第46話 大いなる水の神

「この人数で接近を見逃したのか!? ありえない!!」


 誰も見なかった。船を揺らすほどの巨大な生物を、見逃した。そんなことはありえない。混乱する大翔の思考でも、そのくらいは分かった。そう──海水が突然噴出した、というのでもなければ、この揺れは説明がつかない。


 大翔ひろとはとっさにすがりついてきたあかりを抱えながら、上をにらむ。空があまりに暗い。まるで巨大な天幕のような水が作る影の中に、軍艦がすっぽり包み込まれてしまっていた。


 そしてその天幕が、大翔たちめがけて真っ直ぐに落ちてくる。滝のような水量を頭からかぶって、大翔の視界が一瞬真っ白になった。これは、この神は──本物だ。


 やがてゆっくりと水が引いていく。不意打ちの後、灯の手を離してしまった大翔は叫ぶしかなかった。


「フロム、頼む!! ツァリだ!!」


 まだ動きが鈍い足で水の中から這い出して、大翔はあえいだ。灯の命に別状がないことを祈ってありったけの声で呼ぶと、側にぼっと赤い炎が灯る。灯と入れ替わったフロムの炎だった。


「あの童め……気性は昔とちっとも変わっておらんな!!」


 フロムが怒りをこめて叫ぶと、大翔の胸の中のミルカが悲鳴をあげた。


「どけ!!」


 へたりこむ大翔を半ば足蹴にするようにして、フロムが駆け出した。


 轟音とともに炎の壁が生じ、大量の水とぶつかる。かろうじて軍艦と大波の衝突は免れたが、それでも決して事態は楽観視できなかった。


「ここは海だ、周囲に水はいくらでもある……!」


 フロムがいくら炎の壁を作っても、相手はそれを打ち消せるだけの力がある。条件は、圧倒的にこちらに不利だった。どうしたら良いか計りかねる大翔は、ただ自分が致命傷を負わないよう逃げる覚悟をするしかできなかった。


 また水音がしてそちらに顔を向けると、怪物のようにかま首をもたげた水が大翔の目と鼻の先にある。相手の攻撃線上に入っていることを自覚した甲板の兵士たちに、驚愕が走った。


「横へ退け!!」


 そこから素早く飛び退いたガリクとその側近たちが、甲板にあった砲に飛びついた。彼らを追いかけていく海水がこぼれた粒が、大翔の顔に当たる。


「これでも食らえ!!」


 突進した面々が到達した機銃がひっきりなしに動く音がする。その間、水から離れた位置に走って移動する最中、大翔の頭の中は雑多な考えでいっぱいだった。


 いくら銃弾を撃ち込んでも、変形し衝撃を逃がせる水には無駄なこと。フロムですら分が悪いのだ、普通の兵器で太刀打ちできるはずがない。ならば狙うのは依代がいる一カ所しかなかった。そこに最大の武器とフロムの力を打ち込めばなんとか──


『落ち着いて』


 びくりと肩を強ばらせる大翔に、ミルカが言う。


『よく見て。ツァリのこと。たぶん、何も考えずに攻撃してしまったら後悔すると思うんだ』


 大変な事態なのに、それで緊張と不安が少し和らいだ。確かに自分は怯えて、思考が攻撃にしか向かなくなっていた。


「……ありがとう。ミルカの声、ちゃんと聞こえた」


 息を整えながら大翔は考えた。


 最初の攻撃以降、水はこちらにはもちろん、フロムにも目をくれない。神同士なら、その存在を感じ取るはずなのに。真っ先に潰しておかなければならない相手のはずなのに。


「いるのか!! ツァリ、依代!!」


 大翔は海面に向かって声をかけた。向こうがこちらの存在を知って、あえて傷つけまいとしているのなら、まだ交渉の余地があるかもしれない。そう思ってのことだった。


『……いるよ』


 何度か叫んだ後、かすかに子供のような声がした。驚きのあまり、大翔は一瞬自分を疑った。首を伸ばして、あわてて海面をのぞく。


「確かに聞こえた……!」


 聞き耳をたてていると、波の音に混じって一瞬、確かに聞こえる。人間の声だ。ツァリが、依代の口を借りて何かしゃべっている。


「もう一度聞かせてくれ! 俺も神の依代だ!!」


 船を押しのけ、うねった水が一気に海面に飛び込む。船が揺れると同時に、大翔の視界の隅に、見慣れた形のものがうつった。


「水の中に誰かいる! あれが依代だ!!」


 水の間に、確かに人型のシルエットを見た。だがかなり遠くて、男女の性別もわからない。


「何の目的でこんなことをやってる! お前はデイトの守り神じゃないのか!!」


 大翔が大声で叫ぶと、また水が盛り上がってきた。飲みこまれそうになった船の前に、誰かが浮かび上がってくる。滑るように水中を進み、一同が固唾をのんで見守る中、ついに水の中の人物がはっきりと見えた。


 盛り上がった水の中心でにこにこと笑っているのは男性──いや、黒髪の少年だ。長い睫毛が印象的な、華奢な手足を持つ美少年で、普通に町で会えば誰もが可愛いと思うだろう。 彼は魔法使いのような黒くて長いローブをまとっていた。


 その姿のまま水に押し上げられて宙に上がった少年は、大翔と灯にしか聞こえない声で確かにこう言った。


『……聞こえるの。やっと来たんだ、聞こえる人が』


 少年の口が動く。大翔はわざとオーバーにうなずいてみせた。


『動いた甲斐があったよ。お願い、この依代を──リークのユトを助けて』

「ユト?」


 大翔はオウム返しにつぶやいた。それはどこの町で、どういう境遇の子なのか。どういう事情から助け出せばいいのか。それを聞こうとした瞬間、また船の機銃が動き出す。少し弛緩していたツァリの表情が、一気に引き締まった。


『邪魔しないで!!』


 そして再びざぶりと水の中に入っていってしまった。皆が呆然とそれを見つめる中、ガリクだけは怒り狂って拳を握り、海面を見つめている。


「小生意気なガキが!! 大人の力をなめるなよ、必ず引っ捕らえてくれるわ!!」

「少将、恥ずかしいですからやめてください!!」


 鼻息荒く発言する少将をよそに、少年はひょうひょうとした顔で水の中にくるまっている。具体的な言葉は大翔と灯しか聞いていないはずなのに、意図するところは正確に伝わったようだった。


 しかしこのやり取りで、声も出せないほどの緊張感は緩和された。また機銃の斉射が始まり、だいたいの目星で艦の主砲が発射される。


 だがくるりと一転した水は降りかかる銃弾など意に介さない。かえって怒らせてしまったようで、ガリクたちにつきまとってまともに砲が撃てなくさせている。


「こらー、出てこい、卑怯者!」


 時々ガリクの声に応じてツァリが姿を現すが、うるさいな、と言いたげにわずかに首を振ってみせるだけだった。


「すぐ水中に消える、これじゃいくら撃っても同じだぞ!」

「船も海流に巻き込まれてうまく動かない!!」


 人間の嘆きを嘲笑うように、魔法のように砲撃の合間をすり抜けて水が追ってくる。時にはぐうっと潜り込み、時には舞い上がる。その水の動きを追っていると、大翔は目が回ってめまいがしてきた。


「捕らえるかはともかく、こいつをなんとかしないと帰ることすらできないぞ。帰投に必要な燃料がなくなる前に、対策を考えないと」


 苛立つ兵たちの横で、フロムはツァリを探すようにして飛び回っている。彼女が船の側に来たタイミングを見計らって、大翔は声をかけた。


「フロム、フロム! さっきから何してるんだよ」

「クソ生意気なツァリを泣かすべく探しておる。邪魔をするでない」

「あのー、フロム様よ。その気持ちはなんとなく分かるけど。あいつが一体何にこだわってるのかくらい急いで聞き出してくれよ。……お前とは合わないだろうけど、悪い奴じゃないと思うからさ」

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