第65話 海軍の台所

「正式に配属されたわけじゃないですが、料理人です」


 大翔ひろとが言うと、ワタリはぱっと顔を輝かせた。そして大翔の手をつかみ、立ち上がらせる。


「なんだ、それならこんなとこにいなくていいだろ。俺、厨房なら分かるから案内してやるよ」


 大翔が返事をするより先に、ワタリは歩き始めてしまった。大翔は戸惑いつつ、手をつかまれたまま彼についていく。


 大翔が泊まっていた船室から階段を一段降りてずっと奥にいくと、そこが探していた厨房だった。想像していたより遥かに近くにあったが、体調のせいか全く気付かなかった。


「ついてこいよ。班長に聞いてやるから」


 ワタリに招き入れられるままに扉を開くと、焼けたパンの匂いと、割られた大量の卵が目に飛び込んできた。壁際には棚と調理台が並び、新鮮な野菜がそこにおさまって調理されるのを待っている。


 時折、調理器具の間を通り抜けるごつい男の姿が見える。チームは少数精鋭なのか、厨房にさざめく声は聞こえない。それでも厨房内は綺麗に片付けられていて、気持ちの良い場所だった。


 目が回っていた大翔だったが、コンロや包丁の音を聞いていると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。慣れというのは自分にも適用されるのだ、と改めて思い出したような感じだ。


「ちょっといいっすか」

「おう、どうしたワタリ?」


 きちんと髪をまとめ、白い上っ張りを身につけた男が振り向いた。


「こいつ、料理人だって言うんですよ。船の中で迷ってたから連れてきたんすけど、何か聞いてませんか?」


 大翔がおずおずと名乗ると、男はああ、とうなずいた。


「その名前なら分かるよ。どっか外国から来た男だろ。この前は、病気だって言われてた兵たちをたくさん治療したんだって?」


 愛想良く笑う男はヒグチといい、この船の調理班長だという。すらっとした体型の長身の男性で、よく似た立ち姿の奥さんの写真も見せてくれた。


「治療というより、栄養不足が原因だったので。向こうでも何度も言いましたけど、俺は医者じゃないですから」

「謙虚だね。お前さんから見て、この船の食事はどうだ」

「そうですねえ……」


 タンパクの多い卵や肉もしっかり使われているし、置いてある丸いパンも全粒粉らしく色のついたものだ。これなら、各種ビタミンが不足して脚気が起こる可能性は低い。


 念のため一週間の献立をチェックしてから、大翔はつぶやいた。


「……この食事内容なら、海軍で脚気が流行るってことはなさそうですね。誰か、メニューの改善を提案した方がいらっしゃるんですか?」


 大翔が問いかけると、ヒグチはとても嬉しそうに白い歯を見せて笑った。


「ああ。タカっていう医官が外国の食生活を研究されてな。ヒノエであまりとらない食材を献立に入れてみたら、病気にかかる兵がガクッと減ったんだ。偉い方がいらっしゃるもんだよ」

