第13話 卵とチーズとろけるパンを

「いいだろ? 俺も食べたいんだよ。料金は払うからさあ」


 そう言って彼が食卓に置いたのは、一本線の銀貨二枚。


「さっきの女性よりたっぷり取っておいて、少ないように感じますが」

「俺んち、娘が三人居るんだよ。まけてくれ!!」


 リックがあけすけに言うので、大翔ひろとはちょっと面白くなってきた。もともと寸胴鍋いっぱいで千五百円くらいしかかかっていないのだ。この価格でも、利益は十分に出ている。


「分かりました。今回だけですよ?」

「おおっ、ありがたい。じゃあ、鍋はまた明日返しに来るから」


 リックはスキップしそうな勢いで宿を飛び出していった。彼の起こしたつむじ風を額で受けながら、大翔は苦笑する。


「ずいぶん儲かったな。黒字になった」

「……大翔、もうシチューで商売しちゃえば? 店をやる予行演習だと思って」


 あかりの言葉を聞いて、ルタンが目を見開いた。


「あんた、料理人志望なのかい?」

「はい。まだ学校に行ったこともなくて、全部独学なんですけど」


 大翔がうなずくと、ルタンは立ち上がってカウンターの中に消えた。そして、古びた帳面を持って帰ってくる。


「うちの人が作ったレシピ集だよ。これからの勉強になるかもしれないから、あんたにあげよう」

「そんな大事なもの、いただくわけには」


 大翔がかぶりを振ると、ルタンは笑みを浮かべた。


「いいのさ。作りもしない私が持ってるより、あんたの役に立つ方がうちの人も喜ぶ。別にその通りに作れってわけじゃないけど、こういう料理人がいたってことを覚えていてもらえると、嬉しいねえ」

「……分かりました。大事にします」


 大翔は礼を言ってそれを受け取り、片付けをして部屋に戻った。帰りにちらっと女性のいる右奥の部屋を見たが、まだ食器は出ていなかった。


 腹が膨れた灯は早々に眠ってしまった。大翔はまだ眠くなかったので、ルタンにもらったレシピ集に目を通す。どれもこれもが美味しそうで、明日はこれを作ってみようか、どうアレンジしようかと思案しているうちに時間が経っていた。


「そろそろ寝るか」


 思考していた大翔は見切りをつけて、ノートに挟まっていたしおりを抜き出す。次の瞬間、しおりの画像を見て大翔はしばし唖然とした。


 しおりだと思っていたものは、写真だった。そしてその中でルタンと並んで笑っていたのは、今日思考の中に浮かび上がっていたあの男性だったのだ。


「これは……」


 自分は白昼夢でも見ていたのか。それともあの台所に幽霊として彼が残っていて、それが見えていたのか。思考が混乱し、大翔の眠気は一気に吹き飛んだ。




 結局まんじりとしないまま大翔は朝を迎えた。考えてみても原因が分かるはずはないのだが、あれこれと脳は忙しなく動いている。また灯に急かされて朝食を済ませ、浴場にでも行こうかと思っていると、階段から昨夜の女性が降りてきた。


「えっと……」

「イリアよ。昨日はごちそうさま。とっても美味しかったわ」


 イリアは食器を手に持っている。気を遣って持ってきてくれたようだ。ルタンにそれを渡すと、彼女は取材だと言って出て行った。


「とっつきにくく見えるけど、悪い人じゃなさそうですね」

「ああ、良かったよ。数日滞在するみたいだから、感じの悪い客だと困るからねえ」


 ルタンも安堵した様子だった。大翔たちは彼女に見送られながら宿を出る。今日は浴場ではなく、教えてもらったカフェで昼食をとることにしたのだ。ランチの方が価格が安めなのはこちらの世界でも同じようで、だいたい千円分くらいあれば軽食が食べられるらしい。


 またぶらぶらと川沿いを歩いて、公園の端にある建物に向かった。長い外階段を上がって三階ほどの高さにある店内に入ると、珍しい白い壁と木の床が目に飛び込んでくる。きちんと等間隔で並ぶ卓には白いテーブルクロスがかかっていて、おしゃれなカップルたちが食事を楽しんでいた。


「あれが美味しそう」


 さっそく灯が目をつけたのは、焼いたパン生地らしきものの上に、黄金色の卵黄が載ったものだった。聞けばチャブという料理で、パンの中身はたっぷりのチーズと卵だという。ハイカロリーだが、確かに美味そうなので二人はそれを頼んだ。


 注文して三十分ほどでチャブとドリンクが運ばれてきた。熱々のパンの上に焦げたチーズとまだ半生の卵が鎮座しているのを見ると、大翔の口の中にジワジワ唾がわいてくる。


「いただきます」


 食欲モンスターと化した灯が、食べ方も聞かずパンにかぶりついた。案の定、卵黄がずり落ちそうになって慌てて口を離す。たぶん熱かったのもあるだろう、と大翔は思った。


「あはは、君たちチャブは初めて?」


 様子を見ていた隣のカップルが、笑いながら食べ方を教えてくれた。


「まず、卵黄をフォークで潰して、中のチーズと混ぜるの。そしたらパンの盛り上がった土手を端からちぎって、中身をすくって食べるのよ」

「後はその食卓にバターがあるだろう? それも混ぜて食べると、より美味いぜ」

「なるほど」


 言われた通りにバターを落とし、楕円状のパンの一番焦げている端をなんとか切り取る。その端をチーズフォンデュのようになった中身にくぐらせると、まろやかな乳製品の味と塩気が一気に押し寄せてきた。そして最後に、パンのカリカリとした食感が残るのが楽しい。


「これは美味しいですね」


 大翔が礼を言うと、カップルはニコニコしながら手を振ってくれた。灯も頬を膨らませながら頭を下げるので、周囲の客からもほほえましさをこめた視線が降ってくる。


 パンの中身がだいぶ減ってきたら、ちょうどいい具合に土手もなくなった。後は残った中身をパン全体に塗り広げ、普通に食べれば食事は終わりだ。これ一個で足りるのかと少し心配だったが、すでに大翔の胃はぱんぱんになっている。


「お、完食したわね。外から来た人の中には、食べきれない人もいるのよ」

「いやー、それは分かる気がします。正直、もう何も入らないかも」


 灯も満足げに息を吐いているのを見て、大翔はカップルに視線を戻した。


「それは分かるよ。でも、何日かしたらまた食べたくなるんだよな。ここ以外にも、チャブが美味しい店は近くにいくつかあってさ」


 そう言うと、男性はいくつか店の名前を教えてくれた。そしてふと何かを思い出したように、宙に目をやる。


「そういえば、ルタン亭の噂って聞いたことあるかなあ。君たちがこっちに来たばかりなら、知らないかもしれないけど」

「ルタン亭……?」


 大翔の脳裏にルタンの顔が浮かんだ。それを知らないカップルの男性は、さらに続ける。


「昔は飯が美味くて有名な宿屋だったんだけどさ、亭主のじいさんが亡くなってから

ずっと簡単な朝食だけになってたんだよ。でも、そこに新しい料理人が入って──それがじいさんに負けず劣らず美味いんだと」


 大翔は飲んでいた水を吹き出しそうになったが、あわてて我慢する。そして「それはな」と嬉しそうに言いかけた灯を、目線で強く制した。

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