第8話 豆のシチューと肉のヒンカ
「そうか、眠っている間は
「正解じゃ。妾が望めばこの状態のまま少し動くこともできる。肉体が寝ておるから、派手な立ち回りは無理だがな。今までは存在をおおっぴらにしたくなかったので、夜も大人しくしておっただけよ」
低く笑いながらフロムはさらに言う。
「おい、小僧。この体は妾が見ていてやるゆえ、少し食べるものを都合して来い。このままでは依代が倒れてしまう」
フロムはまだ完全に存在が確立するところまで戻っておらず、灯にくっついていないと力を発揮できないと言った。依代の意思が強すぎて押さえつけられるのも不快だが、完全にぶっ倒れてしまったり、死ぬと灯ごと存在が消滅しかねないのでもっと困るそうだ。
「……俺がいない間、灯の体で勝手しないと誓うなら、構わないが」
「信用ないのう。早く行け」
フロムは灯の小さな手をひらひらと振る。
「フロム様は一緒ではないのですか?」
「……あいつの名前は灯ですよ。フロムは居候してるだけです。んで、普段は俺たちに敬語なんて使わなくていいですから」
大翔が灯とフロムの関係、そして本当の灯の気性を簡単に説明すると、ラシャは感心したように唸った。
「なるほど、そういうことなら普通にさせてもらおうかな。君は?」
「大翔です。ラシャさんさえ良かったら、この近くで食事を買ってもらいたいんですが……俺たち、本当に一文無しで」
大翔が言いにくそうに頼むと、ラシャは笑った。
「身柄を引き受けたからには、寝食で不自由させるわけにはいかないな。よし、ルタンさんに鍋と手提げ袋を借りよう」
そうして借りたものを抱えてから、ラシャは路地を抜けて温泉街の大通りへ戻った。
「この鍋に料理を入れてくれるんですか?」
「そうだよ。何か食べられないものはあるかな」
「俺も灯もないです。ま、あいつは野菜嫌いだけど……頑張って食べさせますよ」
しゃべりながらもラシャは客でごった返す通りの中からひとつの店を選び出し、そこへ入っていく。道から数段低くなったところに入り口があって、開けると中の喧噪が一気に聞こえてきた。
橙色の洋燈の下、老若男女が席でおしゃべりと食事に興じている。ラシャはテーブルの間を行き交う、でっぷりしたおかみさんに声をかけた。
「こんばんは」
「ラシャ! 悪いけど、今は満席なんだよ。もうちょっと後で来てくれないかい?」
ラシャはこの店のおかみさんとも知り合いなようで、砕けた声が返ってきた。ラシャは笑って、持ってきた片手鍋を掲げる。
「悪いけど、この客人用に料理を持って帰りたいんだ。シチューとパンを分けてもらえるかな」
おかみさんは大翔の顔をちらっと見て、少し考え込んだ。
「今日のシチューは豆だから、若い子にはちょっと物足りないんじゃないかねえ。パンはやめてヒンカにしたらどうだい? 遠くに持っていくなら向かないけどさ」
「ルタンさんのところに戻るだけだから、近いよ。じゃあ、おかみさんのおすすめにしてもらうかい?」
大翔はまるで分からなかったが、反論する根拠もないのでうなずいた。するとラシャは銀貨らしき硬貨で代金を支払う。おかみさんはそれをポケットにしまうと、厨房に大声で注文を伝え、また接客に戻った。
しばらく入り口で待っていると、両手に鍋を持って戻ってきたのは、おかみさんの半分もない細さのシェフだった。この人がご主人なのだとラシャが言う。
「こっちがシチュー、もう一つがヒンカだ。片方はうちの鍋だから、明日返しに来てくれないか」
「悪いね、パンにするつもりだったから袋しか持ってこなかった。明日必ず返すよ」
ラシャが二つとも鍋を持とうとするので、大翔は一個渡してもらうよう頼んだ。受け取った鍋はずっしり重く、蓋の間から湯気が漏れている。
「さ、早く帰ろう。ここのヒンカは、温かいうちに食べなくちゃ」
急いで宿に戻って食卓に鍋を置き、大翔は灯を起こしに行った。彼女はまだぼんやりしていたものの、食事だと聞くと急に意識をしゃっきりさせた。さすがに大食漢なだけはある、と大翔は苦笑する。
「何を買ってきたんだ?」
「豆のシチューは分かったんだけど……もう一つのヒンカって料理は想像つかないんだよな。ま、食べてみようぜ」
灯が先頭に立って一階に降りると、ラシャとルタンがすでに配膳を済ませてくれていた。大翔は恐縮しながら席についたが、灯は食卓を見るやいなや即座にスプーンをとり、シチューを喉へ流し込む。今まで緊急事態で消耗して居た分を、一気に取り戻そうとしているようだった。
「……後になったけど……ありがとう」
灯があっという間に皿を空にしてから気まずそうに言うので、ラシャとルタンが同時に吹き出した。
「いい食べっぷりだね。見ていて気持ちいいよ」
「うちの人が生きてたら、さぞ喜んだろうねえ。もう一杯ついであげようね」
和やかな雰囲気になったので、大翔も安心してシチューを口に含む。カレーほどではないが香辛料のきいたスパイシーな味で、あっさりした豆によく合っている。しかし脂味はあまりなく、おかみさんが懸念したのも分かる気がした。
「で、こっちがヒンカか」
小麦粉の皮みたいなもので袋が作ってあって、中に何かが入っている料理のようだ。横に長い楕円ではなく、先っぽが少し尖っていてひねったようになっている。手にとって少し揺らしてみると、中で液体が動くのがわかった。
「おい、灯。ヒンカはいきなり食べると──」
大翔が言うと同時に、頬をリスのように膨らませながら、顔を真っ赤にしている灯が見えた。遅かったらしい。
「止めたんだけどね……聞こえてなかったみたいで」
「ヒンカは肉のスープがたくさん入ってるから、先に皮に穴を開けてそれを吸うんだよ。中身はそれからゆっくり食べればいい。あ、先端は固いから残してね」
現地人二人に食べ方を教えてもらって、大翔はうなずいた。つまり、日本で好まれていた小籠包に近い料理ということだ。それさえ分かっていれば、恐れることはない。大翔はゆっくり皮の上側に穴をあけ、漏れてくる温かいスープをすすった。漏れてくるスープはコンソメに似ていて、濃厚でコクがあり、とても美味しい。
残った肉は、牛肉に似た味をしていた。さらに小籠包と違って、酸味のあるハーブのようなものが混じっている。ここの人たちは香辛料の類いが好きなんだな、と思いつつも大翔はヒンカを完食した。
「どうだった?」
「美味しかったです。普段あまり食べたことのない味なので、新鮮でした」
灯も美味いと思っているようで、ヒンカに次々と手を伸ばしている。ただしやっぱり話は聞いていないみたいで、先端までキッチリ全て食べきっていた。
「ヒンカを食べたことがない人っていうのは珍しいな。リシテアではかなり有名な料理なんだけど」
「それじゃあ、キロロの近くの出なのかね? 服も見たことがないつくりだし。あそこの海産物は、そのまま焼くだけでもそりゃあ美味しいそうだから……一度行ってみたいんだけどね」
「はい……その近くです」
話の流れはさっぱりなのだが、全くの無知と分かると相手に体よく利用されるかもしれない。まだ心の底からラシャを信用しているわけではない大翔は、曖昧に濁しておいた。
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