「その情報、陸軍と共有したりしなかったんですか? 同じ国なのに」


 それを聞いたヒグチは、口元を歪めた。


「へん。あんな偏屈で頭が悪い連中、教えてやったところで素直に聞くもんかよ。未だに、これまでの食事が最善だと信じて疑わないような奴らだぜ」

「そんなものでしょうか……」

「お前も海軍にぜひ参加してくれ。強い軍になって、あいつらを蹴散らしてやる」

「あー……こっちの国でも陸軍と海軍は喧嘩してるのか……」


 蹴散らす相手が違うんじゃないだろうか、と思ったが、大翔はそれ以上つっこまないことにした。


「まあそれは置いとくとして。何か手伝いでもさせてもらえませんか?」

「いや、あんた客だろ? いいよ、無理しなくて」

「何もしてないと船に酔うんです……」


 大翔が懇願すると、ヒグチはようやく了承してくれた。


「とりあえず、芋の皮でも剥いてもらおうかな。ダメそうだと分かったら、その時点で部屋に戻ってもらうぞ」


 ここでも上っ張りを貸してもらって、大翔は袖をまくった。


「おう、様になってるなってる。包丁はこっちだ」


 そう言ってヒグチは壁際の棚に近付いた。棚の鍵を開けて、中から包丁を取り出す。


「包丁は使い終わったら必ずここに戻すからな。毎日、本数がそろってるか確認してるんだ」


 取り出された包丁の刃面はきらっと光っていて、よく手入れされていることが一目でわかる。大翔は言われた作業をすぐに終え、洗った包丁を棚に戻した。


「できました」

「おお、きれいじゃないか。じゃあ次は、煮物の具合でも見てもらうか」


 ヒグチはにこにこしながら言う。使えそうだと思われたことに安堵して、大翔は棚に近付いた。


「ちょっと、匙でも借りますね。どこかな……」


 大翔は手近な引き出しを開けようとして、妙な手応えを感じた。何かがひっかかっているように、引き出しが開かない。


「あれ……」

「ああ、鍵がかかってるんだ。そのままじゃ開かないから、引き出し下のつまみを動かしてくれ」


 何故、と聞きかけて大翔はやめた。その時船が揺れ、卓の上に置いてあったボウルが少し動いたのだ。確かに、陸と海では勝手が違う。


「なるほど、引き出しが勝手に振動で開かないための鍵か」

「そういうことだ。開け方は分かったな? 後は自分でなんとかしてくれ」


 大翔は納得しながら匙を取りだし、煮物の方へ向かう。こちらも振動対策か、鍋というより密閉できる深い釜といった感じだ。子供なら二・三人丸まって入れそうなほど大きい。その中で、芋と人参のような野菜がくつくつ煮えていた。隣では、割った卵を溶き入れ、スープと混ぜながら汁物を作っている。


「あれ」


 大翔は釜の下を見てつぶやいた。炎のようなものが一切見えず、床に釜が付着しているように思えたからだ。他の小さな鍋やフライヤーのところにも火は見当たらない。


「艦内の動力機関から発生した熱を利用してるんだ。船内でへたに火を使うと、火事になった時大変だからな」


 調理員から説明を受けて、大翔はなるほどとうなずいた。煮物の味を少しだけ濃いめにして、その場を離れる。今日のメインはフライものらしく、フライヤーの中で油が熱してあった。


「揚げ物、いいですね。デイトでもたまに作ってたかなあ」


 用意された衣を見てみると、天ぷらに近い作り方だった。久しぶりに天ぷらを載せた蕎麦でも食べたい、と思うと、大翔の口の中に唾がわく。


「へえ、デイトじゃどんなやつだったんだ?」

「衣はもっと薄くて……パンがたくさんありましたから、その粉と香辛料を混ぜて、衣にしてるんです。サクッとして美味しいですよ」

「じゃあ、ひとつ作ってみるか」

「え? もう、メニューは決まってるんじゃ」


 大翔が驚くと、ヒグチは笑った。


「海軍では食べさせる兵の数が少なめだから、わりとメニューに融通がきくのさ。デイト風特製フライ、楽しみにしてるぜ」


 肩を叩かれて、大翔は腕をまくった。ちょうどアジのような魚が目に入ったので、少し辛みをきかせたフライを作ることにする。下処理をして衣をつけておき、フライヤーが空くのを少し待つことにした。


 その間にソース作り。卵と油、酢があるので、自家製マヨネーズを作ってそこに刻んだピクルスを投入。さっぱりしたタルタルソースの完成だ。フライヤーでからりと揚げたアジフライにつければ、極上の旨みを生むだろう。


「お、美味そうに揚がったじゃないか。これなら評価も期待できるな」

「評価って?」

「新しい料理が出ると、隊員たちが匿名で投票するんだよ」


 つまり大翔たちの世界の○×投票のようなもので、○が多ければ採用、逆なら二度と戻ってくることはないということか。大翔は納得した。


「船って他の娯楽が少ないからな、マズい飯にはみんな黙ってないんだ。ボロクソに言われて消えた品目は数知れずだよ」

「ですよねえ……大丈夫かな」

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