第3話 炎の化身たれ

「……何?」


 あから、が顔をしかめるが、高校生は大翔ひろとの方に近付いてきた。はっきりと敵意の籠もった視線を向けてくる。


「お前、朝に俺の腕に触ったよな。あれからえらく腫れててさ、病院に行ったら骨にヒビが入ってるとよ」

「自分でやったんだろ。俺は軽く払っただけだ。あれで骨が折れたとしたら、よっぽどカルシウム不足なんだな」


 大翔が皮肉で返すと、高校生はやに下がった笑みを浮かべた。


「触ったのは認めるんだろ? 俺が後から自分でやったなんて証拠がどこにある。逆にお前が俺に触ったことは、何十人もが見てるんだぜ」


 高校生はさらに近づき、大翔に顔を近づける。煙草とニンニクの匂いが入り交じった、不快な息が大翔にかかった。


「お前、いい家に住んで良い子ちゃんしてるんだよな。喧嘩で相手にケガさせたなんて知られたら、困るのはお前だけで俺じゃねえんだ」

「……本物のバカだな」


 大翔が呆れるのを見て、高校生の眉間がぴくぴくと動いた。


「俺はな、お前とか横の女とか、のんびりしてるお金持ちの奴らってのが大嫌いなんだよ。ちょろちょろしやがって、目障りだ」

「目障りだろうなあ。幸せそうな人間を見ると、自分がバカにされたように感じて惨めになるんだろ? その感覚を味わいたくないから、無理矢理排除しようとするんだろ? お前はそうやって、一生全部を人のせいにしたまま生きてくんだろうな」


 大翔は息継ぎなしで一気に言い返した。高校生は派手に表情を歪めたが、思い直したように大翔から離れる。


「好きに言いやがれ。どの道、このケガを職員室で見せびらかせばお前は終わりなんだからな」


 高校生は言い放つと、足音高く学校の方へ向かっていく。一部始終を見ていた灯が、大翔の服の袖を強く引いた。


「大翔!」

「……お前のせいじゃない。俺がちょっと不注意だっただけだ。精一杯弁解してみるが、指定校推薦はダメになるかもな。人気の学校で、他にも候補はいっぱいいるから」

「それでいいのか!?」

「良くはないが、仕方がないってだけだ。ほら、お前は目につかないよう隠れてろ」


 大翔の忠告を、灯はまともに聞かなかった。一瞬見失うほどのスピードで走り出したかと思うと、高校生の傍らをすり抜けて前に回り込んでいる。さすがに唖然とする高校生に向かって、灯はとがめるように両手を広げた。


「取り消せ」

「あ? なんだよブス。お前が俺の相手してくれんのか?」

「大翔への強迫を取り消せ。お前が全部仕組んだんだろう」


 灯が珍しく、周囲にはっきり聞こえる声をあげた。ぽかんとしていた大翔は、慌てて灯を止めに入った。


「おい、やめろ。お前は喧嘩に首をつっこむな。いつもみたいに、黙って流してればいいんだよ」


 大翔が言うと、灯が振り返って視線を向ける。それは救いを求めているものではなかった。


「……大翔。お前は私を、気が長くて悪口を受け流せる奴だと思っているだろう」


 その通りだったので、大翔は困惑しながらもうなずいた。


「実際は違う。人より些細なことで腹が立つし、心の中ではお前より遥かに意地が悪いことを考えている。両親のことで当てこすられると、そいつを殺してやろうと思うくらいだ」


 何が言いたい、と聞き返した大翔に、灯はさらに言う。


「だが、私は決して喧嘩はしない。なぜだか分かるか?」


 冷ややかに言い放った灯の顔には、感情がまるでなかった。大翔はもちろん、それを見た高校生も勢いを削がれて驚いた表情になっている。


「──私が喧嘩をしたら、必ず相手を殺さなければならないからだ」


 灯の顔が急に険しくなった。


「すまん、大翔。私はそれを知っていて……こいつと喧嘩をしたいと思ったんだ」


 灯はそう言うと、立ちくらみでも起こしたかのようにふらっと前に体を倒した。夕暮れの闇が濃い暗い道に、一瞬紅蓮の炎が走ったように見えて、大翔は思わず自分の目を疑う。


 しかしそれは錯覚ではなかった。炎はさらに空間を駆け巡り、灯の艶やかな髪がその光を受けて輝く。跳躍する炎が近くのゴミに燃え移って、激しい火炎となり始めていた。


「な……なんだよこれ!?」


 歯ぎしりする高校生に向かって、炎が突進する。渦巻いたそれはあっという間にひと一人を飲みこみ、火炎で押しつぶそうとするようにますます寄り集まっていく。恐ろしく太い柱のようになった炎の中から、言葉になっていない絶叫が聞こえてきた。


「灯、なんだこれは! やめろ!」


 異常な事態に、大翔は声を張りあげる。それを聞いて振り返った灯を見て、大翔ははっと息をのんだ。


 灯の能面のような顔の中央にある双眸が、真っ赤に輝いている。そして頬のところに、鳥の羽のような赤い痣が浮かび上がっていた。それだけでも奇妙なのに、彼女の長い髪も毛先から徐々に赤く染まろうとしていた。


 赤く染まった髪から、ますます炎が溢れ出してくる。炎は唸りを上げてさらに動き、路地に面していた全ての硝子窓を割り破った。無数の硝子片が路地に降り注ぐが、それは灯にも大翔にも当たらず、次々に地面に突き刺さっていく。


「……あら、嬉しや。外に出られた」


 灯の喉から、しっとりとした大人の女の声が漏れた。その異質な響きに、大翔は思わずよろめくように一歩後ろに下がる。


 熱で変形した路地沿いの扉が耳障りな音をたてた。かろうじてそちらを見ると、その扉のあったところに、何やら真っ黒な渦が生じている。見るからに毒々しいそれは、灯の存在に呼応するようにますます大きくふくれあがっていった。


 夕日で相手の顔が見えにくい中、異質なものになりはてた茜は、大翔の方を振り返って薄く笑う。彼女が軽く首を振ると、彼女の赤くなった髪から生まれた炎が大翔の方に吹き付けてきた。


「さあ、帰るとするか。我が依代、我が友よ」


 もう炎は、大翔から数センチの距離にまで届いていた。しかし消そうとか逃げようとかいう思考が浮かばず、大翔は縦横無尽に駆け回る炎の渦に目を見張るしかない。


 炎が大翔の足を包んだ。全身に衝撃が走ったが、不思議と熱さは全く感じない。目の前が真っ赤な炎に埋め尽くされ、その合間にあの渦のものらしい黒色がちらちらと見える。

 次の瞬間、大翔の体がすさまじい速さで引っ張られた。壁にぶつかる、ととっさに思った大翔はくぐもった声をあげる。目を閉じられもしないのに、視界がいきなり真っ暗になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る