君の夢へ愛をこめて

川平 直

謎のお隣さん

第1話

 ……疲れた。


 今までぶっ通しで作業を続けていたがここに来て集中力が切れた。


 目がチカチカする。ずっとパソコンの画面とにらめっこしていたせいだろう。


 気が付けば日も落ちて、部屋の中はすっかり暗くなっていた。電気を付けるのも忘れるほど作業に没頭していたことに驚く。


 どうしてこんなことをしているのだろう?


 不意にそんな事を考えた。


 五年間勤めた会社を辞めたのが昨日、いやもう夜の十二時を過ぎているから一昨日の話になる。


 会社になにか不満があったわけじゃない。

 働いた分の給料はちゃんともらえていた思うし、上司にだって不満はなかった。自惚れでなければ後輩にもそれなりに好かれていたと思う。


 五年も働いていたのだからそろそろ昇進の話の一つくらいあったかもしれない。

 突然辞めたから、沢山の人にも迷惑を賭けただろう。


 なんて馬鹿な事をしているんだと、自分の事を俯瞰している何かがそう嘆いた。


 ……やめてしまおうか、やっぱり。


 そんな言葉が頭の中に響く。


 こんなことしたところで上手くいきっこない、無意味だ。

 そんなことは放り捨てて楽になろう。


 そんな甘美な言葉に靡きかけたその時、ふとパソコンの脇に置いてあった物が目についた。


 それは一冊の本と小さな名刺入れ。


 それを見た瞬間、萎えかけていた何かが力を取り戻す。


 買いだめした栄養ドリンクを一息に呷って気合いを入れ直し、止まっていた作業を再開する。


 薄暗い部屋の中にカタカタとパソコンのキーを叩く音だけが響く。


 俯瞰する何かは、今もなにを馬鹿なことをと呆れている。

 構うものか。

 そんな物の相手をしている暇はない。


 やらなければならない事が、今の自分にはあるのだから。


                 *


 どうしてこの仕事をしようと思ったのか? そう尋ねられれば給料がそこそこで、福利厚生がしっかりしていたからだと有村ありむら浩樹ひろきは答える。


 この会社で、浩樹は営業の部署に配属されているが、自分が望んでなったわけではない。人員移動で偶々そうなっただけだ。


 別にこの仕事にやりがいを感じた訳でも、会社に憧れを持っていた訳でも無い。


 この会社に勤める様になってから五年、歳は今年で二十七になるが転職を考えた事は今まで一度も無かった。


 仕事があって毎月給料がもらえて、アパートだが帰る家もある、身の丈に合った安定した生活こそ、真っ当な生き方であると言うのが浩樹の人生哲学だ。


 その日一日パソコンとにらめっこしながら作った書類データをいつもの様に会社の提出用フォルダに提出。


 時計を確認すると定時まであと十五分ほど余裕がある、今日は久し振りに定時ちょうどに上がることができそうだ。


 固まった体を解すために軽くストレッチでノビをする。


「あ、先輩今日はもう上がりすっか?」


 隣のデスクから声を掛けてきたのは、浩樹が仕事の面倒をみている後輩の矢部やべ竜之介りゅうのすけである。


「まあな、そっちはどうだ? 仕事残ってるなら、手伝ってやろうか?」

「いやいいっすよ。僕も今日の分の仕事はもうとっくに終わってるんで。今は明日の分の確認とか整理をちょっと」

「……ほんと可愛げの無い後輩だなお前は」


 明るい髪色にメガネを掛けどことなく軟派な印象を受けるこの男だが、存外その仕事ぶりは有能と職場では評判だ。


 実際、浩樹も面倒をみるように言われはしたが、教える事なんて殆ど無かったように思える。


 パソコンの扱いには慣れているし、物覚えも早く、何より人見知りをしないその性格は営業ではこれ異常ない武器でもある。 


「そんな事無いっすよ。よく見て下さい、ホラこんなに可愛い」

「可愛くねえって言ってんだよ。ぶりっ子ポーズをするな気色の悪い」

「えーそんな言い方無いじゃないっすか」


 そんな話しをしつつ、竜之介が開いていたウィンドウを閉じると、目に不健康そうな隈を浮かべた黒髪長髪の美少女がデスクトップに現れる。


 深夜アニメ『責任とってくれなきゃ死んでやる』通称『責死に』の神沢マキノというキャラで竜之介曰く、今期の俺の嫁とのこと。


 約三ヶ月事に変わる竜之介の嫁だが、今の推しは彼女という事らしい。

 ちなみに嫁や推しというのは一番好きなアニメや漫画のキャラクターを指すスラングのことだ。

 と、以前竜之介本人が解説してくれた。


 竜之介は春に入社した時からアニメオタクを堂々と自称している程のアニメ好きだ。


 浩樹は竜之介の入社当初、教育係としてのコミュニケーションの一環としてそんな彼の話をよく聞いていたので今ではそっち方向の知識がグンと増えた。


 その御陰かは分からないが竜之介とは不思議と馬が合い、今では昼食も一緒に食べたりするようになった。


 彼とは職場の後輩ではあり、少し年の離れた友人の様な関係になっている。


「ああ、そういえば先輩聞きましたよ。また契約取ったそうじゃないっすか、流石っすね」

「別に褒められる事じゃねぇよ。運が良かっただけだ」

「またまたご謙遜を。先輩今期契約数トップじゃないっすか。よっ営業部のエース」

「黙れ、引っぱたくぞ」

「なんでっすか! 褒めてんのに」


 パワハラだ、パワハラだと喚く後輩を無視していると、ふと「そういえば」と竜之介は話題を変えた。


「山中さん、近々退社されるらしいっすよ」

「え、そうなのか?」


 山中は浩樹の同期だった。と言っても仕事以外で話すようなことはほとんどなかったので言うほど見知った仲でもなかったが、それでも入社当初から知っている人物が退社するというのはそれなりに驚きだ。


