第26話 古き神の降臨

「狼? 虎? ……いいや、違うな」


 黒い煙と混じり合っていた影のような物体は、やがて二本足で立つ大熊の姿へと変化した。熊は小山ほども大きく、太い足の先にある爪、血走った目の下にある牙も同様に野生ではありえないほど進化していた。


「古き動物神か……!」


 フロムは唸る。人間の中に憑依させることはできないが、適性を持つ者は動物神を飼い慣らすこともできた。ただし、言葉が通じない動物神を屈服させるためには膨大な力を必要とする。


「そんな人材まで見つけてくるとはな」


 シレールはいったいどこまで準備しているのか。フロムが低く唸った次の瞬間、熊が大地を滑るようにこちらに向かって突進してきた。




「これは……」


 キリルは目の前で繰り広げられる光景にしばし驚きを隠せなかった。業火で直属の部下を含めた味方部隊が丸々消失し、さらに黒き獣の神がフロムに向かって殺到していく。


 二体の神がぶつかった瞬間、すさまじい音がした。無数の火の粉をかいくぐり相手の喉笛をかみ千切ろうとする古き獣の神、メドー。それに相対するフロムはやや後ろに位置し、炎の遠距離攻撃を急所に当てようと狙っている。


 近くでわずかに身じろぐ音がして、キリルははっと振り向いた。


「ようやく現実に帰ってきおったか。まあ無理もない、儂もあのように戦うメドーを見るのは久しぶりよ」


 キリルの横に立っていたのはミハイロだった。あわてて敬礼し距離をあける若者を見て、老司令官は声をあげて笑う。


「あの神は、ミハイロ閣下の……?」

「正確には違う。持ち主から借りている状態だ。だが、実に真面目に言うことを聞

く。人間もこれくらいであれば楽なのだがな」

「……私の策が至らなかったこと、お詫び申し上げます」


 当てこすりをうけたと思ったらしく、頭を下げたキリルを見てミハイロは笑う。


「別にそういう意味で言ったわけではなかったのだがな。お前も的外れなことをやらかしたわけではないよ。ただ、相手が悪かった」


 ミハイロは不思議そうな顔をしたキリルにさらに言う。


「あれは神であって人ではない。敵として戦場に立った以上は誰であれ容赦はしない、それが文字通りにできてしまうから神なのだ。そのことを心に留めておくこと

だな」

「……はい。閣下に呼び出された時は何故かと思いましたが、このような事態を予測しておられたのですね。私はまだまだ若輩だ」


 いつも尊大なキリルが神妙な顔になって言うのが面白かったのか、ミハイロはさらに相好を崩す。


「それが分かれば良い。早々に残った兵をまとめよ。あれだけ派手に戦えば、負担

が大きい。おそらく午後にはフロムの力は切れる。その後は、お前の戦法が通用する相手が出てくるだろうからな」

「はっ、かしこまりました」


 キリルが即答し足早にその場を立ち去ってから、ミハイロは目の前の戦いを見つめた。仮とはいえ使い手のミハイロは、メドーの目を通して戦いの様子を知ることができる。


 単純な速度ならメドーが上だから、フロムも逃げはしない。硬く縒って剣のようにした赤い炎と、メドーの重量のあるかぎ爪がぶつかって、地上にまで届くような音をたてている。


 メドーが体をかがめ、次の瞬間一気に伸び上がる。人間の急所が顔だと知っていて、最初にそこを潰そうとする熊の本能的な動きだ。決まればフロムは依代の視界を失い、前後左右に振り回されながら死を迎える可能性が一気に上がる。


「これで終わりなら味気ないな」


 ミハイロがつぶやいた次の瞬間、分かりやすい動きだと言わんばかりに、フロムが強く後ろに飛ぶ。メドーの瞳に驚愕の色が浮かんだ瞬間、炎の槍が巨大な獣の胴体に突き当たった。


 しかし硬いメドーの表皮に阻まれ、貫通はしていない。鮮血の代わりのように火の粉が飛沫く中、メドーは怒りをこめて吠えた。手応えがないのを自覚したのか、フロムは飛びすさってさっきより距離をとる。


「フロム神にしてはずいぶん力の無い槍だな」


 一瞬ある予測を頭によぎらせたミハイロだったが、すぐにそれを撤回した。


「いや、慈悲ではなかろうな」


 ミハイロは冷静に評価していた。敵に回った諸国から、地獄の魔神とも言われてきた神だ。今さらメドーに情けをかけるとは考えがたい。それならば残る可能性は一つだった。


「先ほどの放射で、力を使いすぎたか。午後まで保たぬかもしれんな」


 フロムの体からは、しきりに小さな火の粉が漏れ出してきている。完璧に力を制御できなくなっている証拠だ。


 メドーもそれに目をとめた。フロムを見下ろし、すぐに体勢を立て直してまた突撃する。空中が大地であるかのように後ろ足を突き出し、弾丸のような己の肉体をぶつけようとした。


 フロムがかわしざまに多少切りつけても、メドーの動きは止まらない。それこそ肉を貫通し骨に達するような攻撃でなければ、怒り狂った動物神を止めることなどできないのだ。


 フロムの口がわずかに動いて、音を放つ。舌打ちだ。最後のあがきのつもりか、細い炎の槍を何本も作ってメドーに投げつける。


 無様な動きだった。だからミハイロも一瞬笑い、反応が遅れた。


「……ではな、熊公」


 そのフロムの台詞で、ミハイロははっと我に返る。次の瞬間、メドーの背後から巨大な炎槍が襲いかかり、胴体の中央に深く突き刺さった。


「……ぐ」


 操作者であるミハイロにも衝撃がくるほどの攻撃。視線をそらしそうになって、あわててミハイロは踏みとどまる。


 メドーの胸のあたりに大穴があいていた。最後の抵抗として振りかぶった前足はフロムに届かず空を切る。


「やはりそう易々とは行かぬ相手か」


 弱い炎の槍をいくつも空中に飛ばし、弱ったと見せかける。そして相手が背中を見せたら、それを一気により合わせて太い槍に変化させ、復活はありえないと油断している相手を貫く。戦術の手本のような戦い方だった。


 ミハイロは唸った後、背後に気配を感じる。ちょうど振り返った先に、細かい煙となったメドーがいた。


「……戻って来たか」


 あれだけの攻撃を受けて死なないのは、さすがに神の名を抱く獣である。それでも傷ついた本体が、回復しようとミハイロの生気を吸ってくる。


 ごっそり吸われて疲労で倒れる前に、メドーを依代である腰帯の飾りの中に封じこめる。それも体に負担がかかったが、ミハイロはやり遂げた。


 改めて前方の様子を探る。炎の神の蹂躙を受けた大地は荒れ果て、焦げた色の上には数え切れないほどの死体が転がっていた。


「第一軍の五分の一程度は吹き飛んだか。なかなか数字でみると大損害だな」


 口では皮肉っぽく呟くが、ミハイロは満足そうに笑みを浮かべ、宙を見上げた。


「しかし欲しかった結果は、すでに手に入れている」


 フロムの撤退。それに加え、自信過剰だったキリルの鼻っ柱を折り、恩を売ることにも成功した。これでだいぶ、後の戦がやりやすくなるだろう。


「一つの手で二つ、三つ以上の効果を得るのが司令の仕事。……さて、これだけお

膳立てしたのだ。今日中には、あの丘を落とさせてもらうぞ」


 そう言い放って見据えた丘は、ミハイロにとって昨日より低く見えた。


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