水の神と地の神
第38話 デイトの食堂へようこそ
しんしんと雪が降り積もる冬。家々の窓から温かそうな光が漏れ出す夕方、もう惰眠を貪っている少女がいた。
室内は赤い絨毯に赤い上駆け、赤いカーテンとひたすら紅の装飾が目立つ。その中に黒髪の少女がぽつりといると、なんだかテントウムシの黒点のように見えた。
その黒点がもそりと動く。それは自然に目覚めたのではなく、近寄ってきた足音を感じ取っての目覚めだった。
「
「……んむー」
身じろぎする黒髪の少女、灯の横で、同じく黒髪の少年がてきぱきと食事の準備を整え始めた。若いが手つきによどみがなく、あっという間に寝台の横に料理が並べられていく。
「む、
飯の匂いをかぎとったのか、灯の鼻がひくつく。今まで重たそうだった瞼が持ち上がり、綺麗な黒い瞳が現れた。
「今日は牛肉と米もどきのスープだ。こっちでも米に近い植物はあるけど、主食じゃなくて野菜扱いなんだな」
「へえ。確かに、これじゃ膨らんでもおじやにはならないな」
灯は言いながらスープをすする。コンソメ仕立ての澄んだスープには、食材の旨みと甘味が丸ごと溶け込んでいた。一杯飲むだけで腹の底から気力がわき上がってくるような味をもっと感じたくて、灯はひっきりなしに匙を動かした。
「美味いな。でもこれだけじゃ腹はふくれないぞ。今日のメインはなんだ?」
「ふふん。見て驚け。……なんと新鮮な魚介類のグラタンだ!」
大翔がグラタン皿の蓋をとると、灯の口から小さく声が漏れた。きつね色の焦げ目が入ったチーズが皿いっぱいに広がり、その下からわずかに海老や貝類とおぼしきものが見えている。デイトの首都リシテアでは魚介類は高級品だったから、灯がそれを口にするのは実に一ヶ月ぶりだ。
灯が皿に匙をつっこむと、とろりとチーズがとろけた。冷めないように、皿の下に発熱剤を置いてあるからまだ作りたての風味が残っている。濃厚なホワイトソースの中には大きめに切った魚介類と短いパスタが埋まっていて、食べる度に異なる食感が楽しめる。すでに試食した大翔が太鼓判を押す出来だった。
灯もグラタンが気に入ったようで、まるで食事をとっていなかった子供のようにガツガツ食べている。熱い料理なのに頓着した様子がなく、皿の中身はみるみる減っていった。
「おかわり。そっちにあるんだろ。出せ」
「あんまり食うと太るぞ」
からかう大翔にとりあわず、灯は口元に笑みを浮かべる。その顔を見て、大翔はまあいいか、と思った。
こちらに来てからしばらく思い詰めていたようだが、だいぶ笑うようになってきた。灯の体に巣くっている神、フロムの存在を認め、ある程度考えを読めるようになったからだろう。最初は全く理屈の通じない奴かと思ったが、なんとかなってよかったと大翔は心底思った。
慌ただしい食事が終わると、大翔は食器を片付けながら灯に声をかける。
「明日から仕事復帰だけど、お前は何するんだ? メイド服でも着るのか」
「ううん。戦闘訓練を受けることになった」
なんでも、軽く組み手をした上官から申し出があったのだそうだ。灯はフロムを恐れていたこともあってほとんど喧嘩はしなかったが、昔からスポーツは得意だった。運動神経が良いことは、熟練した兵士ならすぐに分かるのだろう。
「……驚いたな」
「戦闘でフロムの世話になりっぱなしなのも悔しいしな。明日から正式に訓練を開始する」
「せっかく生き残ったんだから、あんまり無茶するなよ」
「分かってる」
灯はふっと思い出したように宙に目をやった。
二人が今いるテラウを巻き込んだ大きな戦いから、三週間が経った。侵攻してきたシレール軍が撤退し、大翔と灯にも日常生活が戻ってきている。消耗していた灯は元気を取り戻し、大翔も明日から正式に軍宿舎の厨房に入ることになった。
本当は戦闘糧食の開発にまわりたかったのだが、それは開発班の班長の反対にあって計画が止まっているという。
「だいぶ根回しもしたんだが、君は若いし実績がないと言って聞かんのだよ」
戦で共闘し、大翔の後見人になってくれたザザもこれには困った様子だった。
「『神憑き』ってことを公開してもらっても構わないんですが……」
「もちろん言ったが、『それがどうした』の一言で切り捨てられたよ。彼自身、何十年も経験がある熟練者だからなあ。半端な腕の者が嫌いなんだろう」
それであの不味い糧食を作っていれば世話がない。大翔はそう思ったが、口には出さなかった。頑固な老人に意見してみたところで、無駄なことだ。
「しばらく食堂で料理の腕を見せてみたら、彼の見る目も変わるかもな。どうだ、やってみるか?」
ザザが申し訳なさそうに言うこともあって、大翔は譲ることにした。ザザは約束を守ってくれたのだから、自分も多少は歩み寄らなければならないと思ったのだ。
「ふうん。律儀だな、大翔も」
「明日から正式な配属なんだけど、今日は下見をさせてもらうことになってる。暇ならお前も一緒に来るか?」
「行く」
灯は上掛けをはね飛ばして起き上がった。子供のような仕草に苦笑しながら、大翔は食器が載ったカートを押して部屋を出る。
カートと食器を返却した大翔が戻ってくると、着替えた灯が扉の前に立っていた。刺繍の入った赤地の長いワンピースに、白くふわふわした毛皮の上掛けを羽織っている。
「この軍宿舎けっこう大きいから、食堂も広いのか?」
「毎日二千人相当の食事を作るって聞いてるから、広いだろうな。調理設備も大きいのがありそうだ」
大翔が言うと、灯は目を丸くしていた。
宿舎と食堂は渡り廊下でつながっているが、別棟になっている。聞いていた通りに進むと、茶色い煉瓦造りの棟が見えてきた。その一階入り口の前に、誰かが立っているのが見える。
「よお、大翔。俺が今日の教師役ってところだな。分からないことがあったら聞けよ」
「誰かと思えば知った顔だ……」
案内役はイラクだった。ニコルの方が教師には適任な気がしたが、彼の方は色々忙しいのだろうと大翔は諦めた。
「ところで……そっちがフロム様?」
「の、入っている人間だ。今は私の人格だから気にしなくていい。灯という」
「……よ、よろしく」
灯が言っても、イラクはしばらく怖々とした感じだった。
ようやくイラクが灯に慣れたので、大翔たちは食堂棟へ入っていく。すると、室内が色めきたった。
「おい、あれってもしかして……」
「間違いないよ。本当にいたんだなあ」
しかしみんな近付いてはくるが、話しかけてくる様子はない。大翔たちと目があうと、あわててそらす者もいるくらいだ。
「話題になってたからな、お前ら。尊敬してる奴もいるが、怖がってる奴も多い。メドーと戦って生き残ったなんて聞いたら、そりゃビビるぜ」
大翔は脳裏にメドーの姿を思い浮かべる。そして周囲の対応に納得した。
「特にお前の方。あれで死ななかったなんて奇跡的にすげーよ。実はもう幽霊なんじゃないか?」
「不吉なことを言うのはやめてください」
そう考えると、親しげにしてくれるイラクはなかなかの大物かもしれない。灯もそう思ったのか、自分から話しかけ始めた。
「お前は糧食の開発班じゃないのか?」
「違う違う。俺の担当は平常食」
部隊が普段食べる食事を平常食といい、逆に外などで臨時に作るものを応急食というそうだ。
「もちろん、大きな戦があれば担当がごっちゃになることはよくあるけどなー。一応の区分ってやつさ。さ、着いたぞ」
イラクが廊下の突き当たりで足を止め、扉を開く。すると、ずらりと並んだ机と椅子が大翔たちの目に飛び込んできた。
「わあ……」
その数の多さに、灯が目を見張っている。二千人、という数字の大きさを形で表されたようで、大翔も驚いた。
「こっちは一般兵用の食堂。お偉いさんや見習いはまた別の部屋で食べるから、実際はもっと多いんだがな」
「これで全部じゃないのか……」
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