「少し前に退職願い出したらしくて、具体的な時期はこれからだって話っすけど。なんでも北海道で農家始めるとか」

「北海道? またえらい遠くに引っ越すな」

「昔からの夢だったらしいっすよ、どうも」

「夢ねぇ、農家なんてしんどいだけで儲からないって聞くけどな」


 農家の経営状況に詳しいわけではないがテレビやネットで流れてくる情報を見ている限り、農家が儲かっているなんて話はほとんど聞かない。少なくとも今より経済面で楽になることなんてないように思える。


「安定した職を捨ててまで、夢を追うなんて、俺には理解できん」

「相変わらず冷めてるっすねぇ、そういうところ」

「俺は現実主義なんだよ」


 明日の仕事を確認したり軽くデスクの整理なんかをして時間をつぶしている内に十五分立って定時のチャイムが鳴った。

「おっかれ様でしたー」とそそくさ退勤する竜之介の背中に「お疲れー」と声を掛ける。


 浩樹も自身の荷物を纏め、不幸にも残業する羽目になった同僚達に、恨み言を言われながらタイムカードを切って会社を後にした。


 会社から自宅の最寄り駅まで電車に揺られること十分と少々。

 そこから更に、十五分ほど歩いた場所にある2DKのマンションが浩樹の一人暮らしの城だった。


 築年数が結構経っていて駅からそれなりに距離がある上、近くにはコンビニくらいしか無いと利便性はいまいちだがその分家賃が安いのが最大の売りだ。


 入社と同時に住み始めて五年。貯金も貯まって、いい加減引っ越してもいいのだが、別段不便に感じることもないので今もズルズルと住み続けている。


 道すがら不意に流れてきた、寒風にブルリと体を震わせる。

 季節は十一月初旬、そろそろスーツだけでは夜風が冷たく感じるようになってきた。


 人気のない夜道を歩きながら、明日は休みだし帰ったらビールでも飲んで一服しようか、とかそんな事を考えていた時だった。


「――やめてッ!」


 突如聞こえた女の人の悲鳴に、思わず肩が跳ね足が止まる。


 殆ど反射で声のした方角へ視線を向けると、そこには左右を雑木林に囲まれた石階段、声がしたのはその頂上からだ。


 強盗? 強姦? 通り魔?


 物騒な単語が頭の中に次々浮かぶ。


「おいおい、冗談だろ」


 思わず呟く。


 取りあえずまずは警察に連絡を――。

 そう思い鞄から携帯を取り出したその時。


「こっちに来ないで。いやぁぁぁぁッ!」


 石階段の上からまた声が聞こえる。


 もうすぐ目の前に危機が迫っている様な緊迫した声。


 ……今から警察を呼んだところで間に合わないかもしれない。


 浩樹はその場で大きく頭を振った。女性が襲われる凄惨な現場を想像しそうになったからだ。


 辺りを見渡してみても自分以外に人影はなく、助けは望めない。


 どうする? どうする? どうする?


 どれくらい葛藤していたのか。浩樹は気が付けばその足を石階段へとむけ、息を殺しながら一段、一段と上りはじめていた。


 寒気がするのにはじっとりと汗が滲むその手には、いつでも警察に連絡が出来るようにぎゅうと携帯が握られている。


 石階段の頂上に鳥居らしきものが見えた。

 どうやら頂上は神社か何からしい。


 その時ふと、警察官が犯罪者と相対したときまずは大声を出して威嚇する。そんな話をテレビで聞いた事を思いだした。


 大きく息を吸い、そして吐き出す。

 そうやって痛いほどに跳ね回る心臓を押さえつけ一息で残りの階段を駆け上がり頂上の鳥居を超えるなり腹に力を込めて。


「おい! おまえなにして――」


 叫ぼうとしたその声が途中で止まる。

 あまりにも凄惨なその現場に思わず声が詰まった……。


「……あれ?」


 というわけではない。


 猫の額ほどの小さな境内。その中にある小さな社をホームセンターで買ってきたような、無骨で小さなつり下げ式のライトがポツンと照らす。


 そんな中に若い女性の姿があった。


 クセッ毛気味の髪を髪ゴムで束ね、首元には赤いマフラー、ダッフルコートの裾からはレモン色のジャージが除いている。


 全体的に大雑把な印象を受ける装いで、特にマフラーは年期が入っているのか遠目で見ても結構ボロボロだ。


 ただ不思議とだらしなさやみすぼらしさのような物をあまり感じないのは、彼女の容姿がそれなりに整っている御陰だろうか。


 彼女は突然の事に驚いているようなぽかんとした表情をしている、ついでに浩樹も同じ様な顔をしている。


 何も無かった。


 どれだけ辺りを見渡しても浩樹が想像していたような凶行の後はなく、目の前の彼女以外、人の姿もない。


 状況が分からず、ぽかんとした表情で互いを見合う間抜けな二人がいるだけだった。

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