第61話 夢の中の君

 女性がその声に気付いたように顔をあげた。想像よりもはるかに年をとった女性で、周囲よりもはるかに強い腐臭が、彼女の体から漂ってくる。


 大翔ひろとが呆然としていると、誰かと間違えているのか、彼女がこちらに向かって手を伸ばしてくる。唇もわずかに動いていた。


『たすけて』


 彼女は一本調子でそう繰り返す。大翔はどう言ったらいいか分からなくて、戸惑った。


「あ、あの……」


 ごくりと喉を鳴らして話しかけようとすると、いきなり意識が遠くへ飛んだ。ミルカが前に出てきたのだ。


『……どうしてあなた様がこんなところに。一緒に帰りましょう、デイトの大地はあなた様を待っています』


 ミルカは必死に目の前の老女に触れようとするが、空中に見えない壁があるようにはじき返される。テルースはしきりにまばたきをして、その様子をじっと見守っていた。


 不意に、さっと目の前が暗くなった。今まで見えなかった壁が、にわかにその実体を見せる。それは太い蔦で、女性をがっちりと抱え込み、誰にも触れさせないようにしていた。


『おいよせ、ミルカ』


 大翔が止めても、ミルカは必死になって蔦をかき分けようとしていた。蔦に生えている棘で手を裂かれても、意地になって止めようとしない。


『少しは俺の体のことも考えろ! 料理人が手を使えなくなったら、どういうことになるか分かってるのか!』


 ミルカがはっと手を引くと同時に、蔦がより女性の周囲に集まった。目の前が暗くなり、さっきまであった霧が次第にすうっと消えていく。


「テルース様、もうすぐです。もうすぐ、ミルカが参りますから」


 ミルカが叫ぶ声がする。大翔の体は、女性をまっすぐ正面から見つめる形になった。


 泣き声が二つ重なってわんわんと大きくなり、頭が締め付けられそうに痛くなって──不意に、闇が途切れた。





「……夢か……」


 飛び起きた大翔は、目を見開いた。暗闇は消え、窓から朝日が差し込んでいる。簡素な寝台に、作り付けの棚。時々揺れるように感じるのは、ここがヒノエに向かう船の上だからだ。


「そうだ、川を下って、港から船に乗ったんだ……」


 そうつぶやき、不安になってふと自らの手を見やった。大丈夫。自分でひっかいたような傷は二・三カ所あるが、大きな異常なし。あれは夢だったのだ。


 ようやく現実世界を認識した大翔は、大きくため息をついた。嫌な汗をかいて、衣服が濡れている。まるでホラー映画を見た後のようだ。


 大翔はよろけながら起き上がり、服を総取り替えする。着替えの時に上衣を替えようとして目をつむると、さっきの恐怖が蘇ってきた。特にあの暗いところに生えていた不気味な蔦と、悲壮感に満ちた老婆の顔。


「まあ、神様がみんな若い姿って無意識に決めつけてた俺も悪いんだけど……」


 そう思ってから、大翔は壁にかかった時計を見た。


「……朝食の時間か」


 振り返って、あかりを揺り起こす。彼女は、いかにも眠そうにゆっくりと目の周りをこすった。


「……寝てたのか。ホントに神経太い奴だな。俺、暴れてうるさくなかったか?」

「夜になったら寝る以外になにかあるか。ま、確かにちょっとうなされてたな」


 しゃべったら意識がはっきりしたのか、寝癖のついた髪を振り乱しながら、灯は元気に部屋の中を飛び回っている。逆に大翔はぐったり疲弊して、朝食もほとんど喉を通らなかった。


「ちょっと船酔いかも。俺の分、よかったら食べていいから」


 灯は固めのパンにかじりついているが、そう言い置いて大翔は食卓を離れる。誰とも会話することなく船に戻り、また寝床に横たわった。眠れる可能性は低そうだが、なんとか体を休めようとあがく。


 しかし寝転んでうつらうつらした途端、脳裏にうっすらと光っていた女性の姿が浮かぶ。思い出しても幸薄そうな感じがする老女だった。


 あれが、テルース。ミルカが一緒に暮らしていた相手。依代の存在を忘れるほど、必死に助けようとした相手。


 あの夢は、現在の彼女と何か関係があるのだろうか。あの不穏そうな場所は、いったいどこなのだろう。いくらヒノエ側が連れて帰っていいと言っても、一筋縄ではいかなそうだと大翔はため息をついた。




「着いたで。身支度しておいでや」


 サワラギに言われて、ベッドに背をもたせかけていた大翔たちは立ち上がった。大翔は荷物をラシャに持ってもらい、灯に肩を借りてようやく下船する。船酔いなのか夢のせいなのか、体調は今までで最悪だった。


「迎えの馬車が来るみたいだから、座って待っていよう」


 港の周りには、小さな食堂がいくつか軒を連ね、煮炊きの煙をあげていた。そのうちの一つが、丸太を転がしたようなベンチを持っていたので、断った上で座らせてもらう。灯はさっそく食欲を見せて、おにぎりのようなものを買っていた。いつの間にかサワラギから金をもらっていたらしい。


「いるか? 飲食代、お前の分もあるぞ」


 おにぎりは焼いてあるのか、香ばしいいい匂いがする。それでも、大翔の体に食欲は湧かなかった。


「しばらくいいよ」


 断ってから、大翔は周りを見渡す。冬だというのにデイトよりだいぶ日射しが強く、まぶしい。行き交う人足たちが、汗をかきながら向こうに見える馬車に荷物を積み込んでいるのが見えた。


 十分ほどそこでいただろうか。不意に、飯を食べ終わった灯が近付いてきた。


「おい、誰か来るぞ。立てるか?」

「あ、ああ。大丈夫……」


 気を遣わせないよう一人で立ち上がったが、大翔の体は、まだ元に戻っていなかった。足がしびれて、うまく力が入らない。それに、体の平衡感覚が狂って景色がゆらゆら揺れている。


 ついに言うことをきかない体の操縦を誤り、つんのめって転びそうになった大翔を、誰かがさっと支えてくれた。


「大丈夫ですか?」


 ふと上を見る。視界に入ったのは、スタイル抜群ですらりとした体格の士官だった。顔も切れ長の目にきりっと整った眉を備えた、ラシャとは反対な感じの和風な美形である。彼が袖と襟に繊細な金のモール飾りが入った紺制服を着ていると、モデルもかくやという雰囲気だった。ただ、腰にある軍刀が無言の存在感を放っている。


「すみません。ちょっと船に酔ったみたいで……ご心配かけました」


 大翔は彼の肩をつかみながら、体勢を立て直す。しっかりした生地の制服に少し皺が寄ってしまったが、士官は嫌な顔ひとつしなかった。


「船、では……お聞きしていた客人ですか。皆、ひと目見てみたいと心待ちにしていましたよ」


 士官は嬉しそうに大翔に寄ってきた。大翔は困惑しながらも一応握手したが、灯をさしおいて自分が挨拶したことを少し後ろめたく感じていた。


「あの……」

「そこの同い年くらいの嬢ちゃんも神憑きや。相変わらず見た目は綺麗なのに、人を見る目がないな、ツカサ」

「サワラギ……」


 後ろに立っていたサワラギが茶化すと、士官──ツカサは、あからさまに嫌そうな顔をした。ラシャが、我が意を得たりとツカサに微笑みかけるのが見える。この二人は気が合いそうだな、と大翔は思った。


「知らないものは仕方ないだろう。そうやってお前は、すぐに人の揚げ足をとる」


 ツカサは額に手をやって、困惑の意を示した。サワラギは全く意に介さず、早く案内してくれという。


「分かりました。すぐに宿にご案内します」

「アホか。その前に、兵宿舎に寄ってもらわな困るわ」

「兵の宿舎?」


 首をかしげるツカサに、サワラギは続けて言った。


「兵の間に不安が広がっとるんや。異国の『神憑き』はどんな化け物かってな。一回顔見せして、予想より怖い連中じゃないってとこを見せとかんと、暴走する奴が出てくるかもしれんで」

「それは困るな……」


 話をするのも嫌、という感じだったが、士官はうなずいた。それからあちこちに連絡をとるため少し待たされ、後に馬車に乗せられる。


 幸い、地面に立つと大翔の症状も落ち着いてきた。自動車で慣れているからかもしれないが、船ほど気持ち悪い感じはない。


「さあ、着きましたよ」



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