夏が乾いてゆく匂いがした
川本 薫
第1話
「好きな人がいるんだ」
大好きな彼からそう打ち明けられたのは5月だった。
その彼が好きだという彼女にも忘れられない彼がいた。
私の思い→彼の思い→彼女の思いは、まるで飛行機雲みたいに真っ直ぐに決して横には進むことができなかった。
土砂降りの雨が街を暗くする6月の夜。、私にはそのチャコールグレーの夜がちょうどよかった。
梅雨明けなんてしなくてもいい。
好きな彼女がいても部屋にやってきては煙草を灰皿に押し付ける彼の指が好きだった。
雨があがった青々とした7月の空。
「なんかいいことありそうだな」
思わず彼がそう言ってしまう空は眩しすぎた。 『なにかあったら言ってね』と頼ってしまったら、すぐにそっぽを向く言葉みたいで。だから空が晴れる7月はネットで雨の音を探した。カーテンを締めてフルボリュームで部屋を梅雨に戻した。そんなことをしたって……、ねぇ、なんにも変わらないというのに。
そんな7月、土曜日から世の中は3連休。
「海に行くけど? 」
彼の彼女としてミュージャン仲間から私も誘われて4台の車で海へとむかった。これまたまっすぐに横並びはできないままに。
水着に着替えて上からメンズのXXLのTシャツをバサッと被って更衣室から出たら
『太っ、足、めっちゃ太いじゃん!! 』と彼の友達たちに馬鹿にされ、私は浮き輪を持ったまま足が見えないようにずっと海につかっていた。
「温泉じゃないよ!! 」
と知らない人にまで笑われながら。
彼が彼の友達たちと砂浜でビーチボールをするのも海につかったまま見ていた。
お昼前になって
「なぁ? あそこに見える店でなにか食うか? 」
彼に言われて私は海から出た。
シャワーを浴びて着替えた。彼以外はまだ砂浜でビーチボールをしていた。
「他の人は? 」
「帰りはさ、別。彼らはまだ遊びたいらしい」
彼が浮き輪の空気を抜いて、駐車場入口の足洗い場でもう一度、足についた砂を洗い流した。
駐車場から見えた砂浜は果物が陳列されたみたいにカラフルだった。
車で1分ぐらいで着いた海沿いの喫茶店は、喫茶店なのに窓際に座敷があった。
「いらっしゃい、どこでも好きな席にどうぞ」
彼は座敷を選んだ。
「ここから見えるね、さっきの砂浜」
「ああ、海ってさ、その時は楽しいけど、めっちゃ疲れるよな。だから早めに帰って少し横にならんと──」
「なに? おじいちゃんみたい!! 」
私が笑うとメニュー表を持ってやってきたおじいちゃんが苦笑いした。
「海はね、体にたまった何かを流すんですよ。だから一気に眠くなんじゃろうねえ……」
メニュー表をひらく前からナポリタンかオムライスだな、と思っていたら、
「嫌いじゃなければ、肉うどんとおにぎりがオススメだよ。サービスで食後にコーヒーをつけます」
おじいちゃんはメニュー表を手渡しながらまるで開くなよと笑ってるようにも見えた。
「肉うどんってこんなに暑いのに? 」
「暑いからね、逆に身体は冷えてるわけ。嫌じゃなければオススメだよ。コーヒーはサービスするから」
この言い方はどっちかだ。不味い肉うどんとカピカピのおにぎりが出てくるか、体の芯までしみるような美味しい肉うどんが出てくるか──。
「じゃあ、俺はざるうどんとむすびで」
「わ、私は肉うどんとおにぎりで」
「かしこまりました。ざるうどんと肉うどんとおにぎりですね」
おじいちゃんはそういうと厨房に「肉、ザル、むすび2」と叫んでカウンターに置いてあったポットとグラスを2つテーブルの上に置いた。そして
「他のお客さんもおらんけん、ゆっくり寝転がって待っときんさい」
彼にそう告げた。
お互いが壁に持たれて足を伸ばした。まだこれから夏休みが始まるというのに
「なんかもう夏の終わりの匂いがする」
彼は呟いてまた窓の方を見た。
「お待たせしました」
テーブルの上に運ばれてきたのは俵型のおむすびがのせられたお皿と肉うどんのどんぶり、ざるうどんがのったざるだった。
肉うどんからたちこめてくる湯気が眼鏡を曇らせる。
「なんか喫茶店っていうより食堂みたいだね」
「美味しければ、どっちだっていいわ。それよりこのむすび、具が何もないのに塩加減が絶妙で旨い!! 」
私は先に肉うどんを食べた。
食べ物を口にして泣きたくなるという表現を小説で読んだことがある。そんな馬鹿な!! と思っていたけれど、その肉うどんは一口、口にしただけで染み込んできた。おじいちゃんが言ったように肌は焼けてるのに、心の中までは火が通らないもんなんだ。まるで自分を焼き魚みたいに脳内で考えて、その染み込んできた肉うどんに手を当ててもらったような気持ちになった。
「何? 涙ぐんでんの? 」
「いや、なんか沁みてきて、心が冷えてたんだなって──」
私の言葉に彼は無言だった。
ただ見てるだけ。なのに7月の空と海は見せつけるような青さであやふやなものの輪郭をすべて目の前ではっきりと浮かび上がらせた。
5月に別れるはずだったあの夜が、また目の前にやってきた。
「ごめん」
「いいよ、仕方ない」
お互いが箸を置いた時、
「アイスがいいですか? ホットにしましょうか? 」
おじいちゃんが私達に聞いてきた。
「じゃあ、アイスふたつで」
私が返事をする前に彼は返事をしておじいちゃんが厨房に入ると彼は
「駄目だな。やっぱり」
となにが駄目なのか言わないまま、また海を見た。
いつもはブラックで飲むアイスコーヒーにミルクもシロップも入れてストローでかき混ぜた。
この曖昧な気持ちも全部、かき混ぜて一気に流し込みたい。
多分、これが最後だなと思って、海を見ながらアイスコーヒーを飲む彼をじっと目にやきつけた。
こんな気持ちさえも同じではいられないのだな、と1枚だけ鮮明に保存するみたいに。
「帰ろうか? 」
私がアイスコーヒーを飲み終えると彼はすぐに立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」
「美味しかったです。また来ます」
レジでそう言って会釈した彼を見ながら私は喫茶店の外に出た。
焼けるような陽射しなのに震えが出た。
車から降りたら別の道だ。
もう決して交わることはない。
なぜかわからない。
物凄く眠たかったのに、車のエンジンをかける音から、熱くなったシートの温度から彼がBluetoothで流したaikoの声まで私は必死で掴もうとしていた。いつか誰かに全部、聞いてもらうために。
「なんか、ごめん。2ヶ月も宙ぶらりんで紛らわせて」
「いいよ。もう」
窓の外の景色はものすごいスピードで変わって、あっという間にマンションに着いた。
「じゃあ、元気でね」
「ああ──」
彼は車から降りてはこなかった。私も振り向かずにマンションの玄関をそのまま締めた。
部屋に戻って廊下の照明だけつけて
──どうして彼じゃなきゃいけなかったんだろう? ──
そんなことを思いながらシンクの上に置いてあった灰皿をゴミ袋に入れた。
夏はまだこれからだというのに、髪の毛からは夏が乾いてゆく匂いがした。
夏が乾いてゆく匂いがした 川本 薫 @engawa2023
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