第4話
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居間の電球が切れかかって、数秒おきにチカチカと点滅するのをネズミはぼんやり眺めていた。
極楽党の二人を撒いたあと、どうにか地下鉄に乗って無事に帰宅することができたが、荷物はついに見つからなかった。失望とともに重たい溜め息をつく。あのなかには替えの電球も入っていたのにな。しかも、少し値が張るけれども長持ちするやつが。
ネコは夕飯にほとんど箸をつけず、終始俯いたままネズミの話を聞いていた。膝の上に置かれた手が小刻みに震えているのが机の陰から覗いた。
「噂は本当だった。極楽党は隣町で不幸狩りを始めていて、兄さんも狙われたんだ。ねえ、その襲われたって人はどうなったの?」
「たぶん死んだと思う」
男の頭蓋があり得ない形に変形しているのをネズミは確かに見た。それに出血も酷かったし、とうてい無事だとは思えない。
「極楽党はきっとこの町にも来るよ。私たちを狩るために」
「おれに気づいたとき、やつらは小型の銃みたいなのを構えていた。たぶん、携帯式の測定器だと思う」
「ちょっと待って。それじゃあ、兄さんの幸福度が向こうに知られてるってこと?」
ネコは食卓に身を乗り出し、大きな瞳でネズミを見た。電球がチラつくたびに、恐怖で凍てついた彼女の顔が際立つ。
「まあ、たぶんな……」
「どうするの。もしこの町に兄さんが住んでるって知られたら、真っ先に狙われるよ。だいたい、どうして深追いなんてしたの? 声がしたからって、無視すればよかったじゃない」
「しかたないだろ。助けを求められたんだから」
「それで兄さんの身に何かあったら、残された私はどうするの」
返す言葉がなかった。ネコの言うとおり、昼間の行いは軽率だった。それはネズミも理解している。もしもあのとき極楽党の人間に追いつかれていたら、きっとあの男と同じ運命を辿ることになっただろう。原形を留めない自分の顔を見下ろして泣きじゃくる妹の姿を想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
「兄さんはお人好しすぎるんだよ」
ネコはゆっくりと擦り寄ってきて、ネズミの胸に顔をうずめた。彼女の肩に腕を回すと、華奢な体つきがはっきりとわかった。幸福度がもっと高ければ、もっといい仕事に就くことができれば、たくさん食べさせてやれるのに。悔やんでも悔やみきれない現状に、ネズミは悲しみをとおり越して憤りすらおぼえた。
「助けを呼ぶ声につられて死にかけて、お金に余裕がないのにモグラに奢ってさ。それにお母さんのときだって、私の代わりに」
母親のことを口に出した瞬間、ネズミの背中に回された腕にぐっと力がこめられた。
「あれはおれが自分の意思でやったことだ。おまえが気にする必要はない。でも、そうだな。確かにおれは自分のことで精一杯のはずなのに、他人のことばかり気にしてる。そのせいでおまえにもたくさん心配をかけた」
「いいの。責めてるわけじゃないし、そういうところが兄さんらしいって思う。でも、幸福度が底辺の私たちがどうなったって、世の中のみんなは助けてくれない。あいつらは私たちをしょせん薄汚れた社会不適合者だと思っていて、近寄ろうとさえしないもの。世界が私たちに優しくないのに、どうして私たちが世界に優しくしなきゃいけないの?」
ネコの口ぶりには世界という大きな枠組みに対する憎しみがこめられていた。回収人はこの世で最も惨めな存在といっていい。その肩書きを持っているだけでゴミ屑ほどの幸福度しかないことを露呈し、幸福誘発物に触れた手はまるでウイルスまみれのように思われている。レジに並ぶと露骨に嫌な顔をされ、病院ですら『回収人お断り』などという看板を掲げている。この仕事についてから、ネズミとネコは一度も店に髪を切りに行ったことがない。金がないからというのもあるが、何より店の人間が回収人の髪に触れたがらないからだ。髪型に無頓着なネズミは大して気にならないが、ネコは違う。風呂場で髪を切っているとき、彼女が隠れて泣いているのをネズミは知っている。
まるで生きていること自体を責められている気分だ。世界はネズミたちにとことん冷たい。ならば、こちらだって世界に優しくしてやる道理などないのかもしれない。ただ、互いが互いに冷たくなったとき、凍え死ぬのは決まって弱い立場の人間だ。明滅する電球を見上げながら、ネズミは言葉にならない思いがこみ上げてくるのを必死でこらえた。
その夜、ネコはネズミと一緒の布団で寝たいと言い出した。
「来月には十六歳だろ。まだ一人で寝られないのか」
「今日、お母さんの話をしたから、思い出しちゃって。どうしても一人で眠れないの。いいでしょ」
「しかたないな。今日は特別だぞ」
ネコはまるで本物の猫みたいに、そっとネズミの隣に滑りこむ。布団のなかで妹の手が兄の手を掴んだ。その力強さが、どんなことがあっても決して離さないでと言っていた。
「兄さんもお母さんのことを思い出す?」
