第6話
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自宅待機命令が解除されないまま、大晦日を迎えようとしていた。
いつもならば新年に向けた準備で賑わう町も、極楽党があらわれた直後とあって森閑と静まりかえっていた。通りを往来する人影はぽつりぽつり見かける程度で、その人たちすら外套の襟を立て、あるいは帽子を目深に被り、素性を隠すように歩いている。後ろめたさを負ぶって丸まった彼らの背中をカーテンの隙間から覗きながら、ネズミとネコは茶碗一杯の米を分けあった。
金と食料が底をつきかけていた。仕事に出られないから日銭を稼ぐこともできず、おいそれと外出できないから食料の調達もままならない。さほど幸福度が低くない人間ですら、ああやってコソコソ出歩かなくてはならないのだ。回収人なんかが外に出たらすぐに極楽党に目をつけられてしまうし、そうでなくても周囲から白い目で見られてしまう。
おまえたちが極楽党を呼びこんだようなものだ。みんなそう思っているに違いない。
「食べものはあとどれくらい残ってる?」
空腹で痛む胃をさすりながらネズミは訊ねた。
「ジャガイモが一個と、玉ねぎが一個。あとはお米が少し」
「商店街の外れの店に行ってこようか。あそこなら回収人相手にも商売をしてくれるし、裏道を使えば極楽党にも見つからないだろう」
「でも、このあいだだって倍の値段をふっかけられたじゃない。あいつら、私たちにだけ値段を上げてるんだよ。回収人なら高値でも買うからってさ」
金がなくなりつつあるのはそのせいもあった。もともと自由にものを買えない回収人がこんな状況で頼れる店は限られる。そういうところが、いまこそ商機とばかり回収人相手に法外な値段をふっかけているのだ。その値段で買うのは癪だが、地下鉄も極楽党の人間が監視しているから隣町まで行くのもリスクが高すぎる。結局、ネズミたちのように泣く泣く言い値を支払う回収人は少なくない。
「ほかに方法なんてないだろ」
米びつにわずかに残った米を掬うと、底が露わになった。まるで自分たちの人生の底を見たような気がして空しくなる。
背後で電話のベルが鳴った。きっと猿田からだ。ネズミは受話器に飛びついた。
「元気でやってるか」
電話口の猿田の声は浮かなかった。
「いまにも死にそうですよ」ネズミはやや苛立った声で言った。「それで、仕事は再開できそうなんですか」
「残念だが、まだ上からの許可がおりない。それに、極楽党が巷にのさばっているせいで、幸福誘発物を陳列しようってやからもすっかりいなくなった。町のどこを探しても、回収するものなんてないよ」
いよいよこの町からも幸せが消えていくな。猿田の言葉は諦めに似た響きを帯びていた。
「いまはおまえたちを受け入れてくれる町を探しているところだが、あんまり期待はしないでくれ」
受話器を置いた手で頭を掻きむしる。脳内に立ちこめる絶望のもやがどんどん膨らんで、頭が内側から破裂してしまいそうだった。ゴミ箱を蹴り飛ばそうとして振り上げた右脚をどうにか抑えつけ、その場にへたりこむ。
耳の奥で幸福度が下がる音が聞こえる。
「この町を出よう」
ネコはネズミの前にしゃがみこんだ。
「町を出るって、いったいどこへ?」
「保護区だよ」ネコはネズミの肩を揺さぶった。「保護区へ忍びこむんだ」
「無謀だよ。おれたちは外を出歩くだけでも危険なのに。それに、仮に町を出られたとしても、保護区にそう簡単に侵入できるとは思えない」
「でも、獅子堂って人は保護区からこっちへ出てきてるんでしょう。だったらその逆も可能なはず」
「そもそもまだあいつが獅子堂だと決まったわけじゃない」
ネズミは旧商店街で見た白服の男のことをネコにだけ話していた。もしかすると、獅子堂がこの町に来ているかもしれない、と。自分で言ったとおり、あの男が獅子堂だという証拠はない。しかし、あのとき彼に感じた印象は、これまで出会ったどの人間とも異なるものだった。その違和感について考えれば考えるほど、彼が獅子堂であるという予感は確信に変わっていく。
「いずれにしても、このままじゃ私たちは飢え死にするだけだよ。猿田さんだってもう頼りにはならない。だったらこっちから動かなきゃ」
憂鬱で重たくなった頭を持ち上げて必死に考える。確かにネコの言うとおり、このままではジリ貧だ。いつか金か食料が底をついてしまう。だったら、たとえ成功の可能性が少なくとも、この町を出る選択肢に賭けてみるべきかもしれない。
「わかった。町を出よう。ただ、昼間は目立つから決行は夜だ。それから」
「モグラも連れて行く、でしょ。わかってるって」
ネコはネズミの肩をポンポンと叩いて笑った。ネズミは心の奥にわだかまっていたものがすっきりと晴れていくのを感じた。思えばこれまでも、ネコのその屈託のなさに幾度となく救われてきた。この先どんなことがあろうとも、妹だけは幸せになってほしい。いや、幸せにしてみせるのだとネズミは静かに誓った。
すでに日は沈みかけていた。二人は大急ぎで準備に取りかかった。押し入れの奥から引っ張り出したリュックサックに、最低限の荷物とありったけの食料を詰めこむ。母の生前、学校に通っていたころに毎年遠足があったのを思い出して懐かしくなった。あのとき、私が途中でみんなとはぐれて泣いているのを、兄さんが見つけ出してくれたんだよね。継ぎ接ぎだらけのリュックサックを見ながら微笑むネコの横顔は、少しだけ母に似てきた気がする。
だが、準備を終えたあとに問題が起こった。モグラに何度電話をかけても応答がないのだ。重要な用事でもない限り外には出ないはずだが。ネズミは再びボタンを押す。十回、二十回とコール音が繰り返されるたびに嫌な予感が増していく。
「もしかしたら、食料の買い出しに行ってるのかも」
「こんな夜にか?」ネズミは時計を見る。「とにかく時間がない。まずはモグラの家に向かおう」
二人はコートに身を包み、帽子を深く被って外へ出た。外灯もまばらな夜の町は暗く不気味だった。思えば、こんな時間に外出すること自体が久しぶりだ。周囲を警戒しながら進んでいると、さっそく黒い制服姿の男を見つけ、慌てて民家の塀の裏側に隠れた。男が通り過ぎるのを息を殺して待ち、安全を確認してから進む。極楽党の人間たちはそこかしこにいて、ネズミたちは本当なら十分もかからない道のりをずいぶん遠回りして、ようやくモグラの家にたどり着いた。
「やっぱり留守みたい」ネコは明かりの点いていない玄関口を覗きこんだ。「どうする、兄さん」
「このまま帰りを待ちたいけど、あまりにも危険だ。今日のところは引き上げよう。決行は明日の夜でもいいわけだし」
二人はまた遠回りして来た道を戻ることにした。こんな時間に出歩いて、モグラの身に何もなければいいが。ネズミの胸は不安のためにざわついた。
帰りの道中でも何度か極楽党の人間に出くわし、彼らをやり過ごしながらようやく自宅アパートの近くまで辿り着いた。アパートの門の明かりが見えた瞬間、ネズミは安堵で膝が崩れそうになった。
「ネズミ!」
ふいに名前を呼ばれて、驚きのあまり肩を強張らせる。声のするほうを見やると、門の前にモグラがぽつんと立っていた。
「モグラ」ネズミは叫んだ「どこに行ってたんだ。おれたち、おまえを探してたんだ」
「僕もネズミを探してたんだぞ」モグラは右手に持っているものをネズミに見せつけた。「ほら、このあいだ修理を頼まれたゲーム機。クリスマスには間に合わなかったけど、どうしても早く届けたくって。ちょっと遅いクリスマスプレゼントだぞ」
そういってモグラがネズミたちのほうへ駆け寄ろうとした瞬間、音楽が鳴り始めた。
ジングルベル。ジングルベル。鈴が鳴る。
ちょっと遅いクリスマスプレゼント。モグラの言葉をそのまま表現するかのような旋律とともに、門の陰から数名の男たちがあらわれ、モグラにいっせいに飛びかかる。
「モグラ、逃げろ!」
ネズミが叫んだときにはすでにモグラは男たちに取り囲まれていた。警棒が振り下ろされ、いつだかと同じグシャッという音が響く。
「痛い。痛いよう」
モグラの絶叫が夜の静寂を切り裂いた。だが、男たちは手を緩めない。助けてと懇願されても殴るのをやめず、十回、二十回と警棒を振り続ける。そのあまりのおぞましさに、ネズミとネコは肩を抱き合い動くことすらできない。
「それくらいにしておけ」
もうモグラが声すら発しなくなったころ、人だかりの奥から白い制服を着た男があらわれた。極楽党員たちが彼のために道をあける。男はもはやモグラと判別することもできないほど顔面が歪んだ死体の前に立ち止まると、汚物を見るような目を足元へと向けた。
「呆気ないものだな」
ネズミは涙のにじむ目で男を睨みつけた。間違いない。旧商店街で見た男だ。
「獅子堂さん。あいつです。隣町でおれたちから逃げたのは」
取り巻きの一人に耳打ちされ、獅子堂はネズミのほうへ視線を上げた。氷のように冷たく、ナイフのように鋭い目だ。ネズミの背筋が一瞬にして凍りつく。
「本当ならおまえを待ち伏せするはずだったんだが、まあいい。どうせコイツもいつか殺さなければならなかったんだから」
獅子堂はモグラの死体を蹴り飛ばした。
「このへんで引き揚げるぞ。じきに騒ぎを聞きつけて自警団が来る」
獅子堂たちは闇のなかへと去っていき、あとには無残な姿になったモグラだけが取り残された。
「モグラ」
ネズミは動かなくなったモグラに駆け寄り、身体を抱き起こす。
「モグラ。おい、モグラ。返事をしてくれよ」
「兄さん、やめて。もう息をしてない」
モグラの身体を必死に揺さぶるネズミをネコが引き止める。
潰れた顔面からあふれ出した血が、肩を伝い、右手の先へと流れていく。ネズミに渡すはずだったゲーム機は粉々に砕け散り、地面に広がる血の海に沈んでいた。
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