第3話

   3


 休日にはわざわざ隣町のスーパーマーケットまで買い出しにいかなければならない。


 アパートの近くにも店があるにはあるが、ネズミが幸福回収人だということが店主にバレているので、前をとおるだけで露骨に嫌な顔をされる。回収人とは難儀な職業だ。日ごろ幸福誘発物に接するリスクを負っているうえに、よからぬ偏見まで持たれている。回収人の手には幸福がべったりまとわりついている。あいつら自身はどこまで行っても不幸な人間だから問題ないが、そうでない人間はあの手に触れられただけで幸福度が跳ね上がってしまうから気をつけろ。小学生の稚拙ないじめとまるで変わらないが、根拠のないデタラメを信じて回収人を忌避する者は案外多い。あるいは、幸福を自粛することで溜まった鬱憤を、回収人に八つ当たりしてくる人間もいる。おまえらが幸福を片っ端から回収するから、この街には何にもなくなったじゃないか。そんな的外れな言いがかりをつけられたことも一度や二度ではない。


 いつだったか、酔っ払った男が暴言とともに石を投げつけ、それがネコの額に当たったことがあった。


「おい、何をしやがる」


 瞬間的に頭に血がのぼり、男に掴みかかろうとするネズミをネコが制止した。


「いいの。私は大丈夫だから」


 額を押さえる指の間から血が滴っていた。赤黒いその色は、ネズミたち兄妹が不幸であることの証明のようにも見えた。必ず保護区へ行こうね、兄さん。傷口を押さえながら告げるネコの悔しさに満ちた顔がいまでも忘れられない。


 隣町だから回収人だとバレないとわかっていながらもコソコソしながら買い物を済ませ、通りを地下鉄の駅の方角へと歩く。土曜日とあって人通りは多く、家族連れやカップルとおぼしき男女とよくすれ違う。両親に手を引かれて歩く女の子が、覚えたてであろう赤鼻のトナカイを楽しそうに歌っている。もしかすると、クリスマスを祝うために、今年は幸福度の上昇するようなイベントを我慢してきたのかもしれない。この世界では幸福に生きるのも不幸に生きるのも骨が折れる。


 駅まであと少しというところで、目抜き通りを切り裂くように声が響いた。


「助けてくれ」


 声の出処は雑居ビルに挟まれた路地の奥からだった。ネズミのほかに数名が立ち止まったが、路地のほうを薄気味悪そうに一瞥してとおりすぎていく。


 嫌な予感がした。と同時に、何があったのか知りたいという気持ちも起こった。しばらく悩んだ末に、ネズミはそっと路地に入りこんだ。


「見逃してくれ。お願いだよ」


 男の泣きじゃくる声が繰り返し響き渡る。誰かに追い詰められているのだろうか。もしかすると、借金でもして取り立て屋に追われているのかもしれない。そんなことを考えながら進んでいると、ゆるしを乞う声に紛れて音楽が聞こえてきた。


 ジングルベル。ジングルベル。鈴が鳴る。


 ネズミはハッとして立ち止まった。回収人仲間から聞いた話が脳裏に蘇る。


『ジングルベルが鳴ったら気をつけろ』


 路地の曲がり角から顔だけ出して奥の様子をうかがうと、地べたにへたりこむ男を取り囲むように二人組が立っていた。極彩色の曼荼羅が描かれた制服に身を包み、学生帽のようなものを被った姿は噂に寸分違わぬ出で立ちだった。


 間違いない。極楽党だ。


 男は両手を合わせ、神に祈るようなポーズで二人に助けを乞う。


「おれを殺したって、幸福虫はなくならない。不幸な人間から幸福虫が生まれるなんて嘘っぱちだ」

「おまえは獅子堂さんが嘘をついているって言うのか」


 二人組の片方が脅すような口調で詰め寄った。


「獅子堂さんを愚弄するなんて、まったくもって許し難い行いだ。そうでなくても、不幸な人間に生きる価値などないというのに」


 もう一人は腰にさげていた黒い警棒を振りかざすと、男の脳天めがけて一気に振り下ろした。


 グシャッという音とともに男が低いうなり声を上げ、崩れ落ちる。グシャッ、グシャッ、グシャッ、グシャッ。二人組はなおも倒れた男を警棒で殴り続け、そのたびに男の身体が力なく跳ねた。傍らに置かれたラジカセからはジングルベルの明るい戦慄が鳴り響いていて、それがかえって猟奇性を際立たせていた。


 やがて男の身体がぴくりとも動かなくなると、二人組はようやく殴るのをやめた。原型をなくした頭から流れ出した血があたりに広がり、その生々しい臭いにネズミは思わずえずいてしまう。


「誰だ」


 二人組がいっせいにこちらを振り向いた。右手には警棒を、左手には玩具の銃のようなものを手にしている。


 ネズミは考えるよりも先に走り出していた。


「待て」


 二人組もすぐさま追いかけてくる。路地を出たネズミはとりあえず駅と反対側、つまり中心街の方角へと向かった。人通りの多い方角に進んだほうが逃げ切れる可能性が高いと踏んでのことだった。人混みを押し退け、とにかく走り続ける。足が重たく感じるたびに、つい先ほど襲われていた男の変形した顔面を思い出して自身を奮い立たせた。あの二人から必ず逃げなければ。


 後ろから聞こえる怒鳴り声が徐々に小さくなっていき、やがて二人組の姿が見えなくなると、ネズミは傍らのガードレールにもたれかかった。汗に濡れた首筋を冬の風に撫でられて、ひどく寒気がした。


 極楽党の二人が持っていた銃のようなものは、おそらく回収人仲間が言っていた携帯式の幸福度測定器だろう。どれほどの精度があるのかわからないが、ネズミの幸福度も知られてしまったかもしれない。


 まだ激しく拍動している左胸に手を当てて、あたりを見わたす。どうやらスーパーマーケットの前まで戻ってきたらしい。と、そこでネズミはようやく両手に何も持っていないことに気づいた。きっと連中から逃げる途中で手放してしまったのだ。


「やっちまった。一週間分の食料だったのに」


 ネズミは地面に座りこみ、ぐったりと項垂れた。通りを往来する通行人が見てはいけないものを見るような視線を投げかけてくる。涙が出そうだった。


 どうしてこうなるのだ。ただ幸せになりたいだけなのに、いつも悪いほうへ悪いほうへとばかり向かっていく。


 古びたスーパーの看板は真ん中の一文字が欠け、地下駐車場の案内板が満車に変わる。車が欲しいな、などという突拍子もない考えが浮かんだ。こんな辛い世界を飛び出して、ネコと一緒に綺麗なものを見て回りたい。いや、そんな大それたことではなく、ほんの少し遠出して、新しい景色を見られればそれでよかった。いま見えているものだけが、感じているものだけがすべてではないということを確かめたかったのだ。


 ただ、実際はどうだろう。稼ぎの少ない仕事に追われ、世間から疎まれ、命まで狙われて、掴んだはずのものもいつのまにか手放してしまっている。


 結局のところ、幸福度が低い人間にはささやかな幸せすらゆるしてもらえないのだろうか。


「やっぱりおれは、不幸に愛されているんだ」


 嗚咽とともに漏れ出した言葉は休日の喧騒にかき消された。

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