第52話 悲劇への階段
「なんで。ちゃんと返すって言ってたのに。なんでこんなところに隠してあるんだよ!!」
『……答えは一つしかないよ、ユト』
ツァリがため息をついたような音が聞こえた。ユトの心の片隅にあったわずかな疑惑が、確信に変わる。父は少なくとも、この件に関しては堂々と嘘をついていた。
『家族を守りたいと思うなら、君が覚悟を決めて話し合わなきゃ。今ならまだ、引き返せる。本当に両親が道を踏み外してしまったら、妹と弟とも二度と一緒に暮らせなくなるよ』
ユトは首を振った。ツァリの言う通りだ。たとえ自分がどう思われても、ここで止めなければ父は犯罪に関して歯止めがきかなくなるかもしれない。
勇気を出して、家を抜け出した。そして一気に、神殿に向かって山道を駆け上がる。一度目より遥かに条件が悪いはずなのに、ユトの足はさっきより滑らかに動いた。
低い山であっても、山頂の気温は低い。神殿──古くなった遺跡を流用して神殿に仕立てあげたもの──の中には近代的な設備なんてもちろんないので、屋内に入ってもひんやりしていることには変わりなかった。
用意されていた飾り付けの布を少々借りて、ユトは体に巻き付ける。けっこう注意を引く格好だったが、もう神殿の中は閑散としていたので問題ないと判断した。
足音を殺して、こっそり神殿の奥に忍び込む。人が詰めかけていた時とは様子が違って、居並ぶ古い石像はなんだかこちらを叱ろうとしているように見えた。
その中を首をすくめながら歩いていくと、前方に父を発見した。父は荷車に何かを乗せようとしているらしく、思うように動かない車輪に悪態をつきながら油をさしている。
忙しく動いている父に声をかける前に、ユトはふと一つ扉が開いているのに気付いた。父の目を盗み、その扉の中に入ってみることにする。
そこには大きな石造りの泉があって、水が一杯に満ちていた。ここまでは昼間見たものだ。──しかし今はそこに、人が浮いている。なんだか顔色が妙に白くて、ぴくりとも動かない中年男性が。
ユトは思わず泉に飛び込んで、岸まで男性を引っ張りあげる。しかし、男性の体にはすでに体温がない。それに、生きている人間が、こんな顔色になるわけがなかった。思わず腰が抜けてへたりこんだ先にあった水は、今までと違って腐ったような臭いがした。
「なんで、こんな……」
思わず、泣き出しそうな情けない声が喉から漏れていた。胃液が喉の方に上がってくるのを止められず、取り落とした布の上にユトは嘔吐する。
夢だ、と思いたかった。しかし実際、ユトとツァリが運んだ水のせいで人が死んでいるのだ。水がないと思い込んでいて、落ちて溺れたのか。
「それも違う」
男がまとっている服は、父と同じ教団所属員のものだ。儀式の様子も見ていたに違いない。それなのに、なぜうかうかと溺れたのか。じゃあ、この男は──もしかして。父がわざと、ツァリが水を運んだ日に呼び寄せて、殺したのか。あの荷車は、死体を運び出してどこかに隠すために用意していたのではないか。
自分が思ってもよらない局面に立たされたことで、ユトは混乱していた。だから、背後から近寄ってくる足音にも気付かなかった。
その音が耳に届いた瞬間、ユトは慌てて隠れようとしたが、父の目はごまかせなかった。父は唯一の出入り口に立ちふさがり、あっさり逃げ道を塞ぐ。
「どうした? ユト。見てしまったのか、それを。誰に聞いてここへ来た」
「父さん、これは一体……」
ユトが問うと、父は箍が外れたように一気に話し出した。
「そいつはとても悪い奴なんだ。いつも俺を虫けら扱いして、嫌味を言ってきてた。公には奇跡なんて起こるはずがない、水なんて出せるものなら出してみろなんて言っていたよ。そういう奴には神罰が下る、ただそれだけの話だ。母さんだって賛成してた」
「そういう問題じゃない……神罰って言ってるけど、実際に殺したのは父さんじゃないのか」
「手を動かしたのは父さんだが、それは神の意志によるものだ」
ユトの精神に追い打ちをかけるように、父が憎々しげにつぶやく。しかし憎しみの色があったのは最初だけで、父はすぐに喜色を浮かべた。
「いやあ、泉いっぱいに水が詰まってると分かった時のお前の顔、見物だったぞ。これまでのいざこざは、あれで水に流してやってもいい。……あれ、うまいことを言うつもりはなかったんだがな」
ユトは、隣で嗤っている父の顔がまともに見られなかった。人の死をあっさり笑うこの男は、もはや獣になってしまった。それが残酷すぎる現実だった。
「……父さん、罪を打ち明けてくれよ。そんな理由での殺人は、どの宗教でも認められちゃいないんだよ」
ユトは精一杯の力で食い下がった。しかし、それは逆効果にしかならなかった。
「……もし父さんの責任を問うなら、大活躍したお前の責任も問わなきゃいけなくなるな」
「なっ」
言葉が心に刺さった。それを確認するように、父はユトの顔をしっかり見据えながら言った。
「そもそも、こいつが今日ここにやってきたのは、奇跡がある可能性を否定しきれなかったからだ。教団内でいい位置につきたがってたこいつは、口では否定しても俺に出し抜かれる可能性が残ることに耐えられなかったから来たんだ。分かるか? お前という奇跡の存在がいなければ、もともと今日という機会もなかったんだ」
その可能性を否定できないユトは黙ることしかできなくなった。そんなユトの頭をなでながら、声だけは父の面影を残した獣が得意そうに言う。
「仲良くやろうじゃないか。お前はもう、俺と同じ人殺しなんだから」
ユトは何か言おうとしたが、言葉が出なかった。かわりに、少しでも違うところに行きたくて──駆け出した。
疲れが限界に達するまで走って、どれくらいたっただろう。出し抜けに張り詰めていたものがなくなって、ユトは半ば転ぶように山道に腰を下ろした。
しゃがみこんで荒い息をなだめても、しばらく言うべき言葉が思いつかなかった。それほどまでに、取り乱していたのだ。
『ごめん。ひどいことになっちゃった』
健気に謝るツァリの声で、ユトの胸はずきりと痛んだ。
「……ツァリのせいじゃない。俺だって知らなかった。両親が、あんなどうしようもない人間だなんて」
そう言いながらも、ユトは肩を落とした。話すと、混乱していた思考が少し整理される。ユトと弟妹たちの置かれた状況は、想像以上に悪かった。
これから自分はどうすればいいのか。両親とうまくやっていくことなど不可能になった、今では……。
『捨てて逃げる? 君一人ならなんとでもなるよ』
ツァリの問いにしばし間をおいて、ユトは答えた。
「……こういうことをする人間なんだ。俺が逃げたら、ミトとセトが何をされるか分からないだろ」
情けない、とユトは内心で本音を吐いた。今言ったことは本音ではなく、弟妹を言い訳にしていることは分かっていた。心から両親に腹を立てることが、未だにできないのだ。それをしようとすると、過去の思い出が立ち上がってきて邪魔をする。
だから、両親にはバカにされている。幼稚な自分が本気で反抗してくるはずがないと見透かされている。そこまで分かっていて、それでも二人を見捨てられない自分が、嫌いになりきれない自分が、ユトは無性に情けなかった。
『しょうがないよ、それが君なんだから。……こうなったら、せめて僕だけは最後まで付き合わないとね』
言葉が本音とは違うと分かっていても、ツァリはユトの意思を優先してくれた。その優しさが、唯一の友の存在だけが、ユトの心を癒やしてくれる。
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