第50話 小さな泥棒
次の日とその次の日は快晴で雲一つなく、ユトは浜辺には近付かず過ごした。まだ少しだるかったのもあるし、汗ばむくらいの陽気の中、本来なら仕事に出ているはずの両親が二人ともそろって家に居たから、家族水入らずを楽しみたかった。
二日目の昼時になると、魚料理で腹を満たした弟妹たちは熟睡しており、ユトもそれを見守りながらうとうととまどろみかけた。しかしその時、部屋の反対側から呼ぶ声がする。
「ユト、起きているか。ちょっとこっちに来なさい」
起き上がったユトを父が手招いた。卓の上に食事の用意もされていないし、何か手伝いを言いつけられる様子でもない。いつもと違う様子に緊張しつつも、ユトは指示に従い父の横に座った。
「これから言うことは、他の誰にも話しちゃいけない。守れるか?」
父がやけに神妙な顔をして言うので、ユトはうなずいた。
「ツァリという力がお前に宿ったというのは本当のようだ。昔からそういう不思議な存在はあちこちにいて、いつの間にか神に祭り上げられたという話は父さんも聞いたことがある」
やはり独自宗教──海や山そのものを絶対神として崇めるという──を信じている父は、ツァリを神として認める気はなさそうだった。しかし、存在自体は否定されなかったので、ユトはほっとした。
「うん。昨日、たくさん魚が捕れたのもツァリのおかげだよ。だから」
「その力を見込んで、一つやってもらいたいことがある」
父の話を聞いて、ユトは仰天した。なんと、この辺りで最も裕福な網元の蔵から、貴金属を盗んでこいと言うのだ。
「そんなことしたら捕まっちゃうよ」
ユトはこの力を使って、人の役に立つつもりであった。てっきり父は「漁を手伝う」とでも言うかと思っていたので、意外に感じて少し鋭い声をあげる。
父はまあまあ、とでもいうように片手を上げてユトを制した。
「怒るな。これはおかしなことじゃないんだ。昔、母さんが大きな指輪を持っていた。母さんの母さん──つまりお前のおばあちゃんが、結婚祝いにくれた指輪。それは高価だったが、母さんはずっと大事に持っていた。思い出の品だったからな」
「うん」
「しかしこちらで家を借りる時、網元は抵当だといってその指輪を取ってしまった。ちゃんと家の賃貸料金は払っていたのにな。おかしいと思わないか?」
「……それは、思うけど」
父は重々しく言うが、ユトは何か変だと思った。母から一度もそんな指輪の話を聞いたことはなかったし、裕福な網元が欲しがるようなものを、うちの家族が手に入れられるなんて信じられなかったからだ。
だが、ユトの中には嘘を言う父の姿はなかった。だから、指摘せず向こうの話を黙って聞くことになる。
「お前には、うちの指輪を取り戻す手伝いをしてほしい。網元は貴重品を厳重な警備の蔵にしまいこんでいると聞くが、水なら自由自在に狭い隙間を通れるだろう」
「それは、そうだけど……」
「頼む。母さんのためでもあるんだ。計画ならちゃんと考えてあるから」
父さんは本当に、そんなことを望んでいるの。そう確認したかったが、ユトの体は少し後ろに引けている。自分の一言で、家庭内に決定的な亀裂が走るのが怖くて、知らぬ間に逃げていた。
「……分かったよ」
上目遣いで父を眺めながら、ユトは長く息を吐く。心の中でツァリが叫んでいたが、気付かないふりをしていたらそのうち静かになった。これも聞いていた通り、神は依代が完全に拒絶すれば表に出てこられない。
それから父に、網元の屋敷の簡単な地図をもらった。蔵の位置とだいたいの見張りの人数、巡回してくる時刻などを聞かされ、作戦を覚え込ませられる。父は時々雑用で網元の家に行っていたから、内情はよく知っていた。幸い、そう複雑なものではなかったのでユトにもすぐ覚えられた。
そして作戦決行当日。両親に見送られ、ユトは仕方無く覚悟を決めて駆け出した。
『本当に……やるの?』
『俺だってちょっと迷ってるよ。でも、父さんを信じたいって気持ちが強いかな』
正直に本心を打ち明けると、ツァリがくすりと笑うのが聞こえた。そして、彼は言う。
『なら、今回は手伝うよ。できるだけ、誰も傷つけないように穏便にいこう』
『助かる』
ツァリにそう言ってもらえて、ユトの気分は一気に楽になった。
幸い、誰にも見つからず、父に指定された塀の一角まで来られた。ここの下に植え込みがあって、塀を乗り越えた後はそこに隠れられるという。
「よし、これくらいなら……」
ユトが足を曲げ伸ばししていると、ツァリが待ったをかけてきた。
『登るよりいい方法があるよ。僕の中でちょっと待ってて』
言われるがままに体の主導権を明け渡すと、ツァリはなぜか塀の下側を指さした。しばらく待っていると、塀の下の土がぼこっと盛り上がってくる。
蛇か、と一瞬思った。しかし、土を押しのけて出てきたのは水の塊で、ツァリが軽く首を振るとまたどこかへ消えていく。
『地下水を動かして、塀の下に空洞を作った。見回りは、普通侵入者は塀を越えてくると思って無意識に上を見るものだからね。下を移動した方が見つかりにくいよ』
『神様って便利なもんだよな……』
ユトがため息をついている間に、ツァリは急造のトンネルをくぐった。狭い通路を芋虫のようにして這って進むと全身が濡れた土にまみれたが、程なくして塀の内側に出ることができた。
『大丈夫かよ?』
『うん』
顔の泥を拭って、植え込みの隙間からユトは外をのぞく。見張りは通り過ぎてしまったのか、ここにはいなかった。立ち上がって蔵の方へ近づき、蔵の裏手へ回る。父に教えてもらった通り、蔵の裏側には換気窓があった。
もちろん、窓といってもごく小さなものだ。子供でも頭しか入らないような代物で、見回りもそのことを分かっているため、あまり長く蔵の裏側に居座ることはないと聞いていた。その言葉の通り、窓の下はひっそりとしている。
『誰もいないな。今のうちにやってしまおう』
ツァリは息をひそめて、また地面を指さす。地下水がしみ出してきて、小さな蛇のように空中でうねり始めた。
その水を、ツァリは換気窓から蔵へと送り込んだ。ばれないよう、物を壊さないよう、ゆっくりと。
程なくして、ツァリが指を握り込み、拳をぐっと己の方へ寄せる。それと同時に、水がするすると外に向かって流れてきた。時々、水の中に影のようなものが見える。あれがおそらく盗み出した品だろう。
品は指輪一つだけでなく、いくつもあった。どうやら、側にあったものを全て持ってきてしまったらしい。ツァリはしまったな、という顔をしながらも、荷物を懐におさめる。本当にやってしまったのだ、という実感がユトの中にわいてきた。
『他の物はどうするんだよ』
『帰って君の父さんに相談する。これ以上君の体力を削ったら、逃げられなくなるかもしれないからね』
ツァリの力を借りるということは、ユトの体力を削るのだとこの時教えられた。どおりで、ここ数日だるさが取れなかったわけだ。
『もう時間がない。君に体を返すから、急いで脱出して。見張りが来るよ』
我に返ったユトは、自分の手足が動くことを確認すると、来た時と同じくそろそろと穴を目指した。最後に横目で見た蔵にはなんの変化もなかったが、誰かが追いかけてくるかもしれないという恐怖は拭えなかった。
塀をくぐり抜け、走って走って、ようやく家に辿り着いた時には、体がくたくただった。すぐに床にへたりこんだユトを、母親が抱きかかえる。ユトは最後の力を振り絞って手に入れた物を彼女に渡し、そのまま気絶するように眠った。
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