「ときどきな。でも、なるべく思い出さないようにしてる」
「強いね、兄さんは。私はあの日のことをよく夢に見るんだ。妙にリアルな夢でさ。目覚めた後も恐怖と悲しみがしばらく続いて、息苦しくなる」
母はネズミが十五歳のときに死んだ。幸福虫に侵されてはいたが自殺ではない。頭がおかしくなって無理心中を図ったところを、抵抗したネズミに殺されたのだ。
物心ついたときには父はすでに幸福虫で死んでおり、母と妹との三人暮らしだった。母は子ども二人を学校に通わせるために朝から晩まで働きづめで、それでも愛情が足りないと思ったことは一度もなかった。きっと誰より大変なはずなのに、それを隠して笑顔を絶やさない。自慢の母親だった。ネズミが中学に上がってからは、稼ぎがいいからと夜の繁華街で働くようになった。ネズミたち子どもには接客業だと言っていたが、本当はどういう仕事をしていたのか想像はつく。母は子どものネズミから見ても美人だったし、言い寄ってくる男も一人や二人ではなかったと聞いている。
母は夜明け前に仕事から帰ってくると、眠っている子どもたちの部屋を訪れ、そっと抱きしめてから自分も眠りにつく。そのとき母から香るアルコールと香水、そしてその奥に隠された生々しい肉のにおいをよくおぼえている。当時、ネズミは反抗期まっただなかの繊細な年ごろだった。母がそういう仕事をしていることに嫌悪感がなかったといえば嘘になるが、それでもネズミたち兄妹を養うためなのだと思うと何も言えなかった。口には出さなかったが、いつか大人になったら立派な仕事で金を稼いで、この人に楽をさせてやるのだと心に決めていた。
だが、その夢は叶わなかった。ネズミが十五歳になった年のクリスマスに、仕事から帰ってきた母は眠っているネコの首をいきなり絞め殺しにかかった。悲鳴を聞いて飛び起きたネズミがネコの部屋に向かうと、ベッドの上で母が馬乗りになってネコの首を絞めていた。
「母さん、何をやってるんだ」
「死のう。私たち、幸せなまま死んでしまおう」
ネズミは母を引き剥がそうとしたが、逆に突き飛ばされ、壁に頭を強く打ちつけてしまう。窒息し、顔が真っ赤になっていたネコは、傍らの机に置かれたサンタクロースの置物を掴んで振りかざしたが、振り下ろすことができずにいた。
「死のう。これ以上、幸せになる前に死んでしまおう」
母は狂ったように言い続け、両手に更に力をこめた。どうにか立ち上がったネズミは、ネコの手から置物を奪い取ると母の側頭部めがけて思い切り振り下ろす。ドスン、という鈍い音とともに母が倒れた。
「どうして」
幸福虫に毒された白い血を流しながら、母は恨めしそうに言った。絶望に浸されたような、重たい声だった。
「どうしておまえは赤い血をしているの」
ネズミが自分の額を触ると、母とは対照的な真っ赤な血が手に付着した。
「おまえは不幸に愛されているんだよ」
それが母の最期の言葉だった。そのあとのことは、語る気も失せるような最悪の展開だ。ネズミは母親を殺害したということで警察に連行され、やがて正当防衛が認められて罪にこそ問われなかったが、頼れる身よりもなく、また事件のショックで幸福度が落ちこんだために受け入れてくれる施設や学校もなかった。ネコも同じように幸福度が最低レベルに振り切れて、揃いも揃って不幸のどん底に落ちた二人が流れ着いたのが回収人の仕事というわけである。
「極楽党はジングルベルを鳴らしてるんでしょう。仏教なのかキリスト教なのかわかんないね」
「おそらくやつらに宗教や信仰への敬意はないんだろう。ただ名前を借りただけで」
「極楽はともかく、クリスマスは嫌い。ねえ、私たち、あのとき死ねばよかったのかな」
暗がりのなか、ネコの瞳が寂しげに輝いた。
「馬鹿なことを言うんじゃない」
あの日のことを思い出すたびに、身悶えるような後悔に苛まれる。母は女手ひとつで、身体を売ってまで子ども二人を育てようとしてくれた。親子三人のなかで最も苦労したのは母に違いない。その母が幸福虫に感染したということはつまり、あれだけの大変な思いをしてもなお、子どもたちとの暮らしに幸福を感じていたということだ。だが、ネズミたち兄妹は満足できなかった。幸せに飢えていた。そうではないといくら言い張ったところで、事実がすべてを物語っている。もしもあのとき自分も幸福虫に侵されて、母と一緒に死んでいたなら。その考えは拭えない。
幸せになるのだと心に決めた。必ず保護区へ移住して、不幸と決別するのだと兄妹で誓いあった。だが、あれから三年が経とうとしているいまでも、幸福度は最低ランクから抜け出せない。二人の時間はあの年のクリスマスから止まったまま、明けない夜のなかをもがき続けている。
「母さん。ごめんよ。ついにおれたちは幸せになれなかったよ」
ネズミの呟きは十二月の冷たい夜気に溶けて消えた。いつの間にかネコは眠りについて、ささやかな寝息がネズミの首筋に伝わる。
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