第49話 水の力は汝のものに
次に目を開いた時、目に入ったのは見慣れた家の天井だった。知らぬ間に意識を失っていたのだ、と気付いてユトは起き上がる。
「おお、ユトが気がついたぞ!」
「どこも痛くないの? 大丈夫なのかい」
両親の顔が見えて、ユトはほっとした。
「大丈夫だよ、ちょっと眠ってただけだから。ごめん、心配かけて」
ユトが言うと、両親はやっと笑顔になった。なんでも、海辺でばったりと倒れているところを漁師たちが見つけて運んでくれたのだという。
「お兄ちゃん大丈夫ー?」
幼い妹と弟も寄ってきて、寝台の周りは急に賑やかになった。ユトは苦笑して、寝台から降りる。
「うん、なんともない。もう暗くなったから、明日はたくさん遊ぼう」
「やった!!」
母は急いで夕飯の準備に戻る。弟妹たちがユトの側を離れたがらないため、結局鍋を寝台の方まで持ってきて固まって食事をすることになった。いつも豪華だとは言えないが、今日はいつにも増してスープの中身が薄い。
「母さん、これじゃ足りないよ」
「お腹すいた」
下の姉弟たちが騒ぎ出すと、母は困ったように眉を八の字にした。
「ごめんね、今日は食材が少なくなっちゃって」
その顔を見て、ユトはなんとなく何があったかを察し、複雑な気分になった。
「もしかして、俺を運んでくれた人に何か渡した? そのせいで、夕飯の分の食材かお金がなくなっちゃったのか?」
母が言いよどんだことで、それが真実だという確証をユトは得てしまった。
「本当にごめんなさい……」
うなだれ、謝ることしかできなかった。村の人とは、打ち解けているとはお世辞にも言えない。自分を運んでもらった以上、何かしておかなければ関係が悪化する一方なのだろう。ただでさえ、こちらの方が弱い立場なのだ。
あんな声なんて、無視すればよかった。両親に不便をかけ、弟妹が空腹を訴えている現状が情けなくて、ユトは泣きたくなってくる。
そんな気分を切り裂いたのは、弟妹たちの声だった。
「うん。それなら我慢する。あたし、大丈夫!」
「ぼくもー」
二人はさっきまでぐずっていたのが嘘のように、明るく振る舞い始めた。ユトが気に病まないようにと、あえてそうしているのだ。
母はそんな二人を優しい目で見つめ、父はユトを振り返った。
「ほら、思い詰めるな。食べなさい」
「……うん」
この家族の役に立ちたい。自分にできることはなんだろう。ユトは心の中で、ずっとそう考えていた。
すると、夜中になって、誰もが寝静まった後──少年の声が聞こえてきたのだ。
「どうしたんだ。今日はうちの手伝いはいいから、ゆっくり休んでいなさいと言ったじゃないか」
「もう元気になった。今日は、父さんにどうしても見せたいものがあるんだよ。ほら、こっち」
ユトが制止を振り切って歩き始めると、父はしぶしぶ顔でついてきた。
「どうした? 森に行きたいなら、逆だぞ」
追いついてきた父が、声をかける。ユトが漁師の子供たちを避けて森で遊んでいることを、知っているがゆえの発言だった。
「……うん。今日は、海でやりたいことがあるから」
返事をしながら、ユトは昨日聞こえてきた声のことを思い出していた。うとうとして、そろそろ眠りに落ちようとした瞬間、聞こえてきた穏やかな声。
『手荒い真似してごめん。ホントに大丈夫?』
寝ようとしていたユトは、驚きで目を覚ました。声はもちろんまだ幼い弟のものではなく、自分と同じくらいのものに感じる。きょろきょろと周囲を見渡したが、見える範囲には家族以外誰もいなかった。
「だ、誰だ? どこにいる?」
家族を起こさないよう小声でユトがつぶやくと、笑い声が響いた。
『君の中だよ。だから僕の声は、他の誰にも聞こえない。同じように神が中に入ってる人は別だけど』
「何を馬鹿な……」
『じゃあ、証明する。なんでもいいから、口に出さずに何か心の中で考えてみて』
ユトはそう言われて、なんの気なしに思いついたことを頭に浮かべた。
『ふうん。君、お金が欲しいの?』
考えていたことを正確に言い当てられて、ユトは赤面した。それから念のために同じことを何度か繰り返して、やっと納得する。
『……確かにお前がいるのは納得したよ。でも、誰だよ?』
『僕は水神ツァリ。物語でもよく出てくるでしょ』
説明はかなり簡単だった。ユトでも意味が分かるよう、噛み砕いて説明してくれている。つまり、古くからこの地で信仰されてきた神様が行き場を失い、とりあえず人間の体に間借りを始めたということだ。そして同じような目にあっている人間が、少ないながらもユトの他にいるらしい。
『うちで信仰してる神様はちょっと特殊だから……俺、ふつーの神話もあんまり知らないんだよな。他の人に付いた方がいいんじゃない?』
『もう決めちゃったからなあ。君が死ぬまで離れられないんだよ』
ユトはそんな、と声をあげたが、そういうものだから諦めろと言われただけだった。
『そういうもんなら諦めるけどさあ、体を貸したら俺に何かいいことあんの?』
『うーん、海でやった方が分かりやすいかな。僕はあらゆる水を操れる、水神ツァリ。どんな水だって自由自在に動かせるよ。それを使ってどういうことをするかは、君次第』
ユトは嘘だと思っていた。しかし、連続する奇妙な事態が、ひょっとしたらという思いを抱かせる。もし本当に自由に水を動かせるなら、父や母にしてあげられることがあるはずだ。
『じゃ、明日な』
そういう会話の結果、ユトは父とともに海岸に向かっていた。幸い、今日もツァリの声は聞こえてくるので、力が消えたわけではなさそうだ。
海沿いについた時、空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうになっていた。波も高く、漁師たちも早々に引き上げたようで、沖合にも浜辺にも誰もいない。
「ちょうどいいな」
「何がちょうどいいんだ。危ないから帰ろう」
「……父さん、見てて。実験なんだ」
ユトはそう呟いて、中にいるツァリに『交代』を申し出た。特別な何かをするわけではなく、ただ体をツァリに渡すと念じるだけで良かった。
それだけで、ユトの精神はまたあの黒くて温かいものに包まれる。声はツァリにしか聞こえなくなるし、自分で思うように体は動かせないけれど、外もちゃんと見えるし音も聞こえている。
「お、お前、どうした。その髪は!?」
「……依代と神が入れ替わると姿も変わるんです。びっくりさせてすみません、ユトのお父さん」
ツァリが父に状況を説明している。その間、ユトは水に映った自分の体をぼんやり見ていた。髪も瞳も漆黒に染まり、まるで異国人に変わったようなのが見慣れなくて、少しくすぐったかった。
「生活が大変なことは、ユトから聞きました。少しで良ければ、お手伝いさせてください」
そう言ってツァリは、白く波の立った海面を指さした。次の瞬間、指先の水だけが流れに逆らって動き出す。
沈む、登る。跳ねる、揺れる。呪文すらいらない。ツァリが指先を軽く動かすだけで、海水が思うがままに動き回った。そしてその流れは、海中にいた魚を一匹、また一匹とすくいとっていく。
そのまま海水が砂浜まで流れてきた。大量に乗せてきた魚をそこでどうっと吐き出して、また海に帰っていく。みるみるうちに、二人の足下には魚の山が築かれていった。
しばらくそれを父に見せてから、ユトは体の主導権を取り戻した。体はだるかったが、気持ちが弾んでいたのでそんなに気にならない。
「どう? 父さん、これなら船に乗れなくても、魚がたくさん獲れるよ」
「信じられない……」
あわてて水辺に駆け寄った父の口から、押し殺した声が漏れる。彼はどこかぼんやりと遠く、海の向こうに見とれるようにして顔を向けていた。
「……帰ろう。一旦母さんと相談しないと。これは大変なことだ」
「あ、うん。待って、父さん」
立ち上がった父は、あたふたと家に向かって駆けていく。ぎりぎりまで海面に夢中になっていたユトは、その時父がどんな顔をしていたのか、ついに気付かないままだった。
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