第28話 女神の残り香
ラシャが決意の砲を撃ってから、時が経った。天頂付近にあった太陽は西に傾き、丘の付近は夕闇に包まれ始めていた。さっきまで茜色の雲を覆い尽くしていた砲火が徐々に弱くなり、空の色がはっきり視認できるようになっていく。
しかし、それはラシャたちにとって好ましいものではなかった。
「銃弾切れ……!」
ついに恐れていた事態が起こった。激しすぎる戦いの結果、前線にあった味方の砲弾・銃弾がついに底をついたのだ。敵は想定していたよりかなり減っていたが、それでもここが勘所とみて、手に長剣を構えてかかってくる勢いは止まらない。
ラシャは握りしめた拳の内部に爪が食いこむのを感じながら、叫ぶ。
「全員銃剣を構えろ!!」
苦肉の策と分かっていても、状況を打破できるのはそれしかない。弾が無くとも突撃するしかないのだ。
中にはおずおずと剣を構える者もいた。ラシャと同じように、今戦っているのが誰なのか勘づいた者たちだろう。しかし彼らも、味方にそれを伝えることなく自らの内に思いを閉じ込めていた。
ラシャは彼らに言葉をかける暇もなく、殺到してくる敵に向かって斬りかからなければならなかった。
それからの数分は、永遠のように感じられた。すでにラシャの全身は血まみれだ。息つく暇も無く正面の敵を何人か切り捨てたが、その時に自身の足をくじいてしまったらしく、左足首が熱くずきずきと痛む。踏み込みの力が弱くなり、移動は徐々に困難になった。
わずかに身をかがめた攻撃態勢の相手の首を刃で切りつけ、鮮血をあげる体を柄で押し倒す。味方が背後に寄ってきてくれた気配を感じたが、意識がぼんやりとしていてその者の声も聞こえづらかった。
雲霞の渦に巻き込まれたかのように、わんわんと耳鳴りがする。戦っているうちに殴っているのか切っているのかもよく分からなくなってきたが、それでも視界に敵の姿が見えれば体は動いた。
剣が重い。汗で取り落とさないように指先に力をこめながら、敵の脇腹を割いた。休息のない立ち回りの連続に、次第に息が切れ始める。
いつ終わる、とラシャの心のどこかが悲鳴をあげていた。それでも剣を構えるのは、目の前の兵たちをこれ以上進ませないため。彼らを同族殺しにさせないため。それだけしか、今のラシャにはすがるものがなかった。
それから十や二十は切ったろうか。ラシャは目の前の敵が影法師のように見え始め、人間ではなく黒い何かが襲ってくるような感覚をおぼえた。飲みこまれるな、状況を判断しろと己に言い聞かせても、視界にはもやがかかっている。
──ここまでか。
ラシャが諦めの混じった吐息を吐き出した時、前方に赤い炎が見えた。黒の戦場にあって、その灯った炎は他の何よりも明るく綺麗に見える。
「砲の支援……か……」
そうつぶやくと途端に安堵がこみあげ、ラシャは地面にへたりこむ。もう再度立ち上がる体力は残っておらず、敵に狙われればひとたまりもないだろう。
しかし敵は、ラシャに構っている余裕などなさそうだった。あちらこちらで悲鳴と絶叫があがっている。そこに遠ざかっていく足音が重なり、奇妙な三重奏が奏でられていた。
「いや……」
ラシャは気力を振り絞って上体を起こした。援護が到着したなら、なぜ砲弾や銃の音がしない。聞こえるのは敵の発する音だけで、先刻までうるさく鳴り響いていた味方装備の駆動している様子はなかった。
「少尉!」
駆け寄ってきた色の薄い金髪の人物に、ラシャは這い寄った。
「レイラ、無事だったか……」
「私の形の良い耳たぶを、多少あいつらにやってしまいましたが。少尉こそ足を」
「くじいただけだ。まだつながってるだろう」
レイラの肩を借りて、ラシャは視線を前方へ飛ばす。二人の目の前で、今まさに人が燃えていた。まだ意識があり叫んでいる者、もう気力もなくぐったりした者、反応は様々だが、もう助けようがないことだけは分かる。
迂闊に動けなかったが、やがて燃えているのがシレール兵ばかりとみて、レイラがそっと歩みを進めた。なんとかラシャも立ったまま歩き、周囲を睥睨する。
所々、ひどい火傷を負った重傷者や焼けた装備が転がっている。最も焼けているのが脱ぎ捨てられた上着で、どうやらここが出火元のようだ。
「どういうことだ? 外からではなく、中敷きに使われている毛皮から発火したように見えるぞ」
「それに、今さっき燃えたとは思えない死体もいくつか混じっています。これは一体……」
確かにレイラの言う通りだった。煙をあげたり炎がまだ残っておらず、相当前にやられたとおぼしき死体が残っている。ラシャは黒焦げの死体の腰回りで、かろうじて一部が焼け残っている装備に目を向けた。小型化した無線機、それにシレールが開発しているという戦場用の電話。
「この装備は! もしかして先に燃えているこいつら、通信兵か!?」
目にした瞬間、ラシャはある仮説に辿り着いた。フロムが戦っている間、やけに外れる攻撃が多いなとは思っていたが……あれはもしかしたらわざと外していたのではないか。そして流れ弾を装って、通信兵を先に潰してくれていたのではないかと。
「……末恐ろしい神だな」
しかしラシャの予測を聞いて、レイラは首をかしげた。
「通信兵はそうかもしれません。しかし他の兵は、フロム様がいなくなってかなり経ってから発火したのですよ。その説明はどうつけるのです」
「簡単なことだ。服の中に小さな火花を忍ばせて、徐々に温度が上がっていくように仕掛けておけばいい」
シレールの軍服の中には、動物の毛を使った中敷きが入れてある。動物の毛には多くの水分と窒素が含まれているため、発火温度は六百度前後と非常に燃えにくい。その素材の難燃性が、時限爆弾のような効果を与えたのだ。
変身が早く切れたことはフロムにとって不満だったかもしれない。しかし、かの神はすでに仕込みを済ませていた。そして途方に暮れるしかなかった部隊を、すんでのところで救ってみせた。
「さすがに神だな。私とは違う」
自虐をラシャが口にすると、いつもと違う上官の様子に気付いたレイラが視線を投げてきた。
「どうされましたか……そんなに憔悴されて。理由は、聞いても?」
「さっき正面から襲ってきた兵だが……あれは、元デイトの民だ」
黙っていたラシャは慎重に言葉を選びながら話し始めた。最初は平然と聞いていたレイラが、途中から瞳を見開く。
「なんてこと……」
「ああ。ますます奴らに負けるわけにはいかなくなった」
「もしかしてその中に……いえ、余計なことでした」
ラシャの困惑した雰囲気を即座に感じ取ったレイラは、すぐに会話を打ち切った。それでも、彼女の半分泣いたような顔はラシャの目に入る。
「大丈夫だよ、准尉。大丈夫だ」
嘘をついているのを自覚しながら、ラシャはレイラから目をそむける。まだ混乱が残っている戦場が、ぼんやりと瞳にうつっていた。
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