聞く話しだ。

 しかし実際にそれを生業としている人物に合うのは浩樹には初めての経験だった。


「ちなみにどんな役をやってるんだ」


 物珍しさから、つい深く考えずとそんなことを聞くと彼女はぎくりと体を固くして気まずそうに眼を逸らした。


「いやぁ、役はこれからもらう予定といいますか、俺たちの戦いはこれからだと言いますか、なんというかー」

「……なんかすまん」

「謝らないで! ていうかまだ声優になったばっかりってだけだから。こっから一気に人気声優になる予定だから」

「ふーん、そうか」

「だからそう言う、生あたたか~いリアクションやめて!」


 そんな話しをしながら、浩樹は何とも無しに誰もいない境内を見回す。


「にしても何も夜遅くにこんな人気の無い場所で練習しなくてもいいんじゃないのか? 仕事熱心なのは結構だが、ご両親も心配されるだろう」


 老婆心から思わず口からでた言葉だったが、親という言葉を口にした途端、さっきまでニヤついていた、女の子の顔が明らかに厳しい物に変わった。


「別に、私一人暮らしだから、心配する親なんていないし」


 口をへの字にして話すその表情は、まるで拗ねた子供の様で明らかに不機嫌な態度だ。


 どことなく幼い印象から、勝手に実家住まいを想像してしまったのは失礼だったかもしれないが、それにしてもここまで露骨に不機嫌になるとは。


 もしかしたら親と上手くいってないのかもしれないと勝手に想像してみるが、人様の家庭事情を慮った所で意味は無い。


「それじゃ俺はこの辺で失礼するよ。邪魔して悪かったね」


 浩樹はそう言って踵を返しさっき上ってきた石段を今度は下っていく。


 しかし二、三段降りたところでふと魔が差した。

 悪意があったわけではないとは言え、恥を掻かされてこのままというのもなんだか面白くない。


 浩樹は石段を降りていた足をいったん、止めて振り返る。


「あんまり親を心配させてやるなよ、家出娘」

 皮肉たっぷりにそう言ってやると、女の子は案の定その小さな口を益々への字にした。


 ささやかな意趣返しの悦に浸りながら浩樹が改めて石階段を降りていくと、背中から「べーっだ」という不機嫌な声が聞こえてきて子供かよと内心突っ込みを入れる。


 石段を降りきったところで、浩樹はチラリと神社の方を振り返った。


 ここからではもう彼女の姿は見えない。

 もう練習に戻ったのか、耳を澄ますと微かに声が聞こえたが、さっきの事を気にしてトーンを落としているのか何を言っているのかはっきりとは聞こえない。


 一体いつまでやっているつもりなのか。

 時計を確認すると針はもうすぐ午後八時を回ろうとしている。

 流石に日を跨ぐ前には帰るとは思うが。


「なんて、俺が気にすることでもないか」


 しょせん今日偶々あっただけの他人だ。

 心配する義理もないし、されたところで向こうも迷惑だろう。


「……にしても今日は、厄日だったな」


 口にした途端、仕事とは関係の無い疲れがどっと押し寄せてきた様な気がした。

 



 家に帰りネクタイを緩め、スーツの上着を脱ぐ。


 寝る前に缶ビールの一本でも飲みながらのんびりしょうかと思っていたが、もうそれすら面倒くさい。


 今日はさっさとシャワーを浴びて寝よう。

 そう思い着替えの準備をしていると、隣の部屋に誰かが帰ってきた気配がした。


 確か隣の部屋は空き部屋だったはず。

 一瞬そう思ったが直ぐにその考えを改める。


 そういえば一週間前、隣の部屋へ荷物が運び込まれていたのを思い出す。


 その時は出勤する所だったので、引っ越してきた人の顔を浩樹は見てはいなかったのだが、仕事から帰って来ると引っ越しの簡単な挨拶と改めて訪ねて来ることが書かれた手紙が小洒落た焼き菓子の入った紙袋に入れられ、部屋のドアノブに引っかけられていた。


 今時律儀な人だなと思ったが。生活リズムが合わないのかそのお隣さんとはまだ一度も顔を合わせられていない。


 一体どんな人なのだろうか? と少し興味が湧いた。

 しかしこんな時間にこちらから挨拶に窺う訳にもいかない。


 まあ同じマンションに住んでいるのだから、その内顔を合わせる機会くらいあるだろう。

 そうやって、不意に浮かんできた興味を脇に置いて浩樹は浴室へと向かう。


 もう少し先になると思っていたお隣さんとの顔合わせ。

 しかしその機会は思ったよりもずっと早くやってきた。




 翌日の朝、浩樹は玄関から聞こえる呼び鈴の音で目を覚ました。


 せっかくの休日なのにと眉間に皺が寄る。


 居留守決め込んでこのまま寝ていようか。

 そんな無精な事を考える浩樹を急かすように二度目の呼び鈴が鳴る。


「すいませーん、隣に越してきた物です。御挨拶に窺ったのですがー」


 若い女の人の声。

 寝ぼけ頭で一瞬混乱するが、直ぐにお隣さんが尋ねてきたのだと言う事を理解する。


「ああはい、今行きまーす」


 布団から這い出て玄関へと向かう。


 律儀に挨拶に来てくれた人を居留守で無視するのは忍びない。

 何より隣に越してきたのがどんな人なのか興味があった。相手が若い女性となれば尚のこと。


 着替えくらいした方がいいかと一瞬葛藤するが、そこまでするのは期待しすぎているような感じがしたので却下。


 洗面台の鑑で最低限の身だしなみを調えてから、玄関の扉へ手を掛ける。


 そこで今更ながら気が付く。

 そういえばさっきの声どっかで聞いたことがあるような。


 そんな疑問を持ちながら扉を開いた瞬間、浩樹の動きがぴたりと止まった。


「初めまして。私、隣に引っ越してきました、宮原みやはら守瑠まもるって言います。これからよろしくお願いします」


 挨拶を終えて改めて浩樹の顔を見た瞬間、お隣さんの動きが止まった。

 お互いの顔を見ながら固まる二人。


 声に聞き覚えがあるはずだ。

 なんせ――


「昨日のオジサン?」

「オジサン言うな」


 目の前にいたのは昨日の夜出会った、あの子だったのだから